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青柳いづみこのメルド日記


2005年7月6日/ラジオ深夜便

  6月27日〜30日まで、NHK第1放送の『ラジオ深夜便・ないとエッセイ』に出演した。夜の11時半ごろから10分程度のトークと4分ほどのCD演奏。仲立ちして下さったのは、朝日の書評委員でご一緒した詩人の小池昌代さん。第1回門天ライヴのときにディレクターさんを連れて来て下さって、そのときすぐに決まったわけではないが、何度かやりとりするうちに、ドビュッシーのことをメインに話して下さいという運びになった。
  以下は放送のために用意した原稿で、必ずしもこの通り話していないところもあるが、そんなに違ってもいないような気がする。だいたい8分ほどしゃべったところで赤ランプがつく。あと1分ほどでまとめて下さいよという指示である。かわまずしゃべっていると、2度目の赤ランプがつく。そこで、なんとか話のつじつまを合わせ、今夜はここで終わり、また明日・・・と言っておしまいにする。そんな感じである。
  収録は4回ぶんまとめて行うから、毎回、「皆様今晩わ」ではじめる。最終回だけは、「いつかステージでお会いしましょう、サヨナラ」でしめくくる。テレビではないから衣装は変えなくていいけれど、ちょっとやらせっぽかった。

  第1夜:6月27日(月)
  皆さま今晩わ。青柳いづみこと申します。
  クラシックのピアノ弾きなんですけど、本も書いたりして、現在本は9冊、CDは6枚ですから、ちょっと書く方が売れてるかなーというところですね。
  この番組は夜眠りにつく前に聴いていらっしゃる方が多いと伺いました。中には不眠に悩んでいる方もいらっしゃるかもしれませんね。
  眠れない話なら私も、自慢じゃないですが、たくさん。この間、6枚目のCDのレコーディングをしてきたんですが、山梨の方のホールで3日間。
  出かける前は、朝早く起きなきゃならないというのがプレッシャーになって全然寝つかれなかったんです。最初に泊まったホテルは天井の一部があいていて朝日が燦々。3時ごろにやっと眠ったと思ったら5時ごろに目がさめちゃいました。それでホテルを変えてもらったんですが、今度ちょうどサッカーの北朝鮮戦の日。ヤッターっとか興奮して眠れなくて、寝ついたのが明け方の5時。
  絶対眠れるからと言われて持っていったヒーリングのテープを何回聴いたでしょうか。テープがまわっている間はうとうとしてるんですが、止まるとカチっという音でまた目がさめる。あんまり眠れないので缶ビールに缶チューハイにそば焼酎のお湯割りにと飲んだら、起きたのが10時で完全に二日酔い。全然演奏家に向いてないですねー。

  実は、私が研究するドビュッシーも眠れなかった、じゃなくて、女主人の不眠をなぐさめるために明け方までピアノを弾いていたことがあるんです。ロワール河のシュノンソー城という、観光客あこがれの美しい城がありますね。当時17歳ぐらいで、パリ音楽院のピアノ科の学生だったドビュッシーは、先生からここの女城主のおつきの楽士として音楽を演奏するバイトを斡旋されてひと夏過ごしました。つまり、人間ラジオですね。当時は今と違ってレコードとかありませんでしたから。
  なぜ人間ラジオをやらなければならなかったかというと、ドビュッシーは貧しい階級の生まれだったんです。私がドビュッシーに興味をひかれたひとつの理由は、彼が上流階級の出ではなかったことなんてす。
  クラシック音楽はジャズやロックと違って、宮廷文化に端を発しています。ベートーヴェンははじめて民衆の作曲家になった人ですが、それでも貴族たちの庇護を受けていました。私が子供のころは、ピアノを習っている仲間たちは、いわゆるひとつの「いいうちのお嬢さん」が多かったですね。音楽教室の友達に誘われて泳ぎに行ったときも、赤坂プリンスホテルのプールだったんですね。私はスクール水着だったんだけれど、皆さん、もちろんとってもおしゃれな水着で、子供ごころに何だか居心地の悪い思いをしました。

