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青柳いづみこのメルド日記


2007年1月20日/カザフスタンのコンクール( I )

  2006年12月4日から8日まで、カザフスタンの国際ピアノ・コンクールの審査員をつとめた。
  ・・・と書いても、カザフスタン? それ何? どこにあるの? という疑問が真っ先にくるだろう。私が友人たちに話したときも、えっ? カザフ? そんなところでピアノ弾いてる人いるの? てな反応が一番多かった。
  おのおの方、控えおれ、このご印籠が目にはいらぬか? 何しろカザフスタンは、あまたの名ピアニストを輩出した旧ソ連の国なのである。少なくともピアノはものすごいレヴェルにちがいない。旧ソ連が崩壊して以来、あの強固な教育システムは、とみに頽廃していると伝えきくモスクワ音楽院ではなく、かえって周辺のアジア諸国にひきつがれているのではないだろうか。これはオモシロイぞ。私は、そう思った。
  カザフスタンは中央アジアの北部を占める大国で、北はロシア、東は中国、南はキルギスタンとウズベキスタンに接し、西南部はカスピ海に面している。コンクールが開催されるカザフ最大の都市アルマティは東南部の国境近くにあり、山の向こうはキルギスタン。現在は首都ではないが、各国の大使館などはそのまま残っている。コンクールを主宰するのはそのアルマティにある国立音楽院である。コンクールは不定期に開催され、2006年度は第3回に当たるという。
  きっかけは、2006年の8月ごろ、勤め先の大阪音大の学長先生からかかってきた一本の電話である。のっけから、カザフスタンの国際コンクールの審査に行っていただけませんか? というお話だった。音大と姉妹校の関係にある韓国・啓明大学の前学長、キム・ナネ先生がコンクールの審査員をつとめており、主宰者との話し合いで大阪音大からひとり審査員を出してくれないかと依頼があったという。
  ところが、コンクールが開催される12月4日〜9日は、音大では卒業試験期間にあたっており、ちゃんとした専任の先生は誰も行くことができない。私は年16回の契約なので、学部の卒業試験は聴かなくてよいことになっている。昔からシルクロードが大好きだったし、アフガニスタンとかウズベキスタンとか、「何とかタン」とついている国にはとても惹かれるものがある。旧ソ連の国々の音楽状況にも大いに興味がある。万障くりあわせて(本当に万障だった・・・朝日カルチャーセンター、JMLセミナー、ピティナ杉並支部の方々、ごめんなさい!)審査をお引き受けすることにした。

  引き受けたのはよいが、コンクール側からなかなか情報が届かない。仲介役をつとめてくださるキム・ナネ先生もメールを打ってくださるのだが、いっこうに返事がこない。あとでわかったことだが、カザフ側のインターネット接続に問題があり、そもそもメールが全然届いていなかったそうだ。
  そんなこんなで、コンクールの要項が届いたのが10月はじめ。生徒さんたちに宣伝してくださいと書いてあったけれど、応募の締め切りが10月1日で、全然間に合わなかった。
  それからも大変だった。カザフスタンの入国にはヴィザが必要で、ヴィザを得るためには事務局の招聘状が必要なのだが、それもいっこうに届かない(これもあとでわかったことだが、手紙は月に2回しか行かない音大の方に送られていた・・・)。仕方なく、領事館に問いあわせるのだが、これまたひと仕事。電話するとロシア語と英語と日本語で応答があり、「日本語の方は何番の番号を押してください」というメッセージが流れるから、日本語の番号を押すと、「ただ今大変電話がこみあっておりますので、のちほどおかけなおしください」というアナウンスがくり返される。どんなタイミングで電話してもいつもこれで、毎回「ロシア語の方は何番・・・」と手順をふんで、最後まで行ったところで「ただ今大変電話がこみあって・・・」となる。そんなにカザフに行きたい人、たくさんいるの? 
