2005年10月25日〜11月2日/セザンヌの足跡を追って──南仏旅行記
最初は、セザンヌなんかに興味はなかったのだ。あんまり抽象画になりすぎた絵も嫌いだが、具象的な絵も好きではない。私の好みはベルギー象徴派やラファエロ前派、ギュスタヴ・モロー、レンブラント。人物や風景を克明に描いているようで、実は裏返しの意味──それも邪悪な──があるような画家たちだった。
2006年はセザンヌの没後100年に当たるという。この「聖年」という考え方も、あんまり好きではない。別に生まれてから、あるいは死んで100年たったからといってアーチストが急にえらくなるわけではない。もちろん、死後100年間も名前や作品が残っているというのは、それはそれで大変なことではあるけれども。
私の願いはただ、南フランスに行きたいだけ、それだけだった。
文芸評論家の川本三郎先生から、JALの機内誌「アゴラ」の編集部が、10月ぐらいに青柳にマルセイユに行ってほしいと言っている、というお便りをいただいたのは、8月のことだったかしら。
すごく漠然とした書き方だったし、何のために、とも、どのぐらいの期間、とも何とも書いてなかった。いずれ編集部から連絡があるでしょう、そのときはよろしくといった感じで、連絡先も記してなかったが、私はすぐに電話をした。どこにって、唯一手元にあるJALのマイレージカードの電話番号に。
実は、8月にフランスに行くつもりにしていた。『ピアニストが見たピアニスト』でとりあげた恩師ピエール・バルビゼの未亡人がまだ健在でマルセイユに住んでいる。取材のお礼とヒットの報告を兼ねて本を届けたかった。取材対象のピアニスト、アンリ・バルダがナンシーの講習会の終了コンサートで室内楽を弾くという情報もはいっていた。
でも、9月には浜離宮朝日新聞ホールで演奏・文筆25周年のリサイタルがあり、それに合わせて昔のエッセイ集『ハカセ記念日のコンサート』(ショパン)も復刻されることになり、コンサートの準備や原稿整理で時間がとれず、断念したところだったのである。
JALのファーストクラスの乗客だけが読むという雑誌「アゴラ」編集部の水崎さんは、ちょっととまどっていたようだ。「まずホームページなどを拝見して、それからご連絡しようと思っていたんですよ」などとおっしゃる。まだ決めていなかったのかもしれない。何でもよろし。そのころ私は、身動きができなくなりそうな仕事を引き受けかけていて、その日ならまだ動かすことができたのだ。
依頼されたのは、エックス・アン・プロヴァンスに生まれ、南フランスで多く仕事をしたセザンヌの足跡を追い、彼がくり返し描いたサン・ヴィクトワール山をはじめ数々のスポットを訪れて「アゴラ」に記事を書くことだった。なぜ私に話が来たかというと、かなりややこしくて、まずパリ在住のカメラマンに撮影の依頼が行き、ついでカメラさんの友人の女流画家がナビゲーターとして雇われ、さらにその画家さんがたまたま私がマルセイユに留学したことを知っていたらしい。
”青柳いづみこさん”のことを知らなかった「アゴラ」編集部が、私の唯一の文庫本『ショパンに飽きたら、ミステリー』を取り寄せたところ、これまた、たまたま解説を書いているのが川本三郎先生だった。そして、たまたま川本先生は「アゴラ」に連載していらして、他ならぬ水崎さんが担当だった。そこで、編集部は川本先生に仲立ちを頼んだというわけだ。
ところで、どうして私がマルセイユに留学していたか、ということになると、話は長くなる。画家志望ならいざ知らず、音楽学生で文化的僻地の「ミディ」に留学するモノ好きは、そんなにいないはずだけれど。
フランスは早期教育で有名で、若くなければ評価されない国。最高峰のパリ音楽院にも年齢制限があり、21歳までに入学する必要があった。フランス政府給費留学生試験が実施されるのが大学2年の冬。折悪しくひどい風邪をひき、受験できなかった。仕方なく大学院にすすみ、修了後、恩師安川加壽子先生のすすめでマルセイユ音楽院への留学を決めた。年齢制限が少し緩いのと、安川先生の旧友ピエール・バルビゼが院長をつとめていた関係からだ。
私の前の留学生としては、ピアニストで東京音大教授の弘中孝さんがいる。何故マルセイユに行ったの? ときいたら、本当はサンソン・フランソワに習いたかった、でも、彼は弟子をとらないので、かわりに親友のバルビゼに習いに行ったのだという。なるほど。 マルセイユのオペラ座はローラン・プティのバレエ団が本拠地にしていたが、クラシック音楽のメッカはやはりパリだ。どうしても聴きたいコンサート、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスやモーツァルトのオペラ。学校が休みにはいると、いつもパリに出かけて行った。
お金がないから、夜行列車に乗る。二等のコンパートメント(車室)には、ところどころ破れめのあるベンチが向かいあって二つ。あいている車室を占領して鍵をかけ、長々と横たわった。朝目をさますと、自分がいったい北と南のどちらにいるのかわからないことがあった。
セザンヌのことはあまり興味がなかった私だが、「アゴラ」編集部から送られてくる資料を読むうちに、すっかり惹きつけられてしまった。彼もまた、この「北」と「南」の問題に直面させられ、それが創作の原動力にもなっていたことを知ったからである。
セザンヌは1839年、マルセイユから車で30分ほどの大学街エックス・アン・プロヴァンスに生まれた。父親は富裕な銀行家で、生家は町の目抜き通りクール・ミラボーに面している。やはりエクス生まれの作家エミール・ゾラとは1歳違いで、ブルボン高等中学の同級生だった。
1858年、そのゾラが作家になるためにパリに移ると、画家を志していたセザンヌもパリに出たいと考えるようになった。南にはあふれんばかりの自然があるが、南には画家仲間も美術学校も登竜門のサロン展もない。22歳の年、ようやく父親の許しを得て上京したセザンヌは、ゾラをお供にルーブル美術館やサロンを熱心に見てまわった。美術学校への入試にそなえるためにアカデミー・シュイスに通い、兄事するカミーユ・ピサロとも知り合ったが、パリの洗練された都会的な雰囲気になじめず、自分を「田舎者」と感じたようだ。友人あてに「エクスを離れる時、僕につきまとっていた物憂さをはるか後方に置いてきたと感じていた。しかし、場所を変えただけで、物憂さは依然として僕について来ている。僕がパリっ子になったなんて思わないでくれ」という手紙を書いたセザンヌは、たった5ヶ月滞在しただけで故郷に戻ってしまう。
わかるなぁ、その気持ち。南にいた人間は、北への憧れとともに、気おくれや疎外感に悩まされるものなのだ。マルセイユ音楽院で師事したバルビゼも、チリ生まれのマルセイユ育ちで、「南」まるだしのキャラクター。1975年にパリ音楽院の教授に任命されたものの、「パリ」の先生たちとそりが合わず、1年で追ん出てしまった。
マルセイユ音楽院のピアノのクラスでも、よくできる生徒がいると、なるべく早くパリに行け、とすすめるくせに、レッスンでは「パリには本物の音楽はない、あそこは軽佻浮薄で表面的なものがまかり通っている」と批判ばかりしていたっけ。
1862年(ちょうどドビュッシーが生まれた年だ)、23歳になったセザンヌは、パリとエックスに交互に住むことを考えつき、南と北を頻繁に往復するようになる。しかし、美術学校の入試には合格しない。サロン展にはことごとく落選する。かといって、落選仲間たちとも連帯感を持つことができない。マネを中心とするバティニョル派のたまり場カフェ・ゲルボアに顔を出しても、プロヴァンス訛りまる出し、やぼったい身なり、奇矯なふるまいで異分子扱いされる。1874年、サロン展の落選画家が集まって開いた「第一回印象派展覧会」に出品したが、印象派の画風とも隔たりを感じて袂を分かってしまう。