  何故私が庶民派かというと、私の祖父は青柳瑞穂というフランス文学者で、東京杉並の阿佐ヶ谷の家に、中央線沿線の貧乏文士たちがたむろしていたんですね。井伏鱒二さんを頭領に、太宰治さんや木山捷平さん、上林暁さん、外村繁さんなど。皆さんお国に帰ればそれぞれ地主の息子さんだったのですが、文学の道をこころざしてわざわざ東京で貧乏生活を送っていた。自分の意にそわない文章を書いてお金を稼ぐよりは清貧に甘んじた方がいいと考える人たちだったんです。だから、芸術家というものはそういうものだということが刷り込まれちゃっていたんですね。何となく、おりぼんひらひらのドレスにエナメルの靴の発表会になじめなくて、いつもお尻が半分落っこちかけたような
感じでした。
  ドビュッシーのことも興味なかったんです。フランス音楽といえば、フランス料理とかエルメスにカルダンとか、何だか高級そうなイメージだし、きっとドビュッシーもそんなふうに優雅で洗練された音楽だと思い込み、自分とは関係ないと思っていたんですよ。
  芸大にはいって大学院にすすむと、論文を書かなければなりません。そのときに、たまたま先生にすすめられてドビュッシーを弾くことになり、資料を調べたら、びっくりしました。ドビュッシーはすごく貧しい家の生まれで、小学校にも行けなかったんですね。お父さんは、世界ではじめての労働者階級の革命であるパリ・コミューンに参加して捕らえられ、牢屋に入れられたんですが、そこでシャンソン作曲家に出会った。お父さんが息子の音楽教育について相談すると、そのシャンソン作曲家は、自分の母親のモーテ夫人がピアノの先生だからと紹介してくれたんですね。

  1971年秋にドビュッシーはモーテ夫人の家にピアノを習いに行くんですが、その先がまた大変な家でした。フランスの詩人でポール・ヴェルレーヌという人がいます。ある年代以上の方々なら、次のような詩の一節を御存知かもしれませんね。「秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみて ひたぶるにうら悲し」(上田敏)
  モーテ夫人はそのヴェルレーヌの奥さんの母親で、ショパンの弟子だったと言われています。それで、ちょうどドビュッシーがピアノを習いに通っていたころ、ヴェルレーヌを頼って少年詩人のアルチュール・ランボーという人が上京してきていて、そこでいろんな騒ぎをひきこおします。
  私がびっくりしたのは、そういう詩人たちの名前というのは、小さいころから祖父の本棚で親しんでいた名前だったんですね。だから、ドビュッシーが貧しくて、私のまわりにいた阿佐ヶ谷文士たちと同じようなボヘミアン生活を送っていたこと、そしてまわりの友達は祖父の本棚ですでに知っている人々だった、ということが初めてわかりました。今まで関係ないと思っていたのに、こんなに蜜な関係があることにびっくりしたんです。
  この仕事をするのは自分しかない、こんな特殊な環境で育ってきた自分にしかいろんな複雑な心情はわからないだろう、と思いましたね。これがドビュッシーに興味をもった2つ目の理由ですね。
  CD:『水の音楽』よりドビュッシー「水の反映」(地震のニュースがはいり、一部フェードアウトされたらしい)