  ようやく担当の人がつかまり、招聘状がなくても個人の資格でヴィザが取得できることが判明したのは、数知れない無駄打ち電話をかけたあとだった。
  飛行機の問題もあった。これがまたややこしい。コンクール側からは、東京−アルマティのラウンド・トリップのチケットを出すと言ってきたが、私の方は12月15日にパリ日本文化会館のレクチャーコンサートがあり、できたら帰らずにそのまま行きたい。
  HISでカザフスタン−パリの飛行機について問い合わせたら、直行便はないのでフランクフルトかアムステルダム経由になるが、格安便がなく、40万円ぐらいかかると言われた。事務局は、あくまでも東京−アルマティ間の往復ぶんとして1350ドルしか出せないと言っているから、これは論外。かといって、いったん日本にもどり、パリまでの往復チケットを買うのもしゃくにさわる。なんとか、日本からパリまでの往復と、経由地−カザフスタンの往復をうまく組み合わせることはできないだろうか。

  ここから、ネットで旅行会社のサイトを探しまくる日々がつづいた。
  モスクワ経由はたくさん飛んでいるが、かなり戻る感じになるし、モスクワでの途中降機が認められないから、これも使えない。ソウル経由の飛行機で一番安いのがアシアナ航空だが、週1便、木曜日にしか飛んでいない。ところでコンクールが始まるのが月曜日で、終わるのが土曜日だから、アシアナ航空を使った場合、開始まで5日間も待ち、終了後さらに5日間も余ってしまう計算になる。
  カザフスタンの会社であるアスタナ航空も週1便で、こちらは着発とも月曜日。コンクールのオープニング・セレモニーをパスすれば使えるが、そうすると今度は、パリに行くときに問題が生じる。ソウルの空港はストップオーバーを7日間しか認めていないため、大韓航空のパリ行き往復をとり、ソウルからアスタナ航空を使ってアルマティに行き、審査を終えてまた月曜日に戻った場合、その日のパリ行きの飛行機はすでに発ってしまったあとで、8日めに突入することになる。ということは、一度日本まで戻ってもういちど旅程をやりなおさなければならない。
  ソウル経由はあきらめて、北京経由を探す。北京経由は週に3便。しかも、日曜日に到着し、土曜日に出発する便がある。中国国際航空のパリ行き往復便も出ていて、5万9千円と安く、しかも北京での滞在期間に制限がない。日曜便で成田から北京経由でアルマティに出発し、土曜便でいったん北京に帰り、一泊して翌日パリに向かう。ちょっと行きつ戻りつになるが、日本に戻るよりは効率がいい。問題は飛行機代で、ソウル経由より高い上に、石油が豊富なカザフスタンの航空会社より石油チャージ料も高い。ここで事務局と交渉する。1350ドルというのは、おそらくソウル経由のチケット代金
だろうが、コンクールの期日に間に合わせるためには北京経由で行く必要があるのだから、北京経由で計算したラウンドトリップ代を出してほしい。これはOKが出た。
  しかし、アルマティ到着が朝の4時15分! 言葉もわからない、元共産圏の国でまだ夜が明けないうちに空港に降り立ちたくない。事務局に確認したら、どんな時刻に到着しても迎えにきてくれるとのこと。安心して、成田−北京(中国国際航空)、北京−アルマティ−北京(アスタナ航空)、北京−パリ−北京−成田(中国国際航空)というややこしいチケットを購入することになった。

  北京行きの飛行機は12月3日の19時出発。17時にカウンターでチケットを受け取ったが、ここで荷物の問題がもちあがった。カザフスタンの12月は常に氷点下の気温。毛皮のコートだとか厚い下着とかで荷物がかさばる。パリのレクチャー・コンサート用のドレスや着物も入れなければならない。スーツケースが20キロちょっと。ドレス入れが1個。手荷物が1個で、パソコンがはいっているから重い。チェックインの際に、手荷物は5キロまでになっていると言われて肝を冷やした。結果的には飛行機に積む荷物は30キロまでOKで、ドレス入れも預けることにして事なきを得た。