南にも北にも居場所がなく、住居を転々としていたセザンヌは、また、彼の生きた時代にも居場所がなかった。「私はたぶんこの世に来るのが早すぎたのでしょう」と、晩年の1896年になって彼は若い友人への手紙で書いている。「私は、私の世代の画家というよりむしろあなた方の世代の画家だったのです。・・・モデリングを読みとることとその実際上の表現は、しばしば非常にゆっくりとしか理解されないものです」
資料を読むまでは、セザンヌは古いんだか新しいんだかよくわからない画家だった。ぱっと見た目の画風は、むしろ印象派よりも古くさい感じがする。ものの形が具象的に描かれているからだ。いっぽうでセザンヌは、ピカソやブラックなど、二十世紀の抽象画の先駆者とされている。彼の描く風物は画家自身によって感情移入されることなく、三角とか四角とか丸とか、フォルムに還元されて再構成される。セザンヌは、浮世絵に倣って平面分割の技法を研究した印象派の画家たちのように遠近法を否定したわけでもない。でも、よく見ると、セザンヌの遠近法はいろんなところに視点が設定されていて、見ていると目がくらくらしてくる。
たぶん彼は、自分にとっての「ものを見ること」「自然を解釈すること」をつきつめているうちに、十九世紀美術と二十世紀美術の間の敷居を超えてしまったのだろう。
こんなところが、取材旅行前の私のセザンヌ理解だった。
10月25日(火)
飛行機は午前11発のJAL。エクゼクティヴクラスの椅子はすぐれもので、ちょと見た目には、パーマ屋さんの洗髪椅子のよう。頭部には頭をもたせかけるように羽根が張り出していて、左右上下自由に動かせるようになっている。背中、腰部、足も各方向に動く。腰部には電動マッサージ機能までついていて、やんわりともんでくれる。ひじ掛けにウォッシュレットのようなスイッチがついていて、離着陸時の位置、ご飯を食べる位置、寝る位置と調節できるようになっている。寝る位置に入れるとフットレストがすっとのび、背中は水平になり、頭も水平になる。つまり、ベッドと変わらない状態になるのだ。食事はシャンパン(ハイドシェックの親戚にあたるピペ・エドシック)のサービスがあり、和食は京風料理でなかなかおいしかった。すっきりした辛口の大吟醸も飲み放題。食後にはブランデーとチョコレートのサービスもあり、ニコール・キッドマンの映画「奥様は魔女」を見ながら寝てしまった。
パリまでは快適だったが、マルセイユ行きの飛行機が遅れ、到着は8時。カメラの熊瀬川さんが運転するレンタカーで旧港そばのホテルに向かう。空港から市内までは20分ほどで着くはずだが、車のエンジンがなかなかかからず,ホテルへの道もわからず、さんざん迷ったあげく10時に到着。運転するカメラさんも「アゴラ」編集部の水崎さんも地図を用意していないことに驚く。10時には、取材対象のバルダの友人で、エジプトの大富豪だというセリム・セジャヌイ氏に電話することになっていたのだが、ぎり
ぎりで間に合った。
50歳のときに父親から遺産を受け継ぎ、遊んで暮らせるようになったというセジャヌイ氏は、パリとカイロを行ったり来たりしている。ちょうど間の悪いことに、26日朝にはカイロに発ってしまう。私がカイロに行こうと思っていた2月中旬には、滞在許
可の関係でパリに戻らなければならないという。バルダのことを少し話す。彼が、本当は世界をまわれるようなピアニストであるにもかかわらず、なかなかうまくいかないのは、不運だったこともあるが、多くは彼自身の性格に由来しているだろう、というような話をしていた。カイロのオペラ座に招いて協奏曲を演奏する機会をつくったのもセジャヌイ氏だったが、経歴やレパートリーを書き出すように頼んでも、自分は娼婦ではない、とニベもない。自分を売り出すための努力は一切しようとしないし、協力的でもない。そのくせ、演奏の機会が少ないことについては苦しんでいるらしい、とのこと。うーん。
電話のあと、ホテル内のレストランに行き、遅い夕食。バンドール産のこってりした赤ワインに子羊の料理。前菜に頼んだサラダには温めた山羊のチーズが乗っていて、とてもおいしかった。
10月26日(水)
ホテルのレストランで朝食をとる。ビュッフェ形式で、生ハムやフルーツ・カクテル、各種チーズ、ブルーベリーや無花果のジャムなどどれもおいしい。
10時半スタート。レンタカーでレスタックに行く。現在はマルセイユ市の20区に組み込まれたレスタックは,1870年,普仏戦争の混乱を避けてセザンヌが移り住んだ海辺の漁師町だ。港から坂道をのぼったところにある教会前広場2番地には、そのことを証明するプレートがはめこまれている。
広場前のテラスからは、セザンヌがくり返し書いた「レスタックの海」の風景がひろがっている。緑の少ない切り立った石灰岩の岩は, みる者に感情移入を許さない厳しさがある。それに比べて空と家と松の色は、どれほど人間味に溢れていることだろう。手前にプロヴァンス特有の赤レンガとと茶褐色のレンガが混ざった屋根。ところどころ松の木。青い海のはるかに遠くにはマルセイユの街。ノートルダム・ド・ラ・ギャルド寺院の塔もかすかに見える。でも、ここでは視点が低すぎてセザンヌの描いたアングルではない。
そこから「セザンヌの道」と書かれた坂道をさらにのぼると、やっと眼下に海をみおろすスポットに出る。「まるでトランプみたいなものです」と彼はピサロに宛てた手紙で描いた。「青い海に赤い屋根・・・太陽は凄まじい照りつけようなので、何もかもシルエットのように浮かび上がり、しかも白黒だけでなく、青や赤茶、紫の影絵に見えます」
でも、これもまたセザンヌの描いた図柄ではない。対岸のマルセイユの稜線は変わらない。ノートル・ダム・ド・ラ ・ギャルトの塔もある。たった一本の煙突も立っている。でも、海にはおびただしい数砂州がつくられ、鉄塔が林立している。130年前の漁村から大工業地帯に変貌したマルセイユの顔がここにある。
それでは、海の砂州と鉄塔を除けばセザンヌの絵は風景を忠実に描写したものになるのだろう。いや違う。よく見ると、画面の前方の家々は、どれひとつとして同じ方向を向いているものがない。ある家は斜めから、ある家は横から、さまざまな視点から眺められているのだ。セザンヌの絵は、一見具象画のようだが、根本的なところで異なっている。ここが、彼が20世紀のキュービズムを予告したと言われる所以だ。
取材と撮影を終えたあと、海辺のレストランで食事。しかし、ここはハズレだった。海の幸のフライは揚げすぎてカスカスになっている上に、量がめちゃくちゃ多い。イカのアルモリケーヌソースも、イカがゴムのように硬くておいしくなかった。
レスタックから車で20分ほど走ると、対岸に見えていたマルセイユの中心街、旧港に出る。ここにもヨットの帆柱が林立している。ぐるりと囲んだアーケードを歩き、マルセイユ石鹸の店などをウィンドーショッピングしているうちに、パスティスを売る小さな店を見つけた。パスティスはアニスのリキュールで、水を注ぐと白く濁る。典型的なマルセイユの酒で、バーにたむろするおじさんたちは、「リカール」と書かれた底の広い、口の狭い独特の瓶を前に昼間から鼻を赤くしている。
