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2004年8月25日/アテネ五輪 アナウンサーと解説者のビミョーな関係 今年は暑い夏&アテネ五輪で予定が狂いっぱなし。秋に2冊本を出す予定だったのだけれど、音楽之友社刊のエッセイ集をまとめるのが精一杯。懸案のピアニスト論は来春に持ち越してしまった。 エッセイ集といっても、以前に雑誌に発表した文章をまとめものだから、そんなに大変ではないでしょう・・・と思うのは素人考え。まず、書いた雑誌のバックナンバーとデータを探すのがひと苦労だった。 私が文章を書きはじめたのは1983年ごろからだが、当時はパソコンはおろか、ワープロも使っていなかった。手書きで丁寧に書いた原稿たち。癇性なところがあり、一字でも間違えると、また最初から書きなおす。なつかしいけれど、20年以上も前のことで、一枚足りなかったり、そもそもどこを探しても出てこなかったり。 ワープロ時代はフロッピーに入力していたが、データを探すのも容易ではなかった。何しろ整理ということができない私。200枚ぐらいあるフロッピーのレッテルには、ほんのおぼえ書き程度のメモしか残されていない。いちいち呼び出してどこに何の原稿がはいっているか、また、初校か最終ヴァージョンか、などをチェックするのに膨大な時間とエネルギーを費やした。 雑誌のバックナンバー探しもまた、尋常一様ではない。一応、寄稿した雑誌は全部とってあるはずなのだが、果たしていったいどこに? 2年前から新聞の書評委員を努めている私の家は、仕事部屋といわずピアノ部屋と玄関と言わず廊下と言わず、本と書類と郵便物の山。届いた郵便物も書類も本も、目に止まった瞬間に消えてしまい、次に思い出したときは既にどこにやったかわからなっている状況なのである。校正しなければならないゲラも、次々にどこかへ消えてしまう。まるで、私のまわりを「モノ」たちが疾風怒濤のごとく旋回していて、それを追いかけるだけで疲労困憊・・・という感じな のだ。 おまけに、現在ピアニスト論を執筆中だから、床はMDやらCDやらDVDやらヴィデオやらでいっぱい。本は踏んでも壊れないけれど、オーディオ資料だけは踏まないように気をつけなくちゃ。・・・。 何かを探そうと思うと、それだけでジンマシンが出そうになる。床や机や本棚の上や、ありとあらゆる平面にトロイアの遺跡のごとく積み上がっている書類や本をかきわけ、かきちらして雑誌を探す。実感するのは、紙は重い、ということである。やっとひとつ見つかっても、今度は、山の秩序が乱れて、どこが何の山脈かわからなくなってくる。かくして、次のものを探すときは、再び山脈をくずし・・・。あっ、でもAV資料は踏まないように。 こんな作業をしながら、いっぽうでは手にリモコン握りしめ、あらゆるチャンネルをまわしてオリンピック放送を追いかける。競技の中身は勿論のことだが、実況中継もまたなかなか面白かった。何がって、アナウンサーと解説者のビミョーな関係が。 アナウンサーは、競技には素人だがしゃべりのプロ。解説者はしゃべりは素人だが競技の細かいところまで知り尽くしている。流石と思ったのは、水泳の女子800メートル自由形。日本人の誰もが、柴田亜衣は銅メダルをとれば恩の字と思っていただろう。400メートルで優勝し、800でも飛び出したフランスの選手についで2番手につけているときも、むしろ3番手の選手が不気味で、いつ追いつかれるか、と気が気ではない。アナウンサーは我々の要望を察知し、「さあ、これから彼女の強敵は誰になるでしょうね」と解説者にきく。ところが解説者は、若くてレース経験が不足しているフランスの選手がいずれバテてくるだろう、ふんでいる。まだ5、600メートルのあたりで、「ここで踏ん張っておけば、勝機がありますね」などとコメントする。きいている方は、勝機って何の勝機? と思うのである。だって、1位と2位の差より、2位と3位の差の方が少ないのだから。