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青柳いづみこのメルド日記


2005年2月26日/パリでメルド! トーキョウでメルド! 1)
                       
  メルド日記の愛読者の皆さん、ご無沙汰です。
  現在、フランス語でいうグリップ(感冒)中。検査の結果、インフルエンザではないことが判明しましたが、抗生物質とせき止めを飲んで、ときどきゴホゴホやっています。

  吉田秀和邸を訪問したのが正月の3日。それから2月下旬までの私は、めっちゃくちゃなスケジュールだった。
  1月8日は5時に起きて大阪に行き、一日中レッスン。9日はJMLセミナーでドビュッシーの専門講座。9時から4時までノンストップでレッスンして、荻窪のイベントスペース、かん芸館に直行。5時から新阿佐ヶ谷会の寿プチ・コンセールを開くことになっているのだ。
  新阿佐ヶ谷会は、いつもは阿佐ヶ谷の家に集まっていただいてひたすら飲むだけなのだが、会員さんの中にはお酒を全く召し上がらない方もいらっしゃるし、少しは他の楽しみも、と思ってコンセールを企画した。

  出席者は会長の川本三郎先生以下、白水社の小山英俊さん、同鈴木美登里さん、元「新潮」編集部の前田速夫さん、古本ライターの岡崎武志さん、フランス文学者の篠田勝英さん、同野崎歓さん、平凡社編集部の松井純さん、「杉並界隈文学散歩」の萩原茂さん、新潮社の近藤浩平さん、新潮社写真部の田村邦男さん、国書刊行会で『ショパンに飽きたら、ミステリー』を出して下さった編集者の藤原義也さん、藤原さんの教え子で阿佐ヶ谷在住の中央公論編集部渡辺千裕さん、国連社の小野里一さん、幹事で新潮社広告部の八尾久男さん、セミナー生で八尾さんのお友達の戸張勢津子さん、戸張さんとコンサートを企画していらっしゃるソプラノ歌手の篠塚由美子さん、特別ゲストとして、
京都在住のマリンバ奏者通崎睦美さん、『華道』連載のときお世話になった編集者山本文子さん、山本さんのお友達で晶文社編集部の川崎万里さん。川崎さんは、これまた偶然に前田速夫さんのご著書の編集者でもあった。

  20分ほど遅れて始まった寿コンセール、かん芸館の館長さんご自慢のプレイエルのピアノでクープランやラモーのクラヴサン曲を弾きながら、当時の楽器や作品について解説した。リハーサルなしだったので最初は手が冷たくて、ピアノも冷えきっていて、やっと温まってきたと思ったら終わってしまった。
  1時間ほどのライヴのあとホールで簡単な立食パーティ。ここで、祖父の親友だった奥野信太郎さんの妹さんがいらして下さっていたことを知った。奥野さんからとてもステキなバラをいただき、野崎さんと写真をパチリ。それから青梅街道を歩いて阿佐ヶ谷の家で二次会。装丁家の間村俊一さんがソファにちょこんと座って待っていらしたのにはびっくりした。前日から午前さまでコンサートに遅刻し、二次会の方に直行してきたとのこと。

  いつもの阿佐ヶ谷会は12〜3人のご参加なのだが、今回はコンセールの流れで20人ほどがいらして下さり、ピアノの部屋がぎゅうづめになった。したたかに飲んで私は午前2時ごろ就寝。あとで見たら、ワインや日本酒の四合瓶4〜5本の他に焼酎の一升瓶が2本ぐらい空いていた。

  翌朝は二日酔いのままパリへ。11時45分発の飛行機だから、9時45分までに成田に行っておかなければならない。8時3分新宿発の成田エクスプレス。起床は7時。夫が起こしてくれなかったら飛行機に乗り遅れていたかもしれない。チェックインしたあと、何となくぼーっとしながら売店をまわり、友人たちへのおみやげや、サバティカルでパリ在住のフランス文学者、千葉文夫先生のために日本酒などを買った。
  飛行機の中でも食事のたびに向かい酒でジン・トニックやワインを飲み、さらにぼーっとしている間にシャルル・ドゴール空港に着陸。予定より1時間ぐらい早い到着だった。