  第2夜:6月28日(火)
  ドビュッシーの複雑さはまだあります。ドビュッシーは貧しい階級の生まれだったのに彼自身は貴族趣味の持ち主だったんですね。パリ音楽院の学生だったころも、とってもおなかがすいているのに、大きくて食べでのあるお菓子を買うかわりに、限られたおこづかいの中ですごく小さくて凝ったケーキを買ってしまう。シュノンソーにバイトで行ったときも、豪奢な内装や召使にかしづかれる生活にすっかり味をしめてしまったといいます。 作曲の仕方も、実はドビュッシーは全然大衆的ではありませんでした。彼の書いた曲でポピューラなのは、「月の光」とか「亜麻色の髪の乙女」ぐらいですね。
18世紀の宮廷文化のように、ごく限られた洗練された趣味をもつ人々にしか意味が伝わらないような秘密めいた音楽を書こうとしました。だから、大衆社会に受け入れられず、40歳になるまで世に出られなかったのです。
  私生活でもドビュッシーは、お針子さんとサン・ラザール駅裏というもっとも貧しい地区の屋根裏部屋で同棲生活を送り、一日の食事がパンと一杯のココアだけだったりとか、ときどき、「アラベスク」などわかりやすいピアノ曲を売って生活費を得たり、めいっぱい庶民階級の暮らしをしたあと、唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』の成功で有名になってからは、社交界の歌姫と再婚して、日本では言えば田園調布にあたるような16区の高級住宅街に、パリでは珍しい一軒家を借りて住みました。こんな不思議なまざりあいが、また私をドビュッシーにひきつけるのです。

  ドビュッシーが私の興味をひいた3つ目の理由は、オカルト趣味です。
  ついさきごろ、『ダ・ヴィンチ・コード』というミステリーが大ヒットしました。その中に、「シオンの修道院派」という秘密結社のことが出てきます。パリ国立図書館に所蔵されている「秘密文書」という書類の中には、歴代のグランド・マイスター表もあって、ダ・ヴィンチやヴィクトルー・ユーゴーとともにドビュッシーも33番目のマイスターとして名前が載っています。ちなみに、ドビュッシーの後任者はジャン・コクトーです。
  実は、私は自分が9年前に書いた『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』という本の中で「ドビュッシーとオカルティズム」という項目を設けてそのことを検証しているんですが、当時は、あのように美しい音楽を書いたドビュッシーがオカルトに凝っていたことをばらすなんて、何ごとだという論調も多かったんです。
  ドビュッシーが本当に「シオンの修道院派」のマイスターだったがどうか、どんなに調べても確証は出てきませんでした。でも、パリ国立図書館にはたしかに「秘密文書」が所蔵されていて、コピーも取ってきたのですが、ある日、その書類をひきだすためのカードが煙のように消え失せていて、いくら請求しても出てこなかったり、なかなか不思議なこともありました。

  ドビュッシーがオカルトに凝っていたのはたしかで、とくに1908年ごろに顕著でした。書きかけていたオペラの原稿にも、不思議な書き込みが沢山みられるし、妻のエンマがドビュッシーのオカルト趣味を気味悪がっていたという証言も残っています。
  ドビュッシーの実人生の具体的なオカルト趣味は大した問題ではないですが、彼の音楽を解釈するためにはとても役立ちます。ドビュッシーの作品には、聴いただけで現実の世界から吹き飛ばされ、彼方にトリップしてしまうような、そんな摩訶不思議が音が満ち満ちています。
  演奏家は多かれ少なかれ同じような体験をしていると思いますが、もともと音楽はきわめて降霊術とか心霊現象とかに近いものです。ブラームスも、作曲がうまく行っているときは神が降り立つような体験をしたと語っています。ベートーヴェンもワーグナーにもそういう現象が起きたようです。ピアニストでも、亡くなったフリードリッヒ・グルダは、16歳でジュネーヴ国際コンクールを受けたとき、何かに「弾かされている」 という体験をもったと告白しています。私自身、演奏がうまく行っているときは、自分
を通して作曲家が直接言葉をもちはじめるという霊媒っぽい体験をしています。
  アルゼンチンの名ピアニスト、マルタ・アルゲリッチは、たくさんのアーチストと室内楽で名演奏をくりひろげていますが、ピアニストの伊藤京子さんは、アルゲリッチがそばにいるだけでオーラが発して、普段は弾けるはずのないように弾けてしまうという不思議な現象を証言していらっしゃいます。言葉を越えた世界ですから、理屈ではないんです。 CD:『雅びなる宴』よりドビュッシー「月の光」

