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2005年9月30日/『ぴあ・ぴあ』ただいま7刷中 6月に上梓した『ピアニストが見たピアニスト 名演奏家の秘密とは』(白水社)が売れているらしい。9月末日現在7刷、12500部。 書評も、『レコード芸術』で音楽評論家の片山杜秀さん、『北海道新聞』で文芸評論家の川本三郎さん、『週刊読書人』で音楽プロデューサーの中野雄さんが書いて下さったのを皮切りに、朝日、読売、日経、産経でとりあげられたし、東京新聞では、著作の意図・意味などを私自身で書く機会を与えられた。週刊誌も『週刊文春』の「著者は語る」コーナーでインタビュー記事が載り、『週刊ポスト』や『サンデー毎日』にも書評が載った。 普通の本は、これらの記事、なかでも朝日の書評が出てから重版することが多い。でも『ぴあ・ぴあ』の場合は、まだどこにも書評が出ない6月28日、刊行2週間で重版していたのである。音楽書の場合、ときどきこういうことが起きる。 その後、7月中旬から下旬にかけていろいろな記事が出たために各書店で本切れ現象が起きるようになり、8月1日に3刷。19日に4刷。その直後に朝日で最相葉月さんが書評を書いて下さり、日経の「本の海から」の記事とあいまってすぐに5刷。9月にはいって、産経、読売新聞と書評がつづいて6刷。9月16日のリサイタルに合わせて7刷。 安川加壽子先生の評伝『翼のはえた指』(白水社)も7刷しているが、こちらは刊行後半年以上たってからだった。 ・・・とこう書くと、まるで自慢しているみたいに受け取られるかもしれないが、私としては完全に客体化してものを言っているつもりだ。本も9冊も書いていると、いろいろなことが起きる。リキを入れて書いても評価されなかった本、売れると思ったのに売れなかった本。音楽之友社から出したエッセイ集『双子座ピアニストは二重人格?』は、初版2500部がまだ完売していないし、この間ショパンで復刻された『ハカセ記念日のコンサート 増補版』に至っては、2000部売れるのに15年かかった計算になる。 同じ書き手なのに結果がこうも違ってくるのはどうしてか、むしろ著者本人が興味しんしんなのである。 ネットが驚異的に発達して、ずいぶんブログやHPの日記で読者の反応を知ることができる。面白いのは、プロの書き手よりむしろ当方の執筆の意図や本質的なことをとらえている文章が多かったことだ。理由はふたつあるだろう。プロの書き手は、とくに新聞や週刊誌など、何百万とか何十万とかの読者を相手にしている。いきおい、まずその本の概要を知らせる必要があるから、大づかみのところにとりつくことが多い。 『週刊文春』の記者さんは、「アルゲリッチのような偉いピアニストでもステージに出る前にこわいんですねー。一度完璧に弾いてしまうと、かえってそれがプレッシャーになるんですねー」と素直にびっくりしていらしたし、名演奏家たちの楽屋話、禁断の暴露本として紹介した記事もある。これまで神秘のヴェールに包まれているピアニストという存在を、作家や画家と同じように、技術面から心理面まで解剖しようとした本なのだからまったくその通りなのだが、なかには「家政婦が見たピアノ版」的な書評もあり、ちょっとハラが立った。 でも、ネットの感想では、その先を読み込んでいるものが多かった。「この本の影の主役はポリーニではないか」という指摘や、「本の性格上、『あのピアニストが実はこんな人格で、こういう育ちをしたのか!!』という驚きを読み手に与える形をとっているが、この本のキモはそこじゃあないと思う」には思わず膝を打った。 そう、6人のピアニストの栄枯盛衰を通して私が語りたかったのは、何よりも時代だった。時代の耳の変遷に翻弄される演奏家。作家や詩人なら、同時代的に認められなくても作品は残る。そして、才能が大きければ大きいほど、時代を越えてしまうことが多い。でも、舞台芸術家はそうはいかない。生前は不遇、死後の名声に活路を見いだすなどという選択肢は、彼らには残されていない。時代の趣味に適合していなければ、活動の場を奪われてしまうのだ。CDがあるではないかと言われるかもしれないが、レコーディングするチャンスすら奪われてしまう。だからみんな、必死で生き残り作戦を考える。