  ここで人生最大の選択の失敗。荷物もすぐに出てきて、カートに乗せてごろごろころがしている間に、ちょっとした倹約精神が頭をもたげた。予約していたレジデンス・ホテルには8時までにはいればよい。「早く着いたことだし、地下鉄で行くか」。タクシーでパリ市内まで飛ばしても大した値段ではないのだが、地下鉄なら、勿論もっと安い。
  防寒着を詰め込んだ20キロを超える荷物と、パソコンや本を入れたとっても重いショルダーバッグをかかえてえっこらさと地下鉄のホームに降り立ち、来た電車に乗ろうとしたとき、右肩からどんとぶつかってきた男がいる。「パルドン」も言わずに通りす ぎる。失礼な奴だ、と思ったとたん、「あっ、やられた!」

  ハンドバッグの中に入れておいたサイフがない。パスポートや航空券、ユーロのチェック、クレジットカードなど大事なものはウェストバッグに入れておいたからいいのだが、サイフには日本の銀行のキャッシュカード、保険証、洗濯屋さんのフダ、日本演奏連盟やピアノ教育連盟の会員証、スイカ・カード、行きつけのイタめし屋のサービス・カードなど、ドロボーさんには全然有り難みがないが、こちらには大事なものがはいっている。

  とにかく警察に届けなくちゃ、と、北駅に着いたところでインフォーメーションに行った。受付のおばさんにこれこれしかじか、と説明したら、彼女は私の山なす荷物を見て、「あなたは一人か?」ときく。そうだと答えると、「ちょっと待ってらっしゃい、一緒に行ってあげるから」と言う。「ここから警察は遠いし、道が入りくんでいる。あなたはたった一人だし、その荷物をかかえて行ったら、もう一度ドロボーにあうかもしれない」
  それはとても親切で私は助かるけれど、インフォーメーションはどうするの? こちらが心配している間に、おばさんはどんどん受付の片づけをはじめた。だいたいパリのインフォーメーションというのは至るところで閉めていて、全然役に立たないことが多いのだが、私が原因のひとつをつくってしまうとは・・・。

  地下鉄内の警察事務所は警備が厳重で、カードを入り口に差し込まないとはいれない。なるほど、これではサイフをすられた人が行っても申告できないわけだ。出てきた警察官は、ドロボーさんの年齢や人相風体をきいたあと、駅の構内の別のオフィスに行け、と言う。えっ、何? ここじゃないの? 連れてきてくれたおばさんは帰ってしまったあとだし、事務所では荷物を預かってくれないという。一応道を教えてくれたが、私は超方向オンチだし、フランス語読解力も、道を教えてもらうときには極端に落ちる。階段を上れと言われても階段は沢山あってどこだかわからない。ぐるぐるまわっているうちにもとの場所に戻ってしまった。

  さっきの事務所から出てきた警官たちに道をきくと、一緒について来なさい、と言われた。先頭に立っているのは女性で、男性たちより頭ひとつ分背が高く、同じ制服を来てピストルを腰にさしている。お尻だけぷりんぷりんしていたけど、ブーツをはいて大股に歩く姿はけっこうかっこよかった。
  さて、やっとオフィスにたどりつき、盗難調書を作成してもらった。サイフの中に何がはいっていたかを思い出すのは大変だが、何がはいっていたかをフランス語で説明するのはもっと大変。洗濯屋さんのフダって何て言うんだろう? ほら、ズボンとかワイツャツとか洗ってもらうところ・・・プレッシング。そうそう、そこのサービスカード・・・。こんな感じだ。

  銀行のキャッシュカードだけで7〜8枚はいっていた、と申告したら、何でそんなに沢山銀行のカードがあったのか、ときかれる。日本ではもうすぐ1000万円までしか預金の保護をしなくなるので、各銀行に少しずつ預ける習慣がある、とか説明しなければならない。警察官は、日本の経済事情について詳しくなったことだろう。  やっと申告し終わったのが7時半。レジデンス・ホテルの受付は8時で終了するので 、鍵を受け取れなくなってしまう。最寄りの駅まで地下鉄に乗っていたら間に合わないので、結局タクシーに乗るはめになった。空港から乗っていればこんな騒ぎにならなかったのに。

  さんざんな出だしだったが、2週間のパリ滞在はとても楽しかった。どうも、全くの偶然ながら、行った時期がとてもよかったらしいのだ。マルセイユの恩師バルビゼの未亡人に電話したら、「夫の命日のために来たのか?」と言われた。あっ、そうだっけ。バルビゼが亡くなったのは15年前の1月18日。前日の17日にはメモリアル・コンサートが開かれるという。「絶対行きます!」ということで出かけて行った。コンサート終了後、出演者や先生たちと行ったレストランで食べた羊のあばら肉のグリルのおいしかったこと。

