2005年8月28日/”気”の出るCD?
8月25日、6枚目のCD『やさしい訴え ラモー作品集』(コジマ録音)の編集が終わり、マスター・テープが届けられた。
ルイ15世時代の宮廷作曲家ジャン・フィリップ・ラモー(1683〜1763)は、ピアノの前身の楽器、クラヴサン(チェンバロ)のために3集の『クラヴサン曲集』や独奏曲『王太妃』、室内合奏曲やオペラの編曲などを残している。
よく知られているのは、「鳥のさえずり」(かのキルヒャーの著作にヒントを得て書いた曲とか)「タンブーラン」(子供がよく弾く)、「めんどり」(めんどりのコッコッコッコッという鳴き声をテーマにしている)「エジプト女たち」(ジプシーのダンスを描写した作品)、そして『王太子妃』あたりだろうか。
『王太子妃』には、ちょっとしたエピソードがある。この曲は、ルイ15世の王太子の結婚式の際に、ラモー自身が即興演奏したものをあとで楽譜に書きとめたと言われている。王太子はルイ15世より早死にしたため、ルイ16世として即位することはなく、フランス革命に遭遇することもなかった。ラモーの曲想は、結婚式のお祝いというよりははるかにドラマティックで悲劇的で、のちのブルボン王朝の運命を予告しているかのようだ。
CDタイトルの「やさしい訴え」は、『博士の愛した数式』で知られる作家小川洋子さんの同名の小説からとった。チェンバロ製作にたずさわる男性と助手の女性、夫とうまく行っていないカリグラフィーの専門家の女性をめぐるトライアングルを、ラモーの「やさしい訴え」をからめて描き出した作品。甘美なストーリーだが、小川さん一流の、はっと息をのむ残酷さも秘められている。文春文庫で解説を依頼されたご縁でタイトルをいただき、ライナーノーツには珠玉のような文章も寄せていただいた。
クラヴサン物をピアノで弾くのは、クープランの『第13組曲』をドビュッシーの『ベルガマスク組曲』と組み合わせた2枚目のCD『雅びなる宴』(ナミ・レコード)以来。このときは、三鷹芸術文化センターのニューヨーク・スタンウェイで弾いたのだが、今回はクラヴサン曲だけなので、ちょっと古いピアノを使ってみようかなと思った。
思うことは思ったのだが、楽器を決定するまでが大変だったのだ。まず候補に上がったのは小型のプレイエル・ピアノ。1890年ごろの楽器だが、まったく中をいじっていないというので、とても雅びやかな音がする。とくに「ミューズたちの対話」とか「異名同音」とか、訴えかけるような音色ですばらしい効果が上がった。コジマ録音の小島さんもすっかり気に入って、即この楽器に決めようとおっしゃっほど。
でも、ラモーの曲には美しい旋律ばかりではない、激しい手の交差とか左手の急速なリピート音とか、舌をかみそうな装飾音とか、技巧的な部分も沢山出てくる。このプレイエルは、ことに低音域で少し鍵盤の戻りが悪く、連打音やリピート音がどうしても思ったようにはいらない。いろいろ試してみたあげく、断念した。
次に気に入ったのは、やはりプレイエルで1950年の製品。コルトーがさかんに録音していたころの楽器をつくっていた会社が倒産する直前で、神戸在住の建築家のお宅に置かれている。これまた垂涎ものの楽器だった。タッチは羽根のように軽く、音は蜂蜜のように甘く、「ひとつ目巨人」の手の交替(バトリという)も、めんどりの連打音もバッチリだし、「やさしい訴え」のメロディもショパンのノクターンのように歌って弾ける。
ぞっこんほれこみ、これにしましょう、と思ったのだが、今度は経済的な問題が浮上した。レコード会社は東京にあり、楽器を運ぶとなるとレンタル料に加えて運送費や保険など、諸経費がかさむ。関西のホールに搬入することも考えたが、今度はスタッフや私や機材が移動しなければならない。ホテルにも泊まらなければならない。古い楽器だから、長時間の移動には耐えられないかもしれない。せっかく運びこんでも思ったような音が出るかどうか・・・。そこまで考えたところで、チョンになってしまった。
結局、録音に使ったのは、タカギクラヴィアで所蔵している1887年製のニューヨークスタンウェイである。ホロヴィッツがさかんに活動していたころのカーネーギーホールに置かれていたピアノで、ホロヴィッツもすこぶる気に入っていたとか。ピアニストの江口玲さんが2枚のCDを出していらっしゃるので、ご存知の方も多いだろう。
細密画のようなクープランとは違い、オペラ・バレエの作曲家だったラモーのクラヴサン曲にはドラマティックなものが多いので、ニューヨークスタンウェイ特有の色彩感、のびのある華やかな音はぴったりだ。しかし、何といっても120年前の楽器なのだから、決してキンキラキンではなく、ちょっとセピア色の不思議な響きもする。そこが気に入った。