  第3夜:6月29日(水)
  今、クラシック音楽はなかなかうまくいかない状況です。クラシックはむずかしくてわりにくいと言われます。CDは全然売れません。レコード店ではどんどんクラシックのCDの棚が少なくなります。コンサートにも聴衆が集まりません。もし満員の会場があったら、それは、よほどの売れっ子か、あるいは自主コンサートといって、アーチスト自身がチケットをさばいているケースです。
  どうしてこうなってしまったか。日本にはすごく音大が多くて、なかでもピアノ科の学生が多いんです。こんなにピアノ科の学生が多いのは、世界でも珍しいんです。今年はショパンコンクールの年ですが、全応募者の4分の1は日本人だといいます。水準もすごく高い。でも、コンサートの聴衆は育っていません。ずっと長い間、日本の演奏家は自主リサイタルを開き、お弟子さんや一族郎党相手にチケットをさばいてきました。プレイガイドで一般的にチケットを売るためのパブリシティとか聴衆の拡大をはかるために何もアクションしなかったんです。そのツケがどってきています。
  そういうクラシック界の体質の問題とは別に、私が子供のころドビュッシーに感じていたような、「関係ない」という感じも大きく作用しているのではないかと思います。ステージでホンバン明かりを当てられた演奏家は神のような存在に見えます。別に世界的な偉い演奏家だけではなくて、たとえば私の友人であっても、近寄りがたい存在に見えます。 演奏家の紹介の仕方もそうです。成功したことだけをのべる。これが作家だったら、太宰治が芥川賞に落選したことは文学関係者ならみんな知っていますが、演奏家の経歴は、成功したコンクール、成功したコンサートのことしか書かれません。

  ピアニストが腕を故障すると、報道は沈黙します。スポーツ選手なら、故障したことはすぐに報道されるのに、何か演奏家が故障すると触れてはならないタブーのような感じになります。だから聴衆も、クラシックの演奏家というのは、何か人間ではないような存在に感じてしまうのではないかと思います。フジ子ヘミングさんや梯剛之さんがあれほど人気を集めるのも、もちろん芸術面でもすばらしいのでしょうが、積極的に負の部分を明かしたことで聴衆が人間的な面を感じとったからではないでしょうか。
  私がこの間上梓した『ピアニストが見たピアニスト』という本では、世界の名演奏家たちの負の部分を少しだけ明かしています。ベネデッティ=ミケランジェリやマルタ・アルゲリッチ、スビャトスラフ・リヒテル。あんな天才たちでも、やっぱりステージがこわかったんだ、完璧に弾くことへのプレッシャーに悩まされていたんだ、譜面を見ないで弾くことが心配で仕方なかったんだ・・・。でもそれを乗り越えてすばらしい演奏を聴かせてくれたんだ。それは最初っから簡単にできたのではなく、ものすごい努力の結果なんだ、というようなことを。そうした面を明かすことで、クラシックの演奏家たちに少しは親近感をもっていただきたいなと思いました。