  マルセイユ時代の友人のクラヴサン奏者エリザベット・ジョワイエに電話したら、ちょうどルナール劇場でコンサートがあるという。彼女も含めて13人のクラヴサン奏者が、再現された昔の楽器を競演する企画なのだ。こちらも早速チケットを取って出かけた。留学中のピアニスト、溪裕子さんとご一緒し、あとで食事。イタリアン・レストランで野菜のムースとアロワイヨー・ステーキ。庶民的な店だが、なかなか美味しかった。

  ピアニスト論の取材対象の一人、エリック・ハイドシェックに電話したら、のっけから「ベートーヴェンの講座を聴きに来てくれたのか?」と言われた。これは彼の思い込みでも超能力でもなく、「スコラカントルム」でベートーヴェンの連続講座を開催中で、私にもパンフレットを送ったのだという。ところが、この手紙を私は受け取っていなかった。あとで判明したことだが、彼が住所を間違って書いたためにパリに戻ってきてしまい、私の手に渡ったのは2月末だった。

  フランス文学者の千葉文夫先生には、3回もお会いしてしまった。一回目は、パリでとても評判だというアフリカ料理のレストランでクスクスを御馳走になった(同席したのは、新阿佐ヶ谷会の篠田先生のお弟子さんで、ミシェル・フーコーで博士論文準備中の阿部崇さん)し、もう1回はご自宅に招いていただいて奥様の手料理を御馳走になった。魚のスープと鴨のソテー。台所で、先生が奥様にいろいろアドバイスしていらっしゃる様子がほほえましい。最後はスペイン料理店で、さまざまな前菜とイカスミのパエリャ。武満徹さんに取材した芝居「タケミツ・マイライフ」の初演のために来られた小沼純一さんやパリ留学中の音楽学者柿市如さんとご一緒だった。
  「タケミツ・マイライフ」だけはタイミングが悪く、初演が私の出発する日。もう一日のばしていたら観ることができたのに、と残念だった。

  やはり芝居のために来られた音楽学の小野光子さんと、お友達の料理研究家の女性のご紹介で本格的バスク料理の店にも行った。さすがに、パリのレストランの紹介記事を書いていらっしゃる方のご推奨だけあって、実だくさんのスープや野兎のパイ包み焼きがとてもおしいかった。新阿佐ヶ谷会でお会いしたばかりの野崎歓さんもパリにいらしていて、留学時代のお仲間たちとの会食に誘って下さった。バスティーユのカフェで待ち合わせして、近くのレストランへ。南系の料理らしく、ラタトゥイユやムール貝のマリネ、ポトフーなど、私の大好きな料理が沢山並んでいる。さんざん迷ったあげく、イ
ノシシの赤ワイン煮込みを注文。

  クラヴサン奏者のエリザベットの家で、私自身の留学時代の仲間たちにも会った。パリ音楽院に行ったあと、音楽学を専攻し、教育論で博士論文準備中のジャンヌ、ヴァイオリニストで、エリゼという弦楽四重奏団を組織して活躍しているクリストフ。料理は野菜サラダを前菜に、いろいろな色のラヴィオリと野菜やキノコをスープで煮たものがメイン。離婚して女手ひとつで子供を育てているエリザベットのもてなしは、とても心が温まった。

  食べ歩いてばかりいたようだが、勉強の方もしっかりすませた。パリの国立図書館は、トルビアックに移転してからは行ったことがない。資格審査が厳しくなったという話で、出版社の紹介状と勤め先の音大の証明書を持って行った。
  窓口に出てきた眼鏡のおばさんは、最初は「他の図書館でも資料を見られるのではないか」などと言っていたが、証明書を見せたら信用してくれて、図書館の下の階、つまり専門の研究者しか立ち入れない場所での閲覧許可を出してくれた。それはいいんだが、いくつか資料の予約を頼んだら、コンピューターに打ち込むために綴りをきいてくる。マルタ・アルゲリッチのスペルのどこかが間違っていたらしく、いくら検索しても資料がひとつも出ない。近い音で検索するように打ち込んでも、やっぱり出てこない。いったい、パリの国立図書館がアルゲリッチを資料をひとつも持ってないなどということがあるだろうか? むきになっていろいろな方法で検索を試みていたおばさん、最後に疲れ果てて、「ところで、このアルゲリッチとかいう人は有名な音楽家なのか?」ときいてきた。うー。