カウンターの奥には蛇口のついたステンレスの樽が置かれ、直接ビンに注ぐ形になっている。日本のつくり酒屋さんのようだ。ここで製造しているのか、ときいたら店の女主人はウイと言った。日本人かときいてきた女主人は、もう30回ほど日本に行ったことがある、と話しはじめた。現代美術の仲買をしていて、大阪や福岡には何度も行った。日本人は皆とても親切で、フランスことを知りたがってくれた。楽しい時間だった、という。どうして今は酒屋さんをやっているのかときくと, 少し悲しそうな顔で、日本の経済不況のために商売が立ち行かなくなって故郷に帰った、と言っていた。それでも日本はなつかしい。日本のことを考えただけで涙が出そうになる、とも。
ラベルのない瓶に、14種類ものハーブを入れたというパスティスを詰めてもらって店を出た。旧港はコの字型になっていて、向こう岸にわたるボートがでている。片道5ユーロ。ほんの数分の距離なのに、けっこう乗る人がいる。
以前、ロートレアモンの国際学会が開かれた「ヴィエイユ・シャリテ」からパニエ地区を歩く。くねくねした細い道や狭い階段をのぼって「風車の丘」と書かれた広場に出た。とてもフランスの風景とは思えない。家々の雨戸( ヴォレ) の薄紫や濃い紫が印象的だった。プラカードには、17世紀には14基あった風車が、19世紀末には3基に減ってしまったと書かれている。マルセイユ版モンマルトルだ。
急な階段をおりて再び旧港に降りると、遊覧船の発着場がある。カランクと呼ばれる入り江をめぐるクルーズ船があるのだが、もう出たあとだったので、明日乗ることにした。船は2時に出るが、1時15分に来い、と言われる。
一番の目抜き通りカヌビエールを少し歩く。表通りより裏通りによい店がある。「アゴラ」の水崎さんはダウンのコートと毛皮つきの茶色のコートを買う。ダウンが270ユーロ、毛皮は750ユーロ。毛皮のベルトがしっぽみたいでかわいらしく、細身の水崎さんによく似合う。店の売り子さんもよろこんで、全部で1020ユーロのところ、920にまけてくれるという。それでも私にとっては高いが、水崎さんは安い安いとよろこんでいた。金銭感覚が違うのだろう。
夕食は旧港の有名なレストラン、ミラマールに行った。旧港付近は観光客目当ての似非レストランが多く、冷凍の魚を出したりして評判が悪いのだが、ミラマールでは「本物の南仏料理」が食べられるという。殻つきの牡蠣と魚のスープをとり、カシス産の白ワインでいただく。おいしかったが、我々がカジュアルな身なりで行ったせいか、接客態度がすこぶる悪い。シャンパンとアミューズ係、前菜係、メイン係にデザート係と分担されているボーイたち相互の連絡も悪い。ひょいと後ろをみたら、アメリカ人の客がブイヤベースを注文していて、山のような魚が長い楕円形の皿に積み上げられていた
10月27日(木)
早起きして、旧港の魚市場に行く。6時のマルセイユはまだ夜だ。せっかく早起きしたのに、屋台の前には人がいない。8時になってもまだまばら。次々と魚船が戻ってくる。市場の様子が見えるカフェに陣取ってカフェオレを飲みながら待つ。カメラさんは報道写真の専門家で、張り込みはなれたもの。
9時半ごろになってようやく人が集まりはじめたので、撮影に行く。魚を売るおじさん、おばさんは昔から変わらない。まっくろに日焼けして,塩でしわだらけになった顔で、決して愛想はよくない。屋台というよりはむしろ、古本屋の主人のようなのだ。自分の売る魚の値踏みをする客を値踏みしている、というような。
屋台によっては、水をはり、まだ魚が泳いでいる水族館みたいなものもあれば、全く水のない屋台で魚をディスプレイしているものもある。種類ごとに名前を書き,鯛1キロ25ユーロとか値段票をつけている屋台もあるし、無造作にごちゃごちゃに積み重ねているものもある。鯛、いわし、ルージェ(ほうぼうの一種)、イカ、たこ、フリチュールという細い魚。あなごのように長い魚、ひらめ、かれい。あなごのように長い魚は口をぱっくりとあけ、うらめしそうにこちらをにらんでいる。
網に入れられた「プルプ」こと蛸が破れ目からはいだしてあやうく道路を歩きかけていた。売り手のおばさんは、なんだか言うことをきかない子供をあやすようにしてまた網の中におしこめる。
ある屋台では、かじきだろうか、長い針を立てた魚が3つに分けて飾られている。「このエスパードンはマニフィック!」と売り手のおばさんは叫ぶ。
突然、何やら激しいやりとりがあったあと、エスパードンおばさんが、隣にいたしわくちゃのおじいさんに近づいたかと思うと、ぶちゅっとキスした。見物人がわっと笑う。真っ黒な頬をかすかに明らめたおじいさんは、こちらを向いて「ええっ、うらやましいんだろう、ほい」とか叫んでいる。何がなんだかわけがわからない。
別の屋台で、赤い大きな魚を買ったおばさんがいた。34ユーロのところ、30にまけますよ、と屋台のおばさん。これはどうやって食べるの? ときいたら、どうにでも、という返事が返ってきた。あなたは日本人か? ときくのでうなづいたら、じゃー、さしみだね! と笑う。
おばさんは30キロほど離れた田舎に住んでいるが、週に2、3回は車で買いにくるとのこと。このころではカランクのあたりで生け簀をつくり、魚の養殖をしている。気をつけないとつかまされる。この屋台の魚は全部自然のものだが、あそこの屋台は養殖だよ、とこっそり教えてくれる。日本にも行き、築地市場で買い物をしたことがあるとか。昔は魚は安い食べ物だったが、このごろは高くなってしまったと嘆く。これは日本も同じ。それにしても、一匹30ユーロもする魚を食べるんだから、とんでもなく金持
ちに違いない。
魚だけではなく、ポルトボヌールのさざえのふたや貝殻のアクセサリーを売っている屋台があって、子供たちに取り囲まれている。貝殻のネックレスをひとつ買ったら、サボテンのようなものに巻き付けてあるので、なかなかとれない。しわくちゃのおじいさんが、子供をあやしながらからまりあったネックレスをほどいてくれた。5ユーロ。
少し時間が余ったので、旧港近くのサントン人形の美術館に行った。隣に工房があり、作り方を説明している。美術館では、17世紀から現代まで、さまざまなサントン人形が並べられていた。展示即売もしているが、あまりに高いので絵はがきだけ買って出る。
ホテルのレストランで昼食。ブッフェ形式で、ねぎやアョティチョーク、セロリの芯、パミエの芯などをゆでて芥子ソースをかけるものや、オリーブとアンチョビをすりあわせたペースト、なすとガーリックのペースト、オリーブ、チーズなどプロヴァンスの自然の恵みの食材がずらりと並び、壮観だ。私とカメラさんは、「プラ・ド・ジュール」で野うさぎのからしソース、パスタ添えという料理も注文した。野うさぎは鶏肉そっ
くり。
午後はカランクのクルーズに行くはずだったのに、言われた通り1時15分に波止場に行ってみると、今日は船は出ないと言われる。よく話をきいたら、出航は水・土の2日間だけだそうだ。だったら昨日言ってくれればいいのに。
仕方がないので、イフ島経由でフリオリ島に行く船に乗る。フリオリ島の入り江がすばらしくきれいだった。石灰岩の岩肌と海の紺碧(本当にうまく名づけたものだ)。同じ青でも日本海のように鈍色がかったそそけだったところは全くなく、どこかやわらかい。風が強いので、エメラルドグリーンから藍色までさまざまな色合いに変化する。見ていて飽きない。島をぐるりと一周してから波止場付近のカフェにはいり、クレープを頼んでシードルを飲む。