  問題は乗り継ぎで、中国国際航空とアスタナ航空は提携がないため、いったん北京で荷物をひきとり、再度チェックインしなければならないという。飛行機が北京に着くのは22時。アスタナ航空が出るのは次の日の午前零時30分。あんまり時間がないぞ。おまけに、そのフライトをミスしたら、大変なことになる。というのは、アルマティ行きの飛行機は週に1便しか飛んでいないからだ! 荷物がちゃんと出てくるかどうかも心配だし。
  やきもきしながら乗り込んだ中国国際航空は、ツアーの日本人客でいっぱいだった。海外旅行はじめてらしきおじさん、おばさんもいる。機内サービスはあんまりよくなくて、ワインを頼んだら小さなコップにほんのちょびっと注がれるだけだったが、機内はすいていて、3人がけの座席を倒した状態で横になって眠ることができた。 
  目をさましたときはすでに到着時刻の22時で、飛行機はまもなく降下しはじめたが、ちゃんと20分遅れで北京国際空港に到着してくださった。しかも! あちこちでとんでもなく手間取ったのだ。なるべく早く出られるように、飛行機が止まった瞬間に荷物をとり、前の方で待っていたのに、最初のパスポートコントロールでひっかかってしまった。どうも検疫審査のカードを出せということらしい。いっしょに乗り合わせていたツァー客は機内でわたされていたらしいが、一人客は無視されてしまった。トランジットなのにと思ったが、仕方がない。また、書類が中国語だけで何のことかさっぱりわからない。これで大幅に時間をくった。
  やっと書き終え、大急ぎで入国審査場にかけつけると、ツァーの連中は皆並んでいる。間に合ったと思ってほっとしたのも束の間、また入国カードを書かなければならなかったのだ。ここでさらに時間をくい、また大慌てで荷物のところに行く。幸い2つともでてきたが、無事荷物を引き取ってカートに乗せ、やっと出られると思ったら、今度は税関カードを書かなければならなかったのだ。もう、うんざり。いったい何枚書けばいいのだろう。ツァーの先導役のおじさんが同情して、名前だけ書いておけば、ツァー客にまぎれてでられるよと言ってくれた。

  やっとこすっとこ出たのはいいが、さて乗換便はどちらに。空港内にいる人にチケットを見せて英語できいてみるが、なかなか通じない。やっと2階に行けばいいと教えてくれた人がいて、出発ロビーにたどりつくと、今度はまた出国審査のカードを書けというのだ。だからトランジットなのに。今度のカードはちゃんと英語もついていてわかりやすかったが、便名をいつも忘れてしまうのでそのたびごとにチケットの半券を探したり、おおさわぎだ。
  ここですでに出発前1時間。チェックインが締め切られてしまっているのではないか、荷物の制限があったらどうしようなどと心配したが、アスタナ航空の中国人のお兄ちゃんはすごくさばさばして2つとも全然オッケーで手荷物にも制限がなかった。
  もう真夜中だったのだが、免税店はまだあいていた。マオタイ酒を探したが、置いていないというので、マオタイに似た蒸留酒を1本買った。とにかく、カザフスタンのホテルがどんな状態だかわからない。飲み物など何も置いていないかもしれないし、寝酒だけは確保しておかねば。
  買い物をすませ、手荷物検査(けっこううるさくて、カコナール液状の壜を全部あけられてしまったが)もすませてゲート前でぼーっとしていたら、テレビでアジア大会の模様を放映していて、ちょうど200メートル背泳ぎで中村礼子が優勝したシーンをやっていた。日本にいたらテレビにかじりついていたところだろう。
  アスタナ航空の機内はゆったりしていてクッションもよく、快適だった。北京行きの飛行機と同じぐらいすいていて、座席を3つぶん倒して寝られる。食事もビーフストロガノフ風でおいしかったが、食前酒でウォトカを頼んだのに、ないという。仕方なくウィスキーの水割りを頼んだ。おまけに、食事中にワインのサービスがない。チーズとハムのデュッシュをとっておき、コーヒー、紅茶がまわってきたときにワインを頼んだ。こちらは大きなコップで出てきた。着陸前には入国カードも配ってくれたし。