  下の階でも面白いことがあった。サンソン・フランソワのデビュー盤が出たのは1947年、まだ78回転だったころで、ラヴェルの『夜のガスパール』から「スカルボ」だけがレコーディングされている。CDボックスで発売されたのを聴いたら、頭のところが数小節切れた状態ではいっていることが判明した。いくら楽譜の読み方がいい加減なフランソワでも、大事な最初の数小節を抜かしたりするかしら? 釈然としなかったが、確かめるすべがない。ネットで検索したら、国立図書館が元の78回転盤を持って
いることがわかり、やっと真相がわかると楽しみにしてきたのだ。

  窓口で検索してもらったときはこの78回転盤も予約できていたはずなのに、席についてみると、古いレコードなので試聴できません、と画面に出てくる。受付に行って事情を説明した。自分はこのレコードを聴くためにわざわざ日本からやってきた。サンソン・フランソワはお国を代表するピアニストである。その彼の演奏が不完全な形でCDに復刻されているのを見るに忍びない、ここは是非確かめさせてほしい。
  係員たちは何やら集まって討議していたようだが、とにかくOKが出てレコードを聴かせてくれることになった。案の定、演奏は頭からきちんとはいっていた。CD化するときにコンピューターミスでも起きたのだろう。しかし、私はすぐに後悔した。2回目に聴こうとするとものすごい雑音で雨ふりのようなのである。聴くそばからレコードが傷んでいくのがわかる。貴重な録音なのに悪いことしちゃったなー、と思った。

  フランソワがらみでは、他にも面白いことがあった。ベルナール・ガヴォティの番組の映像でフランソワが出演したものを見ていたら、となりの初老の男性が画面をちらりと見て、「ワタシ、サンソンシッテマス!」と騒いでいる。きいたら、芝居の俳優で、フランソワの録音した『亡き王女のためのパヴァーヌ』をバックに自作の詩を朗読したことがあるとか。その許可をもらうために、彼が定宿にしていたジョルジュXのホテルに会いに行った。「彼はとってもきれいな男だった。演奏する身振りもエレガントで、そのまま俳優にしたいくらいだった。会ったときもとても感じがよく、快く承諾してくれた」とうっとりした眼で言っていた。フランソワは、男性の友人たちにとても慕われていた。ちょっと阿佐ヶ谷文士の中の太宰治のような存在?

  このおじさんに携帯の電話を教えておいたら、帰国間際になって電話がかかってきた。もうすぐ日本に帰るよ、と言ったら、「サヨナラ」という自作の詩につけた歌曲があるから、それを歌ってあげようという。そして、本当に電話口で延々と「サヨナラー(フランス人特有の喉ひこのエールつきで)」と歌ってくれたのだった。

  フランソワ未亡人のジョゼットにも会いに行った。彼女に初めて会ったのは、ドビュッシーの論文を書くためにパリに滞在していたときだから、もう17〜8年前。そのときはパリ16区のすごいアパルトマンを2フロアー占領していたが、現在はシャトレ座近くの語もう少し小さなアパルトマンに引っ越している。
  出てきたジョゼットはどこかでころんだのか、眼の縁に青あざをこしらえていたが、特徴のある突っ立った細い眉毛はそのまま。彼女はひっきりなしにしゃべるが、夫のことだけはあまり話したがらない。自分と息子を捨ててスウェーデン女性と同棲したまま死んでしまった夫を、本当には許していないからだろう。しかし彼女は、夫の死後「スカルボ」という財団をつくり、若いピアニストたちを支援する活動をつづけてきた。

  「とにかくひとつだけはっきり申しあげておきたいことがある」とジョゼットは言う。「サンソンはアルコール依存症だったと言われているが、全くそんなことはない。彼はとてもまじめだった。演奏する前はお茶しか飲まなかった」。でも、元指揮者で、フランソワと協演したことがあるという友人の父親は、「サンソンは演奏前にウィスキーを飲んでいた」と回想しているけれど。
  そのジョゼット未亡人に紹介されて、フランソワの最後の日々をつぶさに見ていた人物にも会いに行った。EMIの元ディレクターで、フランソワの最後の録音となったドビュッシー全集をつくった人だ。