レコーディングのてんまつは連載『ピアニストは指先で考える』の第32回「湿気とタッチ」に書いたので省略するが、ホール内の温度や湿度、こちらの気分や腕の状態によって刻々と状況が変わり、なかなかスリリングな収録となった。でも、実際に編集テープで上がってきた音を聴いたら、現場の苦労のあとはみじんも感じさせず、装飾音はころころまわっているし、メロディは自然に歌い、連打音も手の交差もバッチリはいっている。あらためて、録音技師としての小島さんの手腕に舌をまいた次第。
CDの編集は、本の編集とちょっと似たところがある。まず、編集担当者からざっとまとめたものが届けられ、それを聴いて注文を出す。この曲はあわてているので、もっとゆったり弾いたときのテイクにして下さい、とか、この装飾音はきれいにはいっていないので、別のテイクに差しかえて下さいとか。本でも、この部分は自分の思ったことがうまく言えていないから別の表現に変えようとか、言いまわしが下手だから、もっと他の言葉を捜そうとか、あれこれ考えるものだが、それと同じ。今回のように小曲をたくさん収録した場合は、となりあった曲への流れや表現のバランスにも気を配る。これも、『双子座ピアニストは二重人格?』(音楽之友社)のようなエッセイ集の編集と同じ感覚だ。
本の校正では、自分でチェックしたあと出版社におもむき、編集者と赤字の突き合わせをするのだが、CD編集の場合はスタジオでエンジニアさんと一緒に聴きながら、テイク選びをする。その変更を受けて本の2校に当たる第2編集テープが届けられ、そこにまた注文を出して・・・という形で徐々にディレクションを定めていく。
今回のCDは1、2次編集のときはモントリオールの世界水泳、3、4次編集のあたりはヘルシンキの世界陸上と重なっていたので、テープを聴く時間をとるのが大変だった。モントリオールもヘルシンキも地球の裏側なので、放映は深夜から明け方まで。これが本の編集なら、テレビの音だけ聴きながらゲラを読むことができるのだが、CDの編集ではそうもいかない。画面の音を消して耳は自分の編集テープをいっしんに聴き、ときどきレース結果を目で追う。大事な試合のときは編集を一時中断して画面の音を出す。
しかし、CDの編集というのは、ただ漫然と聴いてミスタッチだけチェックすればいいというものでもない。それぞれのテイクを弾いているのは自分なのだが、客観的なプロデューサーの耳になってそれらを再構成する、みたいな。この曲をこんな流れですすめて行ったら、全体的にはどんなコンセプトに仕上がるか。そんなシミュレーションをしつつ聴いているのだから、とてもテレビ観戦の”ながら”でできる作業ではない。
結局、世界水泳では北島康介の100メートル平泳ぎ銀メダル、50メートル平泳ぎ銅メダルのシーンを見逃してしまった。北島がハンセンに届かなかったのは残念だったが、日本選手権では今村元気にすら負けていたのに、世界大会に向けてもう一度モチベーションを上げてきた精神力には感心した。
逆に、精神的な弱さを感じたのが、同じくアテネで金メダルを獲得していた柴田亜衣の800メートル自由形。アテネ・オリンピックの銀メダリストが棄権してしまったのだから絶対優勝だと思ったのに、フタを空けてみたらまさかの3位。あまりにお膳立てができすぎてかえってプレッシャーがかかったのだろうか。スピードをつけようとして400メートルに照準をしぼり、こちらはもう少しで金メダルの銀メダルを獲得して嬉しそうだったのに、競技はむずかしいものだとつくづく思った。この人は、チャレンジ
ャーでいるときに一番力を発揮するタイプかもしれない。
世界陸上でも、為末大の400メートル障害銅メダルの感動的な一瞬を見ることができなかった。翌朝リプレイを見たのだが、雨中のレースなら勝てるかもしれないと思ったという為末の読みには脱帽した。
為末大が自分で書いているサイトの文章は、抜群におもしろい。自分で走った決勝のレースを、肉体面から精神面、他の選手の心理状態まで見きわめながら詳細に分析している。つまり、走っている自分と、それを冷静に上から眺めている自分がいるのだ。これは、我々がステージで演奏しているときの状況にも通じるものがあると思った。為末大のレースふりは、いつも最初からとばしてあとで抜かれるパターンで、サイトを読むまではこんなに理詰めで計算するタイプとは思ってもみなかった。