  やはり30分ほど遅れて到着し、荷物も無事2つとも出てきたが、ここからが大変だった。さすが旧ソ連の国。出口におっかなそうな警官がたくさんつったっていて、私のスーツケースをさし、税関のコントロールを受けろという。
  旅行案内書によれば、CIS諸国以外から入国した者は貴重品や外貨を申告する必要があり、出国するときにあまり外貨が増えていると没収されることもあるという。くわばら、くわばら。おまけに言葉がまるっきりわからないし・・・。ここで、音楽院から派遣された通訳のお姉ちゃんがすっとんできてくれなかったら、どうなっていたかわからない。旅行かばんはもとより、衣装ケースまであけさせられ、毛皮のコートを指してこれだけか? ときく。毛皮のコートの後ろに隠しておいた着物が見つからないかヒヤヒヤした。
  通訳の姉ちゃんが、彼女は国際コンクールの審査員で、何とかかんとかと一生懸命説明してくれて、無事無罪放免に。ロシア語もカザフ語もチンプンカンプンだし、所持金を調べられていたらやばかったかもしれない。とにかくカザフに行くときは、荷物は少なめに、質素な格好をしていったほうがよい。 

  姉ちゃんはシディングという名前。カザフの大学のピアノコースの学生で、英語が話せるので通訳兼世話役を頼まれたという。彼女と、彼女のお母さんといっしょに車でホテルに行く。これがまた、メールでブッキングナンバーまで教えられていたホテル名と違う。アルマティ・ホテルときいていたのに、アルマ・アタ・ホテルという(のちに、アルマ・アタはアルマティの旧名であることが判明した)。
  フロントで1人用か2人用の部屋かときかれたので1人用と答えたのがよくなかったらしい。通された部屋はとても狭く、シャワーしかついていなくて、おまけにとても寒い! 何しろ、外は零下の気温だから膝が冷えてやりきれなくなった。半身浴ができるようになっているシャワーの水槽の栓がないので、お風呂で体を温めることもできない。せめて栓だけでもほしいと思ってフロントに行った。
  くりっとした目の日本人みたいな顔をしたお姉さんに栓の絵を書いて説明したら、大きくうなづいて「ゼイ・カミング・スーン」という。でも、いつまでたっても「ゼイ」はやってこないのでまた降りていった。フロントの姉ちゃんもうんざりしたうな顔で何回も係の人に念を押す。10分ほど待ってやってきたのはいいが、工具箱のようなものを下げたおじさんで、洗面所にはいって、お湯を出したり何やらガチャガチャやっている。いや、お湯は問題ないので、栓があればいいんだと説明するのだが、英語が全然わからなくて、ロシア語だかカザフ語だかで何だか言っている。
  しばらくしてできたというから言ってみたら、やっぱりわかってなくて、前から問題なく出てでいたお湯の栓をひねって、ちゃんと出るようになったと自慢げに示してみせる。「そうじゃなくて栓なんだ!」とさわいだらわかったわかった、持ってくるというようなそぶりで出ていった。でもいっこうに戻ってこない。
  再びフロントに降りていく。寒くて仕方ないと言ったら「わかってます、だから暖房器具を入れるように言ったが、もうそちらに行ったか」と言うので、おじさんは全然理解していない、暖房器具はもってこない上に、栓ももってこなかったと言ったら、何のことかとききかえされた。何だ、フロントのお姉さんからしてわかってなかったのか。
  それで、ようやく工具おじさんが栓をもってあらわれたが、暖房器具は? ときくとまたわかったわかったというそぶりで出ていった。それからいっかな待ってもこないので、とにかく半身浴をすることに。これが意外に気持ちよくて体も温まった。

  工具おじさんがこないまま集合時刻の午後1時になり、ホテルのロビーに降りていく。通訳のシディングと、ウズベキスタン音楽院のマラト・グマノフ教授が待っていた。