  フランソワのことではないが、耳よりな話をきいた。ポリーニがまだグラモフォンに移籍していない1960年代、EMIでもショパン『24の練習曲集』をレコーディングしていたというのだ。ポリーニ自身は至って素直そうな青年だったが、奥さんが気むずかしくて、録音技師の仕事にまで口を出してくる。マイクの位置まで変えようとするので、スタッフはすっかり腹を立ててしまった。レコーディングもお蔵入りになったが、まだ音源はあるはずだ、というのである。グラモフォン以前のショパンの練習曲、聴いてみたい!

  やはり取材対象のアンリ・バルダにも20日に再会した。その日は、とてもことの多い日だったのである。午前中は図書館に行って、他ならぬバルダの資料を検索した。9点あって、私がまだ聴いていなかったラヴェルの『ヴァイオリン・ソナタ』と『ピアノ・トリオ』、ブラームス『ホルン・トリオ』のCDがリストアップされていたので、早速呼び出して聴いてみた。
  いつもバルダを聴くとそうなるのだが、このときも全く不思議な感じがした。ラヴェルを弾くバルダはくっきりと透明な音色で、表現もメカニカルで、とってもラヴェル的なのである。ブルースを模したラヴェルのソナタでは、バック・ビートをきかせて思い切りひょうきんにふるまっている。ところがブラームスを弾くと、突然柔らかなつや消しの音色に変わり、これまたとってもブラームス的になるのである。表現も重く深く、 陰鬱な雰囲気を醸しだす。郵便馬車のラッパを模した快速の楽章ですら、ラヴェルのときのように冷たくならない。ちょっとたとえは古いが、ツィッギーがルノワールに変身したような。

  午後は、メルド日記の2004年11月22日号でご紹介した画家クートラスの最後をお世話なさった岸真理子さんにお会いした。リヨン駅のトラン・ブルーで落ち合って簡単なお食事をしてからフォンテーヌ・ブローに向かう。
  ひろびろした敷地に母屋とアトリエが建っていて、全体がクートラスの礼拝堂のようだった。
  真理子さんのご主人はピアニストで、アトリエには1900年代初めのスタンウェイが置かれていた。マホガニー色のピアノのまわりは一面白い壁で、クートラスのグワッシュ画やカルトが絶妙のバランスで飾られている。

  思わずピアノの蓋をあけ、弾き始めてしまった。ラモーの『鳥のさえずり』『タンブーラン』『やさしい訴え』『ひとつ目巨人たち』。シンプルで秘めやかで繊細で、でも情熱的でクートラスにぴったりの音楽だ。ピアノもとってもスキテだった。華やかな、でも決してけばけばしくない音色、クラヴサン物にぴったりの軽やかなタッチ。こんなにラモーがうまく弾けたことはなかったんじゃないかと思う。

  真理子さんとワインを飲みながら、秘蔵のグワッシュ画の数々を見せていただいたあとパリに戻り、フナックで、図書館で聴いたばかりのラヴェルのCDを購入後、バルダに指定された音楽院前のカフェに行った。
  バルダとランデヴーするのはいつも大変だ。自宅に電話しても携帯に電話しても、いつも留守電。今回も、到着早々メッセージを吹き込んだが、返事はない。あきらめかけていると、突然、マルセイユにいるときに電話がかかってきた。彼の庇護者でカルダンのアシスタントをしている女性、高田好さんが背中を痛めて入院しているから、電話してあげてほしいという。

  我々はいつ会えるのかときいたら、たぶん19日の夜だろう、と言う。ところがその日に電話すると、突然電話されても困る、今日は音楽院のレッスンが長びいたので会う時間がとれない、と言うのだ。次の日もレッスンがあるというので、「見学させてほしい」と言ったら、また大声で「ダメダ、ダメダ、とても無理だ」と言う。現在の場所に移転してから、音楽院にはいるのは自分の家にはいるのと同じように難しくなった。入り口に門番がいて、学生や先生の証明書を持った人しか入れないようにしている。あるいは、何日か前に申し込んでおかなければならない、と言う。それでも念のため、とレッスン室の場所を教えてくれる。7時半にはレッスンが終わるから、音楽院前のカフェで待っているように、とのことだった。