ファンから、「なぜコーチをつけないか?」ときかれて、「きっと勝つ為に自分で力を発揮するよりも、勝つために考え抜く事の方が好きなんでしょう。自分の考えた戦略が当てはまる時、大局的に予想を立てたように世間が動いている時、こういう時に私は一番喜びを感じます。ですから、現役時代の間に全体の戦略(これはコーチがついていない私の場合ですが)、細かい戦術などなどを決める事ができる陸上競技が好きなのです」と書いているのにも、思わず膝を打った。
ピアニストで言うなら、どんな先生にも習わずに、自分で独創的なディレクションを打ち出していったグレン・グールドのようなアスリートだ。
私も、リサイタルを開くときやCDを出すとき、マネージャーまかせにしないで自分でキャッチやリリースを書き、アピールを試みている。自分なりのアプローチや「読み」がはまったときは、すごく嬉しい。「ピアノを弾く自分」よりも「ものを見る自分」が評価されたように思うからだ。本当は、自分以外の誰かをプロデュースする方が面白そうだと思うのだが、今のところ、誰もついてきてくれないので自分一人がタレントという状況。だから、コーチをつけない理由は、「コーチが一番面白そうなので、もったいないから自分でやる」と語る為末大には大いに共感をおぼえた。
そんな為末だが、計算に計算を重ねたレースを展開し、最後は、これもいつかはやろうとシミュレーションしていた通り倒れ込むようにゴールしたあと、自分がメダルを取れたとは夢にも思わなかったらしい。内側のデカイ選手にも抜かれて4位だと思った、だから、電光掲示板を見ても、何回見ても信じられなかった、と語っている。
緻密な計算とこんな意外性のとりあわせも、為末大の魅力のひとつだ。
実は、私のCD『やさしい訴え』にも、弾いた当の本人が思ってもみなかった意外性があります。それは何かというと、聴いている間にうとうとしてしまうんです。
最初に体験したのは、第2次編集のときだった。細かいチェックを終え、もう一度客観的に聴こうと、ベッドに横になった。「鳥のさえずり」「ロンドー形式のミュゼット」「タンブーラン」「やさしい訴え」・・・・気がつくと、意識が飛んでいる。たった今聴いていたはずの曲が終わって、ずっと後の方の曲になっていたりする。自分の演奏なのに変だな、これではチェックにならないと思って、もう一度しっかり聴こうとしても、また「ミューズたちの対話」でぼーっとしてしまい、「ひとつ目巨人」などのように速い曲ではっと意識が戻ったりする。
おとぎ話などによくあるでしょう、お姫さまはたった一日のつもりだったのに、目ざめてみると巷では百年たっていたとか。そんな感じ。
世界水泳観戦との同時進行で徹夜がつづき、疲れていたんだろうなー、とこのときは思った。しかし、最後の編集テープを聴いたら、またうつらうつらしてしまったのだ。ふっと目がさめると「異名同音」になっていて、「ああ、きれいだな」と思い、またうつらうつらして「エジプト女たち」でとびおきる。このときは、もう世界陸上も終わり、夜はしっかり寝て昼間はしっかりピアノを練習する健康的な日々を送っていたにもかかわらず。
それも、悪い感じではなく、ぼーっとしている間にストレスは解消し、肩こりも軽くなり、此岸に戻ったときは心身がとてもリラックスしている、というような。
不思議だなー、録音に使ったヴィンテージ・ピアノのせいかなと思って、セミナーの受講生のお一人にその話をしたら、その方も、私が2回のライヴでラモーを弾くのを聴いていて、同じ体験をなさったそうなのだ。やはりぼーっと意識が拡散してしまい、しばらくうとうとして、はっと目がさめ、「きれいだなー」と思い、しばらくするとまたぼーっとして・・・という感じだったという。
ライヴの1回めはモダンのプレイエル、2回めはモダン・スタンウェイの小型ピアノを弾いたから、楽器には関係なさそうだ。それでは、ラモーの音楽自体がそうさせるのかと思って他のピアニストの録音やCDを聴いたが、意識は覚醒したままだ。
謎は深まるばかり。このところ私は、友達のすすめで気功教室に通っている。地中深くの”気”をすくい上げて掌に集め、頭から注ぐとか、天の涯てまで”気”をとばすとか。
もしかすると、ラモーのCDからも”気”が出ているのだろうか?
(『やさしい訴え ラモー作品集』[ALCD−7098]は10月7日リリースですが、9月16日(金)浜離宮ホールでのリサイタルに合わせて先行発売されます)
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