帰りは波が高く、船の窓は波しぶきで覆われてまるで洗車しているようだった。無事マルセイユに戻り、ホテルの建物内にあるデパートで買い物。ちょうど30パーセントのタンピングをしているときで、とくに革製品が安い。結局、パンタロンを2本買ってしまった。水崎さんはビロードのジャケットが今年の流行だと言って、はりきって買っていた。 7時にタクシーに乗り、ヴァロン・デ・ズッフのレストラン「レピュイゼット」へ。バルビゼ夫人の海の家のすぐそばにあり、ブイヤベースで有名な店だ。アペリチフにシャンパンを頼んだら、上にじゃがいものコロッケ、下にパイ包みにしたスモークサーモンをアレンジして串にさしたアミューズが出てきた。とてもおいしいし、形が「リゴロ」。
前菜は帆立て貝のトリュフ添え。すばらしくおいしかった。ワインはバンドールの白。給仕さんがバンドール出身ということで、すすめてくれたのだ。こってりした赤と違って白は辛口のすっきりしたワイン。おいしいと言ったら,給仕さんうれしそうだった。
メインのブイヤベースは量が多いので、3人前注文したら食べ切れない。1人前を3人の分けることに。最初にスープが出てきて、アイオリというにんにくマヨネーズソースをつけたクルトンを落としていただく。昨日のミラマールのスープよりあっさりしている。うま味は十分にでているのだが、サフランをきかせ、軽い感じに仕上がっていた。つぎに、給仕さんが魚をのせた皿を持ってくる。骨をのぞき、頭をとって各皿に取り分けるところを写真に撮る。少しスープもそそいでくれる。
ブイヤベースというと、スープはおいしいのだが、魚を煮すぎてしまい、実がかすかすになっているのが通例だが、ここでは魚はあくまでもふっくらと仕上がっている。なかでもルージェはふんわりと、まるでクリームのようだった。デザートはとらず、チーズを頼む。とろけそうなウォッシュチーズや濃厚な山羊のチーズなど少量ずついただいて堪能した。
ミシュランの1ツ星だそうだが,食通のカメラさんにも気に入ってもらえてよかった。フランス料理のレストランというと高びーな印象があるが、通常のとり方と違ったことを提案しても気さくに応じてくれるし、すすめ方もさりげなく、好印象。味は一級品、接客態度は街の定食屋さんといった雰囲気。地下には大きな水槽があり、床の一部がガラスはりになっている。なんだか、伊東のハトヤ・ホテルみたい。
10月28日(金) 10時半にホテルを出発してガルダンヌに向かう。エクスから12キロ離れたところにあるガルダンヌは、セザンヌが1885年から7年にかけて住んでいた町だ。教会の塔があり、それに向かって集中的に家が建っている。中世の町並がそのまま残っていて、家々が重なりあうようにして建っているさまが幾何学的で、セザンヌの絵ごころを誘ったのだという。 セザンヌ通りから坂道をのぼったところに「セザンヌの歩いた道」という標識があり、それぞれのビューポイントからセザンヌの絵と現実の風景とを対比できるようになっている。南フランスではなく、パリ郊外のポントワーズを散歩するセザンヌの写真まで掲げているのはやりすぎだが、ゆき届いた心づかいに感心する。目の前には、「ガルダンヌ」風景そのままの景色がひろがっている。付近の家は近代的なものになっているが、塔だけは当時のまま残っていて、ほぼセザンヌの描いた通りの風景。 丘の上から、晩年のセザンヌがとりつかれたように描きまくったサン・ヴィクトワール山が見える。白く輝く屏風のような山。何となくキリマンジャロ山を思い浮かべるが、実際は標高千メートルしかない。残念なことに,町と山との間に工場の煙突が2本無粋な姿で煙をあげている。景観を損なうことおびただしい。この工場は1894年から建っているのだという。 セザンヌの住んでいた家も見たいなと思い,観光案内所を訪れる。係の女性が出てきたので、いろいろ質問する。現実の風景には風車が見えたが、セザンヌの描いた「ガルダンヌ」には見当たらない。いつごろ建てられたのかときいたら、風車の土台はあったが、羽根がない状態で、再建されたのはごく最近のことだという。
つっこんだ質問をする私を見た観光局の人が、観光か、それとも仕事かときいてきた。JALの機内誌の取材であることを話すと、どうして自分たちと会う約束をしなかったのかと言われる。セザンヌはこの地で結婚し息子のポールは9歳のときガルダンヌ中学に通っていた。画集には、当時のガルダンヌの町の様子とか、住んで家の写真とか、内部を描いた絵(カーテンを描いた)も掲載されている。
観光局の人は、「この絵は」と画集を開いて見せ、ガルダンヌ郊外のスポットからサン・ヴィクトワール山をみたところだ。赤い土と濃い緑の暖かな色、それに対して感情移入を許さない非情な白い岩肌がすばらしいコントラストをなしている。セザンヌはこの地にきて、この風景を何とか絵画という形で解釈しようとして、ブラックやピカソがたどることになる抽象画、キュービズムへの道を発見したのだ。そういう意味では、短い滞在だったが、非常に意義深いのだ」と力説する。画集には、同じ風景を朝、昼、晩とそれぞれ違ったときに描いたものもあった。時間があれば、車でセザンヌが描いたポイントを案内すると言われた。しかし、こちらは2時にエックスのホテルで、もう一人のナビゲーター、パリ在住の画家細田さんと会うことになっており、その暇がないのが残念。日曜日の10時に約束してセザンヌの家をみに行く。
ちょうど市場のたつ日で、通りは賑わっていた。家は現在居住者がいるため、中にはいることはできない。プレートには、ガルダンヌで書かれたセザンヌの手紙(1886年5月11日付け)からの引用が書き込まれていた。
「この土地には奪いさるべき宝庫があるということをお伝えしなければなりません。この土地は、それが展開して見せている豊かさに比肩するだけの解釈者を未だに見出していないのです」(ヴィクトル・ショケ宛て)
ガルダンヌからエックスに向かう途中、それまで屏風型だったサン・ヴィクトワール山が突然三角形に見えた。
エックスの街は、マルセイユとは対照的だ。大学街なので若者が多く、活気に満ちている。街並みも清潔で、全体に知的な雰囲気が支配している。エックスの目抜き通り、クール・ミラボーでセザンヌは生まれたのだ。何となく、「田舎者」セザンヌのイメージとはくい違う。
ホテルは郊外のピジョネにある4ツ星。昔、ここの庭からセザンヌがサン・ヴィクトワール山を描いたのだという。受け付けに行くと、女性が部屋係に電話で、「今ここに日本人が4人いて、一人一部屋と言っているのだが、状況はどうか?」と尋ねている。その言い方にちょっと蔑視を感じてどうも気になった。
レストランに行くと、一種類の昼食メニューだけでサンドウィッチはないという。水崎さんはミックス・サラダ、カメラさんはオムレツ、私はフレッシュ・タリアテレのバジリコソースを頼む。ミックスサラダには大きなパンの薄切りがつき,乾きすぎた生ハムがのっかっている。鶏肉らしきものの輪切りも添えられている。どうも昼食メニューの残飯だったようだ。
2時になって細田さん到着。今回の取材で、「アゴラ」編集部に私を推薦してくださったのが細田さんだったことが判明。細田さんとは、パリ在住の高田美さん(バルダの庇護者で、ピエール・カルダンのアシスタントをつとめた写真家)つながりでお会いしたことがある。高田さんが背中を痛めてアメリカ病院に入院なさっていたとき、お見舞いに行ったら、偶然細田さんもお見舞いにいらしていて、ご一緒にバスでパリに帰った。私がマルセイユに留学していたことも、そのときにお話したものらしい。