演奏家本人が考えなくても、レコード会社やマネージャーが考えてくれる。 それに乗るか、乗らないかで、また道がわかれる。リヒテルは、旧ソ連という鎖国状態の国に住んでいたため、かえって商業主義に乗らなくてすんだようなところがある。ミケランジェリは、いかにも商業主義を無視して孤高の道をすすんでいるようなふりをして、実はしたたかに切り換えていた。アルゲリッチも、最初は大いに乗るかにみえて、見事に切り換えた。フランソワは乗りすぎて消耗しつくしてしまった。そしてハイドシェックは、80年代にはいったころから完全に乗り遅れた。もう一人、本には収録できなかったフランスのピアニスト、アンリ・バルダは、乗ることを徹底的に拒否してい る。 ある感想のひとつに、この著者はポリーニを憎んでいるようだ、と書かれていた。私はポリーニを憎んでいない。賛美している。ただ、ある時期の「完全無欠・ポリーニ」のイメージをつくりあげたレコード会社、あるいは周辺の人々の仕掛けを憎んでいるだけだ。そのために私たちの世代はどれほど大きな影響を受けたことだろう。 ネット・サーフィンしていてもうひとつ面白かったのは、私の本のジャンル分けである。音楽書・楽譜はもとより、ざっと見て、ノンフィクション、エンターテインメント・娯楽、文芸書などさまざまなところに組み込まれている。ネット上のベストテンにもよく顔を出していたが、ノンフィクション分野だと『アルジャジーラ 報道の戦争』など硬派の本の下にあったり、そうかと思うとエンタメ系で『紺野あさ美写真集 なつふく』とか、『ピンク・レディ フリツケ完全マスターDVD』とかの間でリストアップされていたり。 はたまた、『放送禁止映像大全』『三億円稼いだ秘術教えます!』、突然『6級漢字学習ステップ』などと一緒に並んでいる『ぴあ・ぴあ』を見るのは、そりゃー、楽しかった。 一番おかしかったのは、アマゾンの佐藤春夫『退屈読本 上』(冨山房百科文庫18)のページ。「この本を買った人はこんな本も買っています」コーナーで、佐藤春夫『退屈読本 下』、薄田泣菫『泣菫随筆』、『完本茶話』(いずれも冨山房百科文庫)という、いかにもいかにもの本が並ぶなか、突然『ぴあ・ぴあ』がリストアップされている。 佐藤春夫と薄田泣菫の間にはさまった気分は、また格別でした。 追記: ロシア歌曲の第一人者であり、岸本力、勝部太など優れたロシア音楽の歌い手を育てたソプラノ歌手の小野光子先生から、出版社宛てに以下のようなお便りをいただいた。 私は、大学院を修了してからフランスに留学するまでの間、小野先生がコンサート形式で上演なるチャイコフスキーのオペラ『エウゲニー・オネーギン』の稽古ピアニストを努めていたことがある。オペラにはさまざまな音楽があり、ピアノ曲を弾くときの制約もなく、至福のときを過ごした。 先生もそのことを──ちょっと違った形で──おぼえていて下さり、『ぴあ・ぴあ』を買って読んで下さったとのこと。お便りを読むまで、先生がモスクワでリヒテル夫人、ニーナ・ドルリアクに師事されていたことはまったく認識していなかったので、びっくりするやら、感激するやら。 本を書くというのは、ときにこうした思いがけない喜びをもたらしてくれるものである。 (前略)貴女が学生(?)の頃、私の所の稚拙なレッスンのピアノ伴奏に一回来て下さったのを多分お忘れでしょう。私かモスクワでニーナ・ドルリアクの生徒だった事なども、ご存知ないかもしれません。 三軒茶屋のカフェーで『ピアニストが見た──』を読んで涙が止まりませんでした。リヒテルも時経て若い理解者が居た事を知ったら、さぞ喜ぶ事でしょう。彼は人々の一面的な讃仰や批判によって自分が曲って論評される事を殆んど憎んでいたと思います。 多くの筆が彼を語っていますが(又私にも「語れ」という人もいますが)演奏家でない人の、ピアニストでない人の見当違いな言が彼をどれ程傷つけるか──。 貴女がピアニストとして大成され物を書いていられる事は知っていましたが、貴女がリヒテル・ファンとも思いませんでしたので恐る恐る買った御著書でしたが心が開放されました。私個人からのお礼と貴女の今後ともご活躍を祈って一筆致しました。2005年9月18日 T.ON0 |
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