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青柳いづみこのメルド日記



2004年4月16日/アンリ・バルダ追っかけ記

 とにかく、「シャートールー」を探すのが大変だったのだ。
  3月の中ごろ、先輩ピアニストの平尾はるなさんから電話をいただいた。先日までパ リに滞在し、パリ音楽院で、メルド日記ではおなじみ(2002年11月6日、2003年9月8日)のピアニスト、アンリ・バルダのクラスも見学してきた。そのとき小耳にはさんだのだが、4月1日と2日にバルダがどこかのシャトーで弾くらしい。生徒の演奏会の次の日だそうだ。ブラームスとラヴェルとショパンを弾くと言っていた。ただし、あんまり練習していないからと、生徒には来ることを厳禁していた・・・。
  瞬間的に、行こうと思った。バルダのピアノは、2年半ほど前に東京と松山で聴いた。あのときの不思議な感じ、リズムの浮遊感をもう一度追体験したい。ちょうどピアニスト論を執筆中で、他のフランスのピアニスト、たとえばエリック・ハイドシェックや亡きサンソン・フランソワの取材もできる。関連して、昔のお師匠さん、ピエール・バルビゼの未亡人も訪ねよう。大学も休みだし、仕事も一段落──数ある締め切りを前倒しで入れさえすれば──つくころだった。

  しかし、シャトーと言っても沢山ある。どこのシャトーか? 開催時刻は? 主催は? 平尾さんは何もご存じなかった。
  やはり先輩ピアニストの高野耀子さんにお電話してみた。パリ在住の高田好さん(ピエール・カルダンのアシスタントをしていた女性)のサロンでバルダの演奏を聴いてほれこみ、東京と松山の公演を実現させた方だ。しかし、彼女は何も情報を得ていないという。高田さんに電話してみる、と言って下さった。
  連絡待ちの間、ピアニストの川野さんにも電話を入れた。バルダが講師をつとめるナンシーの夏季講習の受講生。パリ音楽院でバルダに習っている韓国人の生徒さんのメール・アドレスを知っているので、きいて下さるとのこと。
  こちらはすぐに返事が来て、どうも、2日は生徒たちの演奏会で、バルダの出演日は3日であるらしいことが判明した。しかし、開催場所や開催時刻など詳しいことは何もわからない。もう一度生徒さんにメールを入れていただき、とりあえず航空券を手配した。

  3月31日には、『すばる』にレポートを書くことになっている内田光子の最後のリサイタルがある。それを聴いて1日に発ったとして、その日の夜にはパリに着くから、場所があまり遠くなければ生徒の演奏会から聴けるはずだ。
  2、3日待ってみたが、誰からも情報がはいらないので、仕方なくバルダの自宅にFAXを打った。平尾さんから生徒さんの演奏会とあなた自身のリサイタルのことを伺った。たぶんあなたは聴いてもらいたくないと思われるだろうが、自分にとってあなたの演奏を聴くのは大きな喜びであることも、またよく知っていらっしゃるはずだ。そんな内容。
  再度川野さんに電話。韓国人の生徒さんからいっかなメールが届かない、きっとバルダに口止めされているのだろう、というような話になった。

  さらに3日ほどたって、バルダ本人から直接FAXがはいった。あなたは、シャトールーで開かれる取るに足らない小さなリサイタルを、わざわざ日本から(大文字になっていた)聴きに来るというのか? 場所はパリではない、300キロメートルも離れたところで、自分ですらどうやって行ったらよいのかわからない。全く無意味な話である。考え直してくれ、もう少しききわけよくしてくれ! 急に決まったコンサートで、あまり準備もしていない。演奏会から帰ってから会おうではないか・・・と言いつつも、会場の連絡先と高田さんの電話番号が書いてある。
  ここでやっと、演奏会はシャトー(城)ではなく、シャートールーという土地で、それも4月3日ではなく4日に開かれることが判明した。3日は近郊のサン・ゴーチエという町であるらしい。すぐに地図を見る。何のことはない、シャトールーはリモージュに向かう鉄道の沿線にあり、パリから2時間ほどで行ける。