午後は、光があるうちに山を撮りたいというカメラさんの要望で、サン・ヴィクトワール山を撮影に行った。セザンヌが描いた場所は「セザンヌの道」として整備されていて、あちこちに標識も立っている。エックスを出てトロネという町を経て「セザンヌの道」を走ると、山はちらほら見える隠れするのだが、松林が邪魔をしてなかなか全容があらわれない。少し切れ目があるところでは、電線が邪魔をする。もう少し走ると、急に開けた原っぱがあり、山がすそ野から見えるスポットに出た。ところが、視界が開けたら開けたで問題がある。サン・ヴィクトワール山は標高千メートルと、あまり高い山ではない。ガルダンヌの丘の上から見たときはキリマンジャロ山のように見えたのだが、すそ野から見ると意外に背が低いことがばれてしまい、セザンヌの絵にあるような神々しい威容とはほど遠くなる。このときのサン・ヴィクトワール山は、富士山のようにてっぺんが少しへこんでぎざぎざした形をしていた。
引き返して、セザンヌがしばらく住んでいた「シャトー・ノワール」を探すが、これまたうまくいかない。吉田秀和さんのセザンヌ論を読むと、エクスからトロネに向かう道路を左に曲がったところにある、と書かれている。秀和さんは、「シャトー・ノワール」に行こうとしてタクシーに乗り、左に曲がる道までは行ったが、大きな犬に吠えられてすごすご退散してしまったらしい。しかし、地図には「シャトー」としか書かれていないし、案内書を見ると、トロネを少しすぎたあたりの右側の坂道をあがることになっているのだが、個人所有の家が多い上に、道路からもそれらしい建物が見えてこない。ひとつだけレンガづくりのゴシック窓のある家はあったが、最上階の窓の形が違う。
道ゆく人にきいても,「シャトー・ノワール」などきいたこともないという。さんざん行きつ戻りつしたあげく、やはり観光案内所に行こうということになり、エックスに戻った。それなら最初からそうすればよいのに。もう5時近くになっていた。
観光案内書案内所のお姉ちゃんがまた、あんまり感じがよくない。観光地図を出してきて居丈高に説明するが、それはもう全部知っていること。「シャトー・ノワール」とサン・ヴィクトワール山が両方描かれた絵を出してきて、ここを見るスポットはないかときくと、とたんに口をとざし,「シャトー・ノワール」などという名前はきいたことがない、と言う。そんなはずはないと詰め寄ると、現在は個人所有なので中にはいって撮影はできない、と言われる。外からみるだけでいいのだと言っても、
わからないの一点張り。ガルダンヌの観光案内書のお姉さんとはえらい違いだ。明日ラ・ローヴのアトリエに行くので、セザンヌの研究者にきいてみることにした。
セザンヌの時代には、アトリエからもサン・ヴィクトワール山が見えたが、現在は家が立ち並んでいて無理だという。観光局のお姉さんから教えてもらったアトリエ上のスポットに行くことにした。最初に車を降りた地点から見たサン・ヴィクトワール山は、三角の部分が少なく左側だけが強調された形であまり魅力的ではなかった。少し道を戻り、ドメーヌ・ド・マルグリットという地点に出ると、急に視界が開け、山が姿をあらわした。
ここから見るサン・ヴィクトワール山は、左側が長くのび、正面の三角をこちらに向けている。1902年から亡くなる年までのセザンヌがくり返し描いた形だ。すそ野には家々の赤い屋根が見え、水崎さんも構図に満足していた。もう日没寸前で、陽がかげると岩肌が鼠色になってしまうのだが,夕映えを受けて三角形の下の方をほんのり赤く染める姿はとてもきれいだ。
ガルダンヌで見たサン・ヴィクトワールは白く輝く屏風型、「セザンヌの道」で見た山は富士山型、そしてラ・ローヴで見たものは三角形。実際の風景に接するまでは、セザンヌはただサン・ヴィクトワール山をくり返し描いたとしか認識していなかったが、見る角度によってここまで姿を変える山も珍しく、しかも朝、昼、夕方とそれぞれに色合いも変わる。季節によってももちろん違うだろう。しかもセザンヌは、単に風景を描
写したのではなく、そこからフォルムを抽出しようとしたのだ。いくらスケッチしても飽きることはなかっただろうと思う。
「違った角度から同じ主題を見ることによって、非常に深い興味をそそられる研究の対象が生まれて来ている。とても変化に富んでいるので、場所を変えずに、少し右へ身を傾けたり、左へ少し傾けたりして、何ヶ月も制作に専念することができると思えるほどだ」(1906年9月8日付けの息子への手紙)
夕食は『地球の歩き方』で見つけたプロヴァンス料理の店へ。コート・ド・プロヴァンスの赤と鴨肉のフランボアーズソースを注文する。細田さんの頼んだアイオリも少しお相伴。ねぎやカリフラワー、ムール、鱈、さざえ、にんじんなどを蒸したものをアイオリ・ソースをつけていただく。
上機嫌でホテルに帰ったのはいいが、とんでもないハプニングが待ち構えていた。夜中にあんまり暑くて目をさます。このホテルは10月なのに暖房をしていて、しかも冷房がないので暑い。寝る前に暖房を消そうと思ったが、やり方がわからないのと眠いのでそのまま寝てしまったのだ。真っ暗な中、トイレに行こうとしてスイッチをひねっても電気がつかない。壁をさわりながら玄関まで行ったが、こちらもつかない。廊下に出たら明かりがついていたので、部屋の中だけのことらしい。時計を見たら3時だった。
受け付けにおりて文句をいうと、さっきも同じようなクレームがきたという。何度か点滅をくり返したあとでやっと電気がついた。暖房の消し方も教わったが、ホテルの人が少しもあやまらないので腹が立った。3時だからまた寝ればいいとこともなげに言う。4ツ星なのにひどいホテルだと思ったが、実はしかるべき理由があったことが判明。
10月29日(土)
午前中はラ・ローヴのセザンヌのアトリエに行く。ここは以前に一度訪れたことがある。大きく窓をとり、2階ぶんぐらい吹き抜けた天井の高い部屋だ。セザンヌが「大水浴図」を描いていたとき、あまりにキャンバスが大きいのでドアから出すことができず、壁をこわして細長い扉をつけたという。
壺やビンなど、セザンヌが絵の中で描いた小道具が並んでいるが、どこまでが本物か。隅に背広と作業服もかけてあり、こちらは傷み具合から本物っぽい。ある人はセザンヌは小さかったと言い、ある人は大きな男だったと言う。いったいどちらが本当なのだろう。 やっとセザンヌの専門家という女性に会い、詳しい話をきくことができた。来年のセザンヌ年に向けていろいな催しが企画されているるが、まだ決定していない。国際学会を開き、アトリエの庭でプロヴァンス料理を食べる案もあるが、スペースが限られているのでごく少人数になるだろう、とのこと。2年前から7月と8月には庭にセザンヌの作品を映し出し、映像と音でたどる「ソン・エ・リュミエール」を実施しているそうだ。
「シャトーノワール」はちゃんと地図に書いてあったのに、見逃していたこともわかった。絵をさして「シャトーノワール」とサン・ヴィクトワール山を両方眺めるスポットは? ときいたが、現在は個人の家の庭になっているので無理だという。ベルヴィルにある従兄弟の家から見たサン・ヴィクトワール山の絵も沢山あるが、こちらは現在はビルディングの間からしか見えないという。
尾根が極端にとがったアングルの絵も見せたが、珍しい絵だという感想を漏らしただけで描いた場所は特定はできないらしい。収穫もあった。昨日の観光案内所では、ベビミュスの石切り場は来年の没後100年に向けて工事中で閉鎖しているとのことだったが、その先をずっと行くと山がとてもよく見えるスポットがあると教えてもらう。ただし、駐車場で車からものを盗む人が多いので、注意するようにと。
ベビミュスの石切り場に行ってみると、駐車場よりずっと手前の地点で車が通行禁止になっている。仕方なく、車を降りて山道を歩く。山はなかなか見えてこない。途中で道が分かれ、急な坂道をすべりおりるようにして下ると、やっと視界が開けた!