  リヒテルとミケランジェリについてはすでに本が出ていて翻訳も出ていますが、たとえばアルゲリッチについては、日本のメディアではあまり負の部分が紹介されていません。でも、海外のプレスのインタビューでは、幼いころのトラウマを赤裸々に語っていて、胸を打たれます。彼女は神童だったのですが、メンタル的には神童ではありませんでした。いったん舞台に出ていけば完璧に弾けてしまうのに、ステージに出る前、たった7歳か8歳のときに、トイレに駆け込んでぶるぶるふるえながら、「ひとつでも音をはずしたら自分は死ぬんだ」とまで思いつめていたそうです。そのときの録音も出ています。ベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第1番』。CDを通してだけなら、神童が何ごともなくバッチリ弾いているという風に聞こえます。でも、実はものすごい葛藤の結果の演奏なんです。
  ピアノを弾くというのは、幼いころから修行をしなければなりません。当然、そこには親の意志が深くかかわってきます。アルゲリッチの周囲の大人たちは、お前はこれだけ才能があるのだから、音楽と結婚するんだ、と言い聞かせたそうですが、彼女は承服できなかったといいます。プロのピアニストになるとはどういうことか、どんなことが待っているのか、どんな生活を送らなければならないのか、誰も教えてくれなかった、と。
  彼女ほどのピアニストがこういうことを言ってくれるのは、とてもありがたいことなんです。資質をよくみきわめもせずに、自分の果たせなかった夢を子供に託す親、その子供で自分のステイタスをあげたい先生。そんな大人たちの犠牲になって本当には適性のない道にすすまされる子供も多いんです。悲劇がいっぱいありますが、そのことは表に出てきません。アルゲリッチがその代弁をしてくれるのは、とってもありがたいことです。
  CD:『ドビュッシー・リサイタルT』より「亜麻色の髪の乙女」「西風の見たもの」

  第4夜:6月30日(木)
  今夜は最後なので、私にとっての弾くことと書くことの話をしたいと思います。
  もともと私は、書く方の人間だったと思います。でも、音楽家になることを反対された父親の夢を託されて、ピアノの道にすすみました。進んでしまえば、うまくなりたいと思いましたし、ライバルたちに負けたくないとも思いました。でも、前にお話したように、どこか居心地が悪かったんです。
  ドビュッシーに出会って、彼のことは紹介したいと思い、研究して論文を書きました。それが一般書として刊行されたとき、私は演奏家でもあるので、言葉だけではいけないと思い、同時にCDもつくりました。どちらもある程度評価していただき、次の本やCDも出ることになりました。
  よく、二足のわらじは大変でしょうと言われるんですが、私にとって、書くことと弾 くことは大して違いはないんです。「想念」と呼んでいるんですが、うーという何か宙をふわふわ漂っているものがあって、それが音程とリズムを持てば音楽だし、言葉をもてば音楽になるし。書くときはパソコンなので、言葉はキーボードを通して出てきます。
  ちょうど演奏しているときのようにして文章も書いているような気がします。ある一定のリズムをもって、喜んだり悲しんだり、いきどおったり。最後のクライマックスのところでは、ちょうど楽譜に「ストレッタ」と書いてあるときのように、ガーッと行きます。こういうときはほとんど書きなおしをせずに、想念が突っ走るままに行きます。ピアノの弾き方と似ているなーと思います。小といえどもピアノ弾きなので、1分間に300字ぐらい打てます。

  書くことと弾くことの技術面の違いはあります。単純に書くことでは、そんなに苦労 したことはありません。言葉に詰まることもほとんどないし、表現もすらすら出てきます。でも、何かいいたいことがあるとして、それをどんな筋道で伝えるか、どんなエピソードをどんな順番で出していくかという構成面ではとても苦労します。いつも前後をひっくり返したり、後ろのものを前に持ってきたり、ガラガラと入れ換えるので、編集者の目がテンになります。
  演奏家のときは、すでに見事に構成されている楽曲を演奏するのですから、こういう苦労はありません。私が苦労するのは技術面です。手が小さいし、固い。なかなか思ったように弾けません。若いころは1日10時間ぐらい練習しました。今は、書く仕事が忙しくてなかなか思うように練習時間がとれません。パソコンのキーボードを打つのも、実は指に負担がかかります。大事な本番やレコーディング前には、連載を前倒しにして、単行本の進行は待ってもらったりして、なるべくあけるようにしているのですが、
このごろ依頼が増えて、だんだんそうも行かなくなってきました。
  家には書斎とピアノの部屋があって、長い廊下でつながっています。ピアノで練習してうまくいかないと、バタバタバタっと書斎に走ります。そこでまた文章に詰まると、ピアノの部屋に走っていきます。そんなことの連続です。そのうち、どちらかの部屋にいつくことになるのですが、それまでのプロセスが大変です。