  一歩外に出ると、ものすごく寒い! てっきり車で送ってくれるものとばかり思って、インナー付きの皮のコートの下はワンピースだけ、帽子もかぶらずに行ったら、音楽院は徒歩数分なので歩いていくという。薄いワンピース一枚のひざがじんじん冷える。
  そしてまた、音楽院そのものもそんなに温かくなかったのだ。石油でうるおっているはずなのに、なぜ? きくところによると、アルマティ市で何かが故障して市全体が寒いのだとか。
  音楽院はソ連時代の郵便局を改造したと建物ということで、うなぎの寝床のようにつぎはぎ細工。絨毯の敷かれた長い長い廊下を歩き、ドアのひとつを開けると細長い部屋があらわれた。昼食は最後の晩餐のように細長いテーブルでとることになっているらしい。
  最初に出されたのはビーツのスープ、サワークリームかけ。おいしいけれどとても冷めている。ホテルで昼食をとると高くつくので、音楽院の厨房で先生たちがつくっているのだが、いったん外に出て雪道を運んでくるので冷めてしまうのだそうな。ということはカザフの家庭料理が味わえる! 一番ティピカルなカザフ料理だといって、馬の肉をくるくるロールしたようなものをすすめられた。クセがなく、とてもおいしい。メインディッシュは飛行機の中で出た料理に似たビーフストロガノフ風バタライス添え。飲み物はミルクをたっぷり入れた紅茶で、コーヒーはネスカフェしかない。甘いお菓子がずらりと並んでいた。
  ここで、アルマティ国立音楽院の院長でコンクールの創設者でもあるジャニア・オーヴァキロヴァ夫人が登場。たった今までコンサートで協奏曲を弾いていたので到着が遅れたとあやまっている。
  あとでプログラムの経歴を見てわかったことだが、オーヴァキロヴァ夫人はモスクワ音楽院出身で、ブーニンが優勝した1983年のロン=ティボーで2位を得たピアニスト。カザフスタンが独立するのは1991年のことだから、このころはもちろんブーニンと同じくソ連国籍だったわけだ。60〜70年代のピアノ界はソ連の天下で、64年から75年まで4回連続で制したエリザベートをはじめ、ソ連のピアニストが来るという情報がはいると、それではもう勝てないと、西側の受験生があきらめてしまったほどのいきおいだった。

  ソ連邦という国家体制に守られているときの演奏家は、不自由さはあるけれど、活動には困らなかったらしい。しかし、ソ連が崩壊してみると、悲惨なことになった、とオーヴァキロヴァ夫人は語る。コンサートは年に一度しかない。アルマティ音楽院の設備は貧弱で、備品もとぼしく、ピアノはガタガタだった。
  しかし、幸いにして国には石油・ガスをはじめとした資源が豊富にあり、二〇〇〇年以降は経済的に急成長をとげ、ナザルバエフ大統領の手腕もあって中央ユーラシアを代表する大国として国際的にも注目される存在になりつつある。
  オーヴァキロヴァ夫人は国に働きかけ、カザフの音楽院にいろいろな設備を得るためにあちこちに援助金を要請し、テレビや新聞のインタビューを受け、獅子奮迅の活躍をしてきたという。パリでヤマハの人にきいたら、カザフにはまだヤマハのピアノがはいっていないので楽器は期待できないですよ、と言われていたのだが、実際には2〜3年前にODAを通してアップライトのピアノを10台ほど寄付したのだそうな。援助金をもらうためには嘆願書を書く必要があり、すすめられて書いたところ、病院の次の順番
で当たったので、ラッキーだったとよろこんでいた。
  ここでトースト・タイムがあり、オーヴァキロヴァ夫人から、何かスピーチしろと言われる。国際コンクールの審査ははじめてであること、旧ソ連のすぐれた教育の伝統がひきつがれているであろうカザフスタンの音楽事情を知る機会を与えられてとてもうれしい、と話した。オーヴァキロヴァ夫人は、以前のモスクワ音楽院と同じことをやるのはとてもむずかしいと言っていたが。