手前右にゾラの父親がつくったダムが緑の水をたたえており、ずっと向こうサン・ヴィクトワール山が見える。すばらしい眺めだ。「ビベミュスの石切り場から見たサン・ヴィクトワール山」(1898〜1900)という絵そっくりのアングル。左側が少しのびていて、頂上は富士山型にギザギザになっている。手前に松の木が茂り、場所によっては「大きな松の木のあるサン・ヴィクトワール山」の構図にも似てくる。もう少し右の方に行くとダムが正面になり、山とのつながりがよくなる。カメラさんもやっとい
い写真がとれたようだ。
引き返して懸案の「シャトーノワール」に行く。しっかり道をきいてきたはずなのに、また迷う。結局、カフェで尋ねる。信号を右に曲がれと言われ、また大混乱。エクスに向かっているのだから左のはずなのに。これは教えてくれた人が車の向きを反対だと思ったいたことが判明。私は朝ごはんを食べていなかったので、カフェで買ったアニスのクッキーでしのぐ。
教えてもらった通りに道路にもどり、エックスから3キロの地点だから時間に換算して何分、この地点から走行距離1キロ弱、と正確に時間に換算して走り、双眼鏡で見張っているのに、「シャトーノワール」があるはずの側には一向にそれらしき建物が見えてこない。結局、1キロちょっと超えるあたりで車を降り、昨日のゴシック風の建物に行ってみることにした。
昨日見たときは、最上階の窓の形が写真集の図版と違っていたのだが、写真集は20年ほど前のもので、現在は建てましているかもしれないからだ。館の前には、たしかに坂道になった私道がついている。松が生い茂った赤土の不気味なじゃり道を行くと、右手の松の切れ目にサン・ヴィクトワール山が姿を見せた。ちょうど「サン・ヴィクトワール山とシャトーノワール」という絵のアングルにそっくりだ。やはりここに違いないと思っておりていくと、突然,細田さんが声をあげた。「シャトーノワール」って書いてある! みると、坂の途中に少し松の切れた場所があり、柵で囲いがしてある。
──シャトーノワール。個人所有。進入禁止──
そうか、やっぱりこれだったか。ゴシック風のアーケード窓がついているのは下の階で、その上に普通の窓のある階を付け足したらしい。柵の少し手前に人がよじのぼった跡もある。『地球の歩き方』に怖い犬がいると書かれていたが、かまわず侵入して丘をよじのぼり、写真を撮る。
これで懸案がひとつ解決したので、「セザンヌの道」をとことん走ってみる。写真を
撮った広場を通りすぎ、なおも走ると、サン・ヴィクトワール山は突然三角になり、目の前にそびえ立ってくる。ついさきほどまではあんなに遠くにあったのに、今は山に向かって突っ込んでいくような形になる。あまりに近いので、岩のところどころに赤土が見え、神秘性が薄れる。この山は遠くから見た方がいい。
市内に戻って街の様子を撮影。ルノワールがセザンヌのレリーフをつけた噴水を撮影したあと、カフェで遅い昼食。カメラさんはピザ、水崎さんはサラダ、私は、「プラ・ド・ジュール」のタルタルステーキを注文した。
カメラさんは単独で市内を撮りたいという。水崎さんと細田さんと私は市内のセザンヌ名所を見学することになった。ゾラとセザンヌが机を並べたブルボン(現在はミニェ)中学に行ってみたが、ちょうどこの日は土曜日で、月曜日からトゥーサンの休み。水
曜日にならないと学校はあかない。でも、ここで水崎さんが驚異のねばりを見せた。
門は固く閉まっている。私はもうあきらめて帰ろうとしたが、水崎さんは、車が何台か置いてあるから、と鉄柵にはりついている。中から男の人が出てきたのできくと、この学校に勤めている女性のご主人なので何もわからないという。
学校の各部署を呼び出すボタンがあったので院長先生を呼び出すが、誰も出てこない。次々に押していくと、男性の声で「ダメだ、閉めている、部外者の侵入は禁止」と言われてしまう。しかし、水崎さんはさらにねばる。車に乗った学生が出てきたので門があいたのを幸い、中にはいりこんで写真を撮る。昔は修道院だったという回廊の建物。寄宿生だったセザンヌとゾラは、どの教室で学んでいたのだろう。
その後、街をぶらぶら歩いてセザンヌの生家や母の家、行きつけのカフェなどに行き、探索を終える。カメラさんはホテルで休息をとるとのことだったので、夕食は女たちだけでギリシャ料理。さまざまな郷土料理を並べた「メゼ」と松脂で香りをつけた「レツィナ」を注文し、タラマ、ドルマデス、ムサカ、フェタのサラダ、ナスのペースト、シシケバブなどでお腹がいっぱい。
ホテルまで歩いて帰る道、夜になってもゴッホの藍色のように不思議な明るさを保っている空が印象的だった。
10月30日(日)
9時半に受け付けで待ち合わせてガルダンヌに向かう。途中の道でサン・ヴィクトワール山がプチ屏風ふうに見えた。観光案内所ではこの間のお姉さんが待っていてくれた。所長にも挨拶する。もう一人、森の博物館に勤める女性が同行。
まずセザンヌが住んでいた家に行き、撮影。マルシェが立っていて、みんなついつい足をとめてしまう。週に3回立つマルシェはガルダンヌ名物で、種類が多く安いというのでマルセイユから買いにくる人もいるとか。
その日はヴァカンス前の日曜日だったので、とくに人出が多く、車を止めるのが大変だった。この地方だけの特産だという焼きなすのようなビーツ、細い細いサラミ、山羊のチーズ、香料類などがどっさり並んでいる。この地方の小さな村でだけつくっているという蜂蜜のコーナーでは、いろいろなフレーバーの蜂蜜、松の香りをつけた蜂蜜のどあめを売っていて女3人はなかなか抜け出せない。カメラさんはイライラ。水崎さんは琥珀もどきのネックレス、私は白いダウンもどきのコートを買う。20ユーロ。
車でガルダンヌ郊外に行く。ミメに行く道路沿いに、セザンヌが描いた絵の通りの風景がそのままの形で保存されている。赤い屋根の小さな小屋があり、田園風景がひろがっている。奥には赤いとんがり屋根の小さな家も見えるはずだが、木が邪魔して見えない。木を伐採するとエコロジーの関係からよくないし、来年はセザンヌの聖年なので風景の通りに見えるようにしたいし二律背反だ、とのこと。
観光案内書のお姉さんは、画集を開いて絵の説明してくれる。この風景を描いた絵は、現在ホワイトハウス(!)に飾ってあるとのこと。例のガルダンヌの塔を描いた絵は、セザンヌがサン・ヴィクトワール山の稜線になぞらえて描いたのではないかという珍説。これは評論家の受け売りらしい。「中世の町並みから塔に向かって家々が凝縮している。そのフォルムを描くうちにアブストラクトの感覚をつかんだのではないか」と、これも評論家の受け売り。セザンヌの画風をよく知る細田さんが、「その時期にキュービズムはあまりに早い、むしろネオ・キュービズムと言うべきではないか」と修正。
次に訪ねたのは、セザンヌが描いた家がそのまま残っている場所。4重になった瓦屋根に注意を向けさせたお姉さんによれば、この地方では、金持ちほど瓦を重ねるのだという。この家の持ち主は、お百姓さんではあるが裕福だったのだろう。セザンヌの時代には2階だったのを付け足して、現在は3階にして住んでいる。ぶどうの蔓が2階までからみついていた。
最後に行ったのは、屏風状態のサン・ヴィクトワール山が3分の2ほど見えるスポット。避雷針のような棒がちょうど屏風の真ん中に立っているので、角度がわかる。そのあたりはメイルーという地区で、強烈な赤土が特徴だ。土の赤と家々の屋根の温かい褐色、木々の濃い緑、そして白い岩肌のコントラストがすばらしい。カメラさんは喜んで撮影していた。