  これからは、執筆予定の本が沢山あるので、書く方の仕事がメインになるかもしれません。作曲家と作家のコレスポンダンス論は一番書きたいものだし、グレン・グールド論も決まっています。以前『華道』という雑誌で連載していた「花とメルヘンと音楽」は、花にちなんだピアノ曲のCDもつけて音楽絵本みたいにしたいなと思っています。
  ドビュッシーのピアノ曲のCDは是非完結させたいと思っているし、ピアノ曲についての詳しい本も書きたいと思っています。作品が生まれた時代背景から、作曲にまつわるエピソード、時代精神から割り出した解釈、ペダルや指さばきなど具体的な演奏実践まで。せっかく『ダ・ヴィンチ・コード』がヒットしたので、ドビュッシーとオカルティズムのかかわりについても、もう一度調べて書いてみたいですね。
  本屋さんの中で音楽書の棚はとっても行きにくいところにあるし、なかなか一般の方々の目にふれる機会がないのですが、クラシック音楽の発展のためにも、何とか一般書の棚にも置いてもらえるような仕事をしたいと念じています。
  CD:『ドビュッシー・リサイタルU』より「花火」


MELDE日記・目次
2005年6月23日/ぴあ・ぴあ
2005年5月30日/第7回別府アルゲリッチ音楽祭
2005年4月10日/朝日新聞の書評委員
2005年3月27日/ジャス・クラブ初体験
2005年3月20日/パリでメルド! トーキョウでメルド! 2)
2005年2月26日/パリでメルド! トーキョウでメルド! 1)
2005年1月5日/吉田秀和さんの留守電
2004年12月20日/音楽は疲労回復に役立つ!
2004年11月22日/有名にならない権利:クートラスとアルカン
2004年10月23日/14年越しのエッセイ集
2004年10月5日/プレイエルとベヒシュタイン
2004年8月25日/アテネ五輪 アナウンサーと解説者のビミョーな関係
2004年年7月4日/松田聖子体験
2004年6月1日/「メロン三姉妹」と美智子さま>
2004年4月16日/アンリ・バルダ追っかけ記
2004年3月10日/小さな大聴衆
2004年1月20日/大変なんです!!
2003年12月12日/テレビに出てみました
2003年9月13日・14日・15日・16日・17日/方向音痴のシチリア旅行 その II
2003年9月10日・11日・12日/方向音痴のシチリア旅行 その I
2003年9月8日/アンリ・バルダの講習会
2003年8月17日/東京湾大花火大会
2003年7月28日/世界水泳2003バルセロナ
2003年7月11日/新阿佐ヶ谷会・奥多摩編
2003年5月31日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[III]
2003年5月28日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[II]
2003年5月22日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[I]
2003年5月3日/無駄に明るい五月晴れ
2003年4月5日/スタンウェイかベーゼンか、それが問題だ。
2003年2月12日/指輪
2003年1月13日/肩書き
・2002年12月23日/ 年の瀬のてんてこまい
・2002年12月9日/批評とメモ
・2002年11月6日/アンリ・バルダのリサイタル
・2002年10月21日/なかなか根づかないクラシック音楽
・2002年9月26日/青山のブティック初体験
・2002年9月3日/鹿鳴館時代のピアノ
・2002年7月19日/竹島悠紀子さんのこと。
・2002年6月13日/ 生・赤川次郎を見た!
・2002年5月6日/海辺の宿
・2002年3月28日/新人演奏会
・2002年3月1日/イタリア旅行
・2002年2月5日/25人のファム・ファタルたち
・2002年1月8日/新・阿佐ヶ谷会
・2001年11月18日/ステージ衣装
・2001年10月26日/女の水、男の水
・2001年9月18日/新著を手にして
・2001年8月/ホームページ立ち上げに向けて


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