650ぐらいのターンのとき、解説者は「メダルは取れると思うんですよね。あとはとらえられるかどうかですね」と言う。相変わらず銅メダルのことしか頭にないアナウンサーは、「これまでの泳ぎっぷりからそう推察されるんですか?」といぶかしげにきく。 アナウンサーは、柴田が1位との差を詰め始めたポイントも逃してしまう。解説者の「おっ」と言う声でようやく気づく。フランスの選手が疲れたのか、柴田がスパートしたのか。おそらくどちらもだろう。水車のごとく腕をまわし、あっという間に並びかける。それでもまだ2位のまま。うしろから3位の選手も追ってくる。フランスの選手も少し抜き返す。 最後の750のターン寸前でもまだ2位だったが、解説者はターンをしたとたんに「逆転!」と叫んだ。アナウンサーがようやく本気になりはじめたのは、ここからだ。柴田は猛烈に追い上げ、並び、そして追い越す。いつもはここから離されていく日本選手ばかり見ていたアナウンサーは、信じられない気持ちだったのだろう。それが正直に出て、とても臨場感のある実況になった。最後は、全視聴者の気持ちを代弁して、「大変なことになりました! 大変なことをやりそうです!」と絶叫。これは、有名な「マエハタ、ガンバレ」についで名実況放送として長く歴史に残るだろう。古館伊知郎のようにあらかじめ選んでおいた言葉ではない、彼自身の心からの驚きが、そのまま口をついて出た。と同時に、かなり早い時点でこの事態を予測していた解説者の冷静な目にも脱帽。 逆に、女子マラソンの解説を努めた有森裕子さんは、どうやら野口みずきさんがヌデレバに抜かれると思っていたふしがある。とにかく、不安材料ばかり口にしていた。もともと、歩幅が狭く、ぺたぺた走る有森さんは、野口さんのストライドの大きな走法がピンとこなかったのだろう。走りはじめのころは、アテネのようにアップダウンの大きなコースは、歩幅の狭い土佐礼子さんの方が向いている、と言っていた。このあたり、一流選手を解説者に持ってくることのマイナス面だ。一流のアスリートには強固に打ち立てた自分の走法や組みたてがあり、なかなか客観的かつ普遍的、鳥瞰的な視点を持ちにくいのだ。観戦している方としては、野口さんが抜かれそうなのか、大丈夫なのか、あるいは、どのぐらいまで迫ったら危ないのかを一番知りたかったのに。 そんな有森さんの解説で面白かったのは、ヌデレバ選手が汗をかいているので、あんまり調子がよくないのではないか、と言っていたことだ。土佐礼子さんが遅れはじめたときも、ランナーは一人にならない方がいい、誰かにつかなければ、と心配していた。競技者でなければわからない心理面や実践面に踏み込んだ解説は貴重だ。この場合、アナウンサーにもう少し専門的な知識を持った人を配して、有森さんをフォローするようにしたらよかったかもしれない。 結果がはっきり目に見える競技ですらこうだから、採点競技はなおさら難しい。これはピアノ演奏にも共通することだが、専門家の視点と競技を楽しんでいる一般視聴者の目にはかなり差がある。その最たるものが飛び込みだ。くるくるまわりながら飛び込んで、水しぶきが少ないほどよい、というのは知っている。しかし、目にもとまらぬ演技の中で、飛び方の難易度、板との距離の取り方、高さなど、ぱっと目にはさっぱりわからない。アナウンサーもわからないらしく、演技が終わっても曖昧なことしか言わない。 素人目にはすごくよかったと思っても、解説者はあそこがどうの、ここがどうの、と難癖をつけている。逆に、そんなによくなかったと思っても、解説者が口をきわめて誉めていることがある。それも専門用語が多くて、結局のところどこがどうよかったのかはっきりしない。また、点数が解説者の言った通り出ないことも多いのである。こうして我々は、素人の素直な感想、アナウンサーのどっちつかずの感想、解説者の専門的な講評、審査員の点数・・・とばらばらな価値観の間で引き裂かれることになる。 専門的な視点と観客の印象の差がもろに出てしまったのが、体操競技だった。