  約束の7時半が8時になってもバルダは来なかった。じれて電話すると、一人生徒が増えて遅れている。8時半ごろになるとのこと。疲れてとろとろまどろんでいると、やっとやってきた! まー、会ってしまえば「待たせてごめん」のひと言も出るし、そんなに感じが悪いわけでもない。何でも御馳走するというので、今回はまだ食していなかったタルタル・ステーキ(馬の生ひき肉を、卵の黄身とさまざまな香辛料であえてパンに塗って食べる)を注文する。生肉がダメなバルダは、サーモンの野菜添え。前菜は山 盛りのいんげんのバルサミコ・ソースあえ。

  カフェ内は学生たちや先生のおしゃべりですごくうるさく、テーブルの向こう側に座っているバルダの話し声が聞こえない。お互いに、電報のように短い言葉をどなり合ってはまた黙る、そんなことのくり返し。私がCDを出したら、バルダはそんな昔のもの・・・と手を振ってサインを拒否。でも、口許が少し和らいでいる。ついでブラームスのトリオのことを話すと、あれはひどい出来だ、と一蹴する。不思議なことに、バルビゼのメモリアル・コンサートが開かれたのと同じマルセイユの音楽院ホールで録音しているのだ。どうしてそんな経緯になったのか訊きたかったが、周囲がうるさいのでやめた。

  そのうちバルダは、いかにもバルダらしく、どうしてレッスンを見学に来なかったのか? ときいてきたのである。だって、音楽院に入れないと言ったのはそっちだろう。だから私はあきらめてフォンテーヌブローに行ったのだ。そして、岸真理子さんととてもステキな時間を過ごすことができたのだ。人間は同時に2つの場所に存在することはできない。
  食事の終わり、バルダは私がバッグに入れなおしたCDを指さし、こんなサインしてくれた。「私の親愛なるイズミコへ。この録音はとても古い。もう30年以上前のものだ! すべての愛情をこめて。アンリ」 「愛情」といっても、彼が使った「アフェクション」は家族や友人に対するものだから、誤解しないで下さいネ。(以下次号)


MELDE日記・目次
2005年1月5日/吉田秀和さんの留守電
2004年12月20日/音楽は疲労回復に役立つ!
2004年11月22日/有名にならない権利:クートラスとアルカン
2004年10月23日/14年越しのエッセイ集
2004年10月5日/プレイエルとベヒシュタイン
2004年8月25日/アテネ五輪 アナウンサーと解説者のビミョーな関係
2004年年7月4日/松田聖子体験
2004年6月1日/「メロン三姉妹」と美智子さま>
2004年4月16日/アンリ・バルダ追っかけ記
2004年3月10日/小さな大聴衆
2004年1月20日/大変なんです!!
2003年12月12日/テレビに出てみました
2003年9月13日・14日・15日・16日・17日/方向音痴のシチリア旅行 その II
2003年9月10日・11日・12日/方向音痴のシチリア旅行 その I
2003年9月8日/アンリ・バルダの講習会
2003年8月17日/東京湾大花火大会
2003年7月28日/世界水泳2003バルセロナ
2003年7月11日/新阿佐ヶ谷会・奥多摩編
2003年5月31日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[III]
2003年5月28日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[II]
2003年5月22日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[I]
2003年5月3日/無駄に明るい五月晴れ
2003年4月5日/スタンウェイかベーゼンか、それが問題だ。
2003年2月12日/指輪
2003年1月13日/肩書き
・2002年12月23日/ 年の瀬のてんてこまい
・2002年12月9日/批評とメモ
・2002年11月6日/アンリ・バルダのリサイタル
・2002年10月21日/なかなか根づかないクラシック音楽
・2002年9月26日/青山のブティック初体験
・2002年9月3日/鹿鳴館時代のピアノ
・2002年7月19日/竹島悠紀子さんのこと。
・2002年6月13日/ 生・赤川次郎を見た!
・2002年5月6日/海辺の宿
・2002年3月28日/新人演奏会
・2002年3月1日/イタリア旅行
・2002年2月5日/25人のファム・ファタルたち
・2002年1月8日/新・阿佐ヶ谷会
・2001年11月18日/ステージ衣装
・2001年10月26日/女の水、男の水
・2001年9月18日/新著を手にして
・2001年8月/ホームページ立ち上げに向けて


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