  昼食後、少しピアノを練習することにした。コンクールの初日は受験生の演奏順を決める抽選会を兼ねたオープニング・セレモニーが開かれ、審査員の演奏タイムもある。最終日にはファイナル・コンサートも予定されており、事務局から、どちらかで5分ほど演奏して下さいませんか? という問いあわせがきていた。審査中に練習時間がとれるかどうかわからなかったし、審査をしたあとで受賞者たちといっしょに弾くのはなかなかプレッシャーがかかることなので、オープニングで弾きましょうと言っておいたのである。
  セレモニーが開かれる大ホールは別棟にある。3階までのバルコニー席とパイプオルガンを持ち、スタンウェイのフルコンが2台並ぶ、とても美しいホールだ。ステージにはオーケストラの譜面台がところせましと並んでいて、ピアノは端っこのほうに置かれている。蓋だけあけてもらってひととおり弾いてみた。タッチは悪くないが、裏でオケが練習しているのでほとんど自分の音が聞こえない。
  そのとき私は、花柄のミモレ丈のワンピースを着ていた。ホールがあまりに立派なので長いドレスに着替えたほうがいいのではないかと思ったが、シディングにきいたら、靴だけかえればいいという。銀のステージ靴をもってきていたのでブーツから履き替える。

  セレモニーの最初には、カザフの民族オーケストラの演奏が置かれていて、これがものすごくおもしろかった。大相撲の朝青龍のお父さんがかぶっているような先のとんがった帽子、前みごろに金糸で華麗な刺繍をほどこしたベルベットの上着とズボンを身につけたプレイヤーたちが、さまざまな楽器を弾く。
  カザフスタンの民族音楽は遊牧民系で、楽器は50種類以上あるという。琵琶に似た二弦のドンブラーは弓を使わずに掻き鳴らす。ひしゃくのような形のコブスは弓を使って弾く。馬のたてがみの弦を七本張ったジンチゲンは日本の琴に似た長方形。打楽器のダングイラはシンバルのように鈴がついている。
  なかでもすばらかったのはドンブラーで、手首をはげしく振って演奏するのだが、その速さが尋常一様ではない。音楽は遊牧民系なのだろうか、常にアグレッシブでアップテンポ。最初の曲が速かったから次はゆっくりかなと思っていると、ますます激しくなる。演歌のように嫋々たる面は、少なくとも演奏された曲目の中にはなかった。常にはげしく、つねにアップテンポ。この感じは、のちに聴いたカザフスタンの学生たちのピアノに共通していたのである。
  どの奏者も誇らしげに胸をはり、顔を輝かせながら演奏している様子が印象的だった。
  次のプログラムからはクラシックで、カザフスタンのオルガン奏者がバッハのトッカータを、カザフスタンのカルテットがシューベルトを演奏したが、民族音楽のときのような奔放さや自在さは影をひそめ、制約の多いクラシックの中で、いささかかしこまりすぎているような印象がある。あらためて、クラシックって何なんだ、と考えこんでしまった。
  そのあと審査員の紹介があり、いよいよ審査員の演奏。カザフスタンに到着する飛行機の本数が少ない(フランクフルトやアムステルダムからは週に2便)せいもあり、オープニングの段階では審査員の半数しか到着していない。ウズベキスタンのグマノフ氏やモスクワ音楽院のスタニスラス・イゴリンスキー教授は演奏せず、私の他にはロンドン、ロイヤル・アカデミー教授のヘイミッシュ・ミルン氏が弾くことになった。
  ミルン氏はグラナドスの『ゴイェスカス』から2曲、私はドビュッシーの『前奏曲』から「亜麻色の髪の乙女」と「沈める寺」の2曲。賑やかなカザフの民族音楽とは正反対なので受けないのではないかと心配したが、聴衆から受ける感じがとても暖かく、思う存分歌うことができたし、ゆっくりな曲なのにけっこう客席も沸いたりして、気持ちく弾くことができた。
  コンサート終了後、いっしょに演奏したミルン氏が、とてもセンシティヴでステキなプレリュードだった・・・と握手しにきてくれたし、オーヴァキロヴァ夫人もとんできて、色彩感と繊細さに感激した、と(大げさでもお世辞っぽくもなく)言ってくれたのでほっとした。
(以下次回)

MELDE日記・目次
2006年9月12日/10冊めの著作が出版されます!