お姉さんたちと別れてエックスに戻る。そのままセザンヌのアトリエがあったジャ・ド・ブッファンに行く。ヴァザレリ現代美術館のすぐそばなのだが、美術館は休み。バルビゼがヴィラ・ロボスを演奏しているフィルムのある美術館なので、できたら訪ねてみたかったのだが。細田さんが美術館から出てきた老人にきくと、セザンヌの次にジャ・ド・ブッファンを所有していた人を知っているとのこと。高速道路をつくるために敷地が分断されてしまったと残念がっていた。
現在は個人の所有で、門から先にははいれない。セザンヌが描いたマロニエの並木が育って、すばらしい太さになっていた。周囲は昔は田園地帯だったのだろうが、現在は新しい安っぽいアパートが建っている。サン・ヴィクトワール山も、ガソリンスタンドの向こう側にしか見えない。ここでは富士山型をしていた。
エクスにもどり,セザンヌが亡くなる2週間ほど前の1906年10月7日に友人たちと会食した「カフェ・ド・ドゥーギャルソン」に行って食事。もう3時近かったのだが、広いテラスは大層賑わっている。カメラさんは漁師のプレート、私はチーズ・プレート,細田さんはスモーク・サーモンのプレートをとる。水崎さんには「市場から戻ってきたばかりの野菜籠・アンチョビソース添え」という料理を頼んだのだが,比喩的な意味かと思ったら本当に鉄の野菜籠がでてきた。編み目の間からセロリの葉がとび出ている。これにはびっくり。
要するにアメリカ人が食べる野菜スティックで,にんじんやクルジェットや赤ピーマンのスティック、カリフラワー、アンディーヴなどが無造作に投げ入れられているだけ。茹でてすらなくて、これって料理? どうしてこれが15ユーロもするの?と疑問だらけ。アンチョビとにんにくを曲げたソースは抜群においしかったが。
隣の客が茸の沢山はいったボールを注文していたので同じものを取ろうと思ったら、オーナーの息子なので特別料理だという。差別だ! 私のチーズ・プレートについてきたサラダは、ベビーリーフにレーズンや松の実、くるみが散らされ、なかなかおしゃれ。この土地のパンはサンジェルマンのチョコレートパンのような形をしている。表面がかりかりしておいしい。
昨日行かなかったサン・ソブール修道院に行き、中世の回廊をみる。13世紀に建てられたが、もろい石灰岩のために痛みがひどく、さまざまな時期に修復されているとのこと。目も鼻もくずれてしまった女性の聖者の像が柱にくっついて立っていた。衣の襞などから名工のつくったものらしい。水分が柱の強敵なので、庭にはタイムなど水のいらないプロヴァンスのハーブを植えているとのこと。それでも苔が大敵で、石の上にはりついて傷めてしまう。自動車の排気ガスや人間の持ち込む湿気もよくないとのことで、説明つき15分限定の見学。静まり返ったスペースで本当は2時間ほどぼーっ
としていたいのに残念だった。
セザンヌの絵を持っているグラネ美術館は来年の没後100年に向けて修復中。完成は今年の11月となっているが、進行状況から見てとても間に合いそうにない。残りの時間は、市内のセザンヌゆかりのスポットをまわることにした。観光案内所で用意してくれたセザンヌ地図を手がかりに、父親の銀行があった2つの場所や、セザンヌの生家(現在修復中)、6年ほど住んでいた家、母親の家、亡くなった家などを見て行く。
ある通りの突き当たりに廃屋となった教会を発見した。レリーフが美しいのだが、ひどく傷み、階段は2、3段石がくずれ落ちてしまっている。セザンヌが洗礼を受けたマドレーヌ寺院はうってかわって立派な建物だが面白くない。
さんざん歩いてホテルにもどり、荷物を詰めたあとレストランへ。アブサンを注ぐガラスの容器が展示されていた。ガラスの器には蛇口がついていて、その下に平たいスプーンのようなものを乗せたコップが置かれている。ここに砂糖を乗せてアブサンを注ぎ、火をつけて燃やすのだ。ヴェルレーヌとランボーの事件を扱った映画「太陽と月に背いて」で見たことがある。
料理はコース・メニューで、それぞれ料理が選べるようになっている。私が選んだ1の皿はうずらのポエレ、レンズ豆添え。コート・ド・プロヴァンスの赤ワインがとてもおいしかった。細田さん、カメラさん、水崎さんはにんじんのソースと海老のベニエ、まぐろのタルタルなどを注文していた。2の皿は鴨のココット、エストラゴンソース。付け合わせはじゃがいもといちじく。鴨は、ちょい焼きすぎだった。他のお3方はほたて貝のポエレ、リゾット添え。
ここのシェフは、雑誌にも出たことがある名シェフだという。でも、まぐろはあまり新鮮ではなく生臭かったそうだし、リゾットは塩辛すぎたらしい。ちょっと疑問。ガルダンヌの観光案内所の人たちが美食趣味のレストランを紹介すると言ってくれたので、高いところは困ると言ったら、どこに泊まっているのかときいてきた。「ピゴネ」と言ったら、手を後ろにふりあげ、それならどこでも安いよ、と言っていたが。
デザートのかわりにチーズをとる。これは山羊が半分、牛が半分で、プレートにずらりと並んでいるのを好きなだけとっていい。昼間ガルダンヌの市場で見たハーブの乗った山羊のチーズ、中身がとろりと溶け出したウォッシュ・チーズ、オリーブのチーズが、付け合わせのいちじくとよく合う。
10月31日(月)
出発する前、ホテルの庭からサン・ヴィクトワール山を見る。朝で黒く見える上に雲がかかっていて、おまけにかなり遠い。いつもは右横に立っている避雷針がほぼ真ん中に見える。てっぺんは富士山風のぎざぎざの形。
その山に手前の木がかぶさって見える。その少し向こうの木、陰になった三角屋根、遠くの木、そのまた遠くの屋根。いくつものパースペクティヴが層をなしているのがよくわかる。「自然には奥行きがある」と彼は書いている。「画家とそのモデルの間は、面と大気が仲介をしている。空間の中で見られる物体はすべて凸状をしている」
車でマルセイユの空港へ。パリに到着としたところで一度解散。カメラさんは自宅に帰る。私と水崎さんのホテルは旧国立図書館の真ん前の3ツ星。オペラ座もすぐそばという絶好のロケーションだ。
その日はパリで買い物。夜はカメラさんの紹介でモンパルナスの牡蠣バーへ。ブルターニュ産のフレッシュな牡蠣をいろいろとりそろえているすぐれものの店。半ダース14ユーロから18ユーロぐらいのものを一人12個ずつ注文した。丸い形の牡蠣もある。合いの手に豚肉のペーストと黒パンが出てくる。私のお気に入りは一番大ぶりの牡蠣。潮の香りがしてさわやかで、貝柱までとてもおいしかった。
ワインはサンセールの白でほのかな甘さが心地よい。牡蠣大好き族の水崎さんがもっとほしいというので、さらに1ダース注文。一人あたり16個食べたことになる。 車でホテルまで送っていただいた。サンタンヌ通りに「国虎うどん」というおいしい店があるというので、ホテルに戻ってからまた出かける。残念ながら10時で閉まっていた。
11月1日(火)
9時5分に集合してオーベール・シュールオワーズへ。1873年にセザンヌがポントワーズから移り住み、ピサロとともに制作したイール・ド・フランスの風光明媚な町である。ここで描いた「首吊りの家」は第1回「印象派展」に出品され、初めて買い手がついたという。
でも、オーヴェール・シュール・オワーズといえば、むしろゴッホ終焉の地として有名だ。ゴッホの絵に関する看板は沢山かかっているが、セザンヌはなかなか見つからない。市庁舎に車をとめて歩き出したが、「オーヴェールへの道」という絵のスポットがみつかったのは奇跡のようなものだ。
スポットにはセザンヌの絵の写真が掲げられているが、実際に描かれた景色を特定す