今回は採点方式が変わり、大業を連発しても姿勢欠点や着地ミスで点を引かれてしまうから、目で見て面白い体操になかなか点が出にくい。優勝することだけを考えたら、難度の高い技を抜いて着地を決めた方が有利かもしれない。ピアノ演奏でもよくあるが、安全運転で面白くも何ともない演技がつづいた。 このシステムに泣いたのが、平行棒で世界ではじめて月面宙返りで降りた中野大輔選手だった。(関係ないけど、ルパン三世に似ていませんか?)着地で少しぐらついたが、練習の映像でしりもちをついているところしか見ていなかったから、立ったー! と感激した。しかし、得点は意外にのびず、メダル圏外。 この中野選手を指導してきた森末さんは、コメンテーターとして出演したテレビ番組で、技を抜いてメダルを取った選手を批判し、中野選手こそ金メダル、と力説していた。でも、私は知っている。彼が出場したロサンゼルス五輪のときも審判が変で、着地さえ決めれば十点満点が出る雰囲気だった。すでに鉄棒のモリスエとして知名度バツグンだった森末さんは、降り技の難度を抜いて着地をぴたりと決め、金メダルを獲得したのだ。 単純明快だったロス五輪とは対照的だったのが、アテネ五輪の採点基準。着地がぴたりと決まればいいのかと思うとそうでもなく、姿勢欠点があっても高得点が出たり、でも、大業があっても点がのびなかったり、どうもワケワカンナイ状態だった。審判を加点するグループと減点するグループを分けたというが、採点方式が複雑になりすぎて混乱し、個人綜合では採点ミスも出てしまった。正しく採点していれば韓国の選手が金メダルだったというのだから、これはひどい。 種目別の鉄棒でも、離れ業を連発したロシアのネモフ選手に対して出た点が低く、観客のブーイングで審判が点を修正するという前段未聞の珍事が起きた。ロシア選手団は、全般的に採点で差別されたとして審判団に抗議を申し入れたというが、たしかに、素人目にもホルキナ選手への得点が異様に低かったと思う。あれだけ世界で戦っている選手だから、自分の演技の感触はだいたい掴めるだろう。彼女自身も成功したと思い、アナウンサーも、すばらしい! と叫んでいるのに、出た得点に唖然とするというケースが目立った。何があったのだろうか──。 少し気になったのが、その女子体操の解説者だった。選手がミスを冒すたびに、あっ、ちょっとぐらつきが見えましたね、この技はナントカ難度ですから何点から何点まで減点ですね、とか、今のは大過失で、技はナントカ難度ですが、加点が認められなくなってしまうところですが、審判はどう評価するでしょうか、とか、いちいち専門的な解説を加える。それも、嬉しそうに(!)。 (これは、ピアノ弾きのひがみかもしれない。たとえばラヴェルの『スカルボ』を弾いているときに、あっ、今の連打音はスーパーE難度ですが音がひとつ出なかったので何点の減点ですね、とか、今のD難度の跳躍には音のかすりがありました、何点減点です、とか言われているような気分になるのだ) 選手の演技はずっと見つづけていて、この演技は世界選手権のときは成功したが今回は失敗した、とか、予選では抜いてきたが今回は入れたとか、非常に細かくチェックしている点は評価できる。また、すべての演技の加点や減点基準をよく把握して、的確な解説をしているのもよくわかる。 それはわかるんだが、ほら、今あなたがこんなに感激している演技でも、専門家の目から見たらこれだけの減点箇所があったのよ、こーんなにダメな演技だったのよ、私にはそれがわかるのよ・・・と自慢しているように──少なくとも私には──聞こえてしまうのだ。バレーの大林素子さんのように選手の立場に立ち過ぎてしまう「お友達ノリ」の解説も困ったものだけれど、まず第一に五輪という極限状況で演技している選手への尊敬、共感というようなものがなければ、バランスのとれた解説はできないだろう。この点で、新体操の山崎浩子さんの 解説は秀逸だった。 |
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