2006年6月20日/美術とのコラボレーション
2006年1月5日/750ユーロの時計
2005年10月25日〜11月2日/セザンヌの足跡を追って──南仏旅行記
2005年9月30日/『ぴあ・ぴあ』ただいま7刷中
2005年8月28日/”気”の出るCD?
2005年7月6日/ラジオ深夜便
2005年6月23日/ぴあ・ぴあ
2005年5月30日/第7回別府アルゲリッチ音楽祭
2005年4月10日/朝日新聞の書評委員
2005年3月27日/ジャス・クラブ初体験
2005年3月20日/パリでメルド! トーキョウでメルド! 2)
2005年2月26日/パリでメルド! トーキョウでメルド! 1)
2005年1月5日/吉田秀和さんの留守電
2004年12月20日/音楽は疲労回復に役立つ!
2004年11月22日/有名にならない権利:クートラスとアルカン
2004年10月23日/14年越しのエッセイ集
2004年10月5日/プレイエルとベヒシュタイン
2004年8月25日/アテネ五輪 アナウンサーと解説者のビミョーな関係
2004年年7月4日/松田聖子体験
2004年6月1日/「メロン三姉妹」と美智子さま>
2004年4月16日/アンリ・バルダ追っかけ記
2004年3月10日/小さな大聴衆
2004年1月20日/大変なんです!!
2003年12月12日/テレビに出てみました
2003年9月13日・14日・15日・16日・17日/方向音痴のシチリア旅行 その II
2003年9月10日・11日・12日/方向音痴のシチリア旅行 その I
2003年9月8日/アンリ・バルダの講習会
2003年8月17日/東京湾大花火大会
2003年7月28日/世界水泳2003バルセロナ
2003年7月11日/新阿佐ヶ谷会・奥多摩編
2003年5月31日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[III]
2003年5月28日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[II]
2003年5月22日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[I]
2003年5月3日/無駄に明るい五月晴れ
2003年4月5日/スタンウェイかベーゼンか、それが問題だ。
2003年2月12日/指輪
2003年1月13日/肩書き
・2002年12月23日/ 年の瀬のてんてこまい
・2002年12月9日/批評とメモ
・2002年11月6日/アンリ・バルダのリサイタル
・2002年10月21日/なかなか根づかないクラシック音楽
・2002年9月26日/青山のブティック初体験
・2002年9月3日/鹿鳴館時代のピアノ
・2002年7月19日/竹島悠紀子さんのこと。
・2002年6月13日/ 生・赤川次郎を見た!
・2002年5月6日/海辺の宿
・2002年3月28日/新人演奏会
・2002年3月1日/イタリア旅行
・2002年2月5日/25人のファム・ファタルたち
・2002年1月8日/新・阿佐ヶ谷会
・2001年11月18日/ステージ衣装
・2001年10月26日/女の水、男の水
・2001年9月18日/新著を手にして
・2001年8月/ホームページ立ち上げに向けて


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