るのはかなりむずかしい。少し行くと、今度は「首吊りの家」が見つかった。くずれそうな階段に上って写真を撮る。オーヴェールの家の屋根は勾配が急で、壁は薄いグレーに黄土色のレンガがはめこまれている。空は明るく木々のみどりは濃淡がついているものの、黄緑に近い淡い色が主流。木立の形もふわふわしていて、全体にやわらかな色調とラインだ。でも、セザンヌが描いた「首吊りの家」は、とても暗い。家の壁は茶色に近いし、緑も黒ずんでいる。屋根の急な勾配だけが現実の風景に忠実だが、2軒のうち1軒の家は実際よりずっと奥に押し込まれ、遠近感を強調されている。
「印象派の作品に多く見られる平坦な野原ではなく、前景の巨大なものが眺望を妨げ、それと同時に建築的な構図をつくる働きをしている。平和で穏やかな風景に大きな楔を打ち込んだようなこの構図と、首吊りの家を主題として選んだところに、セザンヌの心理的な葛藤があらわれているように思える」(渡辺康子)
ここでカメラさんとはぐれてしまい、探しまわる。携帯にもメッセージを入れたが出てこないので、市庁舎に戻ることにした。途中で観光案内所の掲示があったので行ってみる。なんと休日なのに開いていた。パンフレットを見たら、地図には我々がさんざん探しまわった絵を描いた場所が特定されていた。ここに先にくればよかったのだ。 奥の部屋ではフィルムを上映している。最初にオーヴェールに住みついたのはドーヴィニという画家だったという。それからピサロが来て、彼のすすめでセザンヌもオーヴェールにやってきた。セザンヌは2年間滞在したのに、たった3ヶ月しかいなかったゴ
ッホの方がずっと有名になってしまった。
車でポントワーズに向かう。セザンヌが描いた「クルーヴ川の水車小屋」(1879〜82年)の川は名前を変えたが、今も残っている。土手を降りて行くと、草むらの間に、ごく狭い、しかしかなり急な流れが出現する。その手前にあるのが、木々の影に隠れてはいるが、元の水車小屋らしき建物だ。この地方特有の勾配の急な屋根、灰色の壁は共通している。対岸の道は落ち葉で埋めつくされている。ポントワーズは新興住宅地となり、昔の面影を失ったが,このあたりだけはまだ素朴で静かなたたずまいを残している。
セザンヌが住んでいたポテュイ河岸は大きなビルが2本も建ってしまったのでパス。
中華料理店で遅い昼食。メニューを見たら、タイ料理とヴェトナム料理と中華料理がミックスされている。ためしに「トム・ヤム・クン」を頼んだら、あんかけペキノワーズみらたいなのが出てきたので笑ってしまった。メインは海老と帆立てのブロシェット。辛いということで頼んだのだが、少しも辛くなく、ケチャップの味がする。付け合わせは木耳と竹の子の炒めもの。カメラさんは牛肉と野菜の炒めもの。水崎さんは春巻き。これが一番正解だったようだ。この日はここで解散。
11月2日(水)
取材最後の日。10時に待ち合わせてオルセー美術館に行く。残念ながらここに所蔵されている「レスタックから見たマルセイユ湾」(1886−90)は展示されていなかった。
印象派の画家たちを順を追って見る。ファンタン・ラトゥールの絵は、フランドル派のように暗い中から人物像が浮かびあがってくる。芸術家群像を描くのが好きだったらしく、マネがバティニョルのアトリエで多くの画家たちに囲まれている図や、やはり多くの作曲家に囲まれたシャブリエがピアノに向かっている絵。少年ランボーと禿げ頭のヴェルレーヌが顔を見せている、例の「ヴィラン・ボンゾム」のメンバーの絵もある。
それから、画面はぐっと明るくなる。踊り子の姿態を通して光の動きを追ったドガ。光をさまざまに分解させた点描主義のシスレー。古典的な遠近法を使い、画面の構成に腐心したピサロ。暗い絵から一挙に光に目ざめ、強烈な光を当てたゴッホ。構図、光、動き、フォルムなどについてより温和な形でバランスをとったルノワール。
一番奥にセザンヌの部屋がある。オレンジやブルーのきらびやかな光の斑点で覆われたモネの部屋からくると、一転して色彩的にくすんだ印象がある。
1869年、疾風怒濤時代の「苦悩あるいはマグダラのマリア」はグロテスク。同じ時期の「黒と白の静物」の壺は、どんよりしたねずみ色をしている。「デルフト焼の花瓶の中のダリア」(1875)の花はぼってり絵の具を盛りあげて描かれている。
オーヴェール時代の絵も並んでいる。1879〜80年に描かれた「オーヴェール農場への道」。全体に色合いの魅力はない。オーヴェールの家と明るい赤の屋根、白っぽい壁が特徴なのに、セザンヌは屋根をくすんだ褐色に描き、壁は黄色に彩っている。
別の部屋にまとめられたガショコレクションにもセザンヌが多数ある。「オーヴェールのレミー通りへの四つ辻」(1875)。実際の風景は空が明るく、みどりは淡く、木々の形はふわふわしていて、家の屋根はおもちゃのようだが、セザンヌの家は暗く、沈んでいる。極端にとがった屋根、少しとがった屋根、ゆるやかな屋根。セザンヌが目をつけたのは、それらの三角屋根の、家ごとに微妙に角度が違う勾配そのものだった。
点描派っぽい技法で描かれた作品もある。「シャトーノワールの洞窟の岩」。光の反射が、オレンジ、ブルー、みどりの斑点で表現されている。セザンヌにしては明るい絵だが、斑点自体が非常に荒く、モネのような繊細さ、華麗さはない。
カメラさんは、セザンヌの絵ではなく、絵を観る人々を撮影している。なるべく写真映えする絵ということで、「りんごとオレンジ」(1895−1900)。一見普通の静物画だが、意味がまるで違う。白いテーブルクロスの上に乗った果物は、これが現実だったら、すぐになだれ落ちてしまうだろう。よくみると、果物を持った皿も、水差しも、そしてテーブルクロスも、それぞれ視点が異なっている。セザンヌの目的はあくまでも構図であり、二次元の画面の中で彼と自然にとってのリアリティを融合させること
だった。
印象派の部屋の最後にセザンヌを見ると、ひとつわかることがある。それは、彼にとって光が特別なものではなかったということだ。19世紀後半から世紀末にかけて、多くの画家が光を求めて北から南に移動した。パレットから暗い色を追放し、光の斑点で画布を覆った。オランダからでてきたゴッホも、南仏特有の強烈な色のコントラストで画面を構成するようになった。
でも、セザンヌはそうはならなかった。なぜなら、彼は南の生まれだったのだから。一歩外にでれは、そこにはいつも光があった。幼いころから光に覆われていた彼は、光を「発見」する必要がなかった。だから、光を通してものの形を「発見」したのだ。
普仏戦争の間、マルセイユ近郊のレスタックに逃げていたセザンヌは、南フランスの自然をくり返し描いた。でも、印象派の画家たちが光へのあこがれにとどまっていたのに対して、セザンヌの目はフォルムと遠近法に向けられた。世は平面分割の時代だった。画家たちは浮世絵に倣って画面を平面分割しようと試みた。しかしセザンヌには、どこまでも立体的にものが見えた。彼はこう書いている。「自然を円筒、球、円錐によって表現すること、すべては遠近法の中に位置づけられ、物のそれぞれの隅や面は中心点に置かれます」(1904年、エミール・ベルナール宛ての手紙)
セザンヌは、光に魅せられ、光の表出に腐心した印象派の画家たちとは違い、フォルムを、もっとも本質的なところでとことん見ようとした。フォルムの神髄をとらえようとした。その姿勢が、光の美食趣味に飽き、別の道を模索しようとした20世紀の抽象画につながったが、いっぽうで、19世紀人との間に齟齬を生じさせる結果ともなった。アイデンティティがうまく確立できなかったことがまた、セザンヌをして、後進への道を大きく切り開かせたのだ。
取材はここでおしまい。美術館のショップで黒字に花もようのTシャツを買い、水崎さんとホテルに戻った。 |