  2日後にもう一度バルダからFAXが届いた。シャトールーはパリから汽車で2時間ほどのところで・・・と、こちらがすでに調べた情報が書かれてあり、演奏会は4日の4時からなので、日帰りもできる、よいご旅行を祈る、とあった。
  長々と顛末を述べ立てたのは、こんなエピソードがバルダの人となりをよく物語っていると思うからだ。あとでわかったことだが、私のFAXを受け取ったあと平尾さんに電話し、どうして私に演奏会のことをしゃべったのか、と怒っていたという。
  それでは、どうしてわざわざ自分から開催地と場所、連絡先を知らせてきたのか?
  その辺もとってもバルダで、何かをお願いするとまず拒絶反応を示す。それからおもむろに、お願いしたことをかなえてくれるのだ。だったら、どうして最初からやってくれないのかと思うのだが、その辺りがやっぱりバルダなのだろう。
 
  シャトールーは、ショパンがジョルジュ・サンドと住んでいたノアンのすぐそばにある、小さな町である。ホーム・ページへのメールで知り合ったパリ在住の画家萬小路さんと、パリ第10の博士過程に留学中の阿部君、リヨンに留学中のピアニスト加茂さんを誘って、ピクニック気分で行った。
  コンサート会場は駅から10分ほど。近代的な文化会館の隣の石造りの教会で、私たちが着いたときは調律の音がガンガンしていた。ということは、外の音も中に漏れるということだ。
  教会の扉には、演奏会のポスターがはってある。生徒の演奏会は2日に予定されていたが、5月に延期されたとも書かれていた。これは残念。というのは、とくに韓国の16歳の女性はとてもすばらしい才能ときいていたからだ。
  曲目は、シューマン『クライスレリアーナ』にはじまり、ブラームスの作品76のカプリッチオやインテルメッツォ、作品117のインテルメッツォ。休憩のあと、ラヴェルの『高雅で感傷的なワルツ』とショパンの『4つの即興曲』と『子守歌』『舟歌』。

  会場は普通のチャペルで、祭壇の上にスタンウェイのフルコンサートが置かれ、白い柱の陰から照明がやわらかい光を投げかけている。客席は赤いパイプ椅子で、途中から段をつけて高くして、ステージが見やすいように工夫がされている。数を数えたら、だいたい100席ぐらいの会場だった。
  ステージ明かりがつき、バルダが客席の後方から出てくる。少し右肩を下げた歩き方。 シューマンは、ものすごい速さで、まるで楽器を相手にむかっぱらを立てているみたいだった。ピアノもまだ鳴りきらず、中音部がくぐもったような音。しかし、途中で思いがけずふっくりしたやさしさが出てくる。

  ブラームスは初めて聞いたのだが、これがよかった。今さらながら、音楽を聴くとは、演奏家と作曲家の心の中にはいりこむことだと思う。暗闇の中でさまよい、道をさがしている人。見つられず、その絶望感。喉が詰まるような悲哀。バルダの中でいろいろな想念が渦を巻いている感じがする。ほんのときたまふっと幸せになる。ときに無邪気に、天真爛漫になる。
  とりわけ作品76のカプリチオ第2番が独特だった。ひきつったスケルツォ。場末のジンタのような哀愁が漂う。手首をふるわせるスタッカートとペダルを踏む足の円運動がリンクしている。カプリチオ5番は、深い激情。オクターヴのあとぱっと手をひき、響きを残してからまた鍵盤に向かう。乗ってきたぞ。腕を向こう側に上げて音に表情をつける。往年のヴィルトゥオーゾ風のオクターヴの連続で終わる。

  作品117のインテルメッツォ第1番も印象深い演奏だった。ブラームスの後期の作品は、まるで隠者のように弾く人が多いが、バルダはまだ枯れていない。対旋律が人声のよう。ときどき、こんなパーツがあったのか、とびっくりするようなものが聞こえてくる。消えゆくピアニッシモ! 先週まで公演を聴いてきた内田光子のピアニッシモもすばらしかったが、彼女の場合は、前に大伽藍を建てず、いきなりたゆたう。バルダは、あちこちで衝突してきた末のあと曳きだから、余計深みがある。涙がじわっ。2番は、宙ぶらりんの暗さで、彷徨するバルダの様子がありありとわかる。刻々と移り変わる不安定な和声。すべてのパートが渾然一体となりつつ、各パートがはっきりきこえる。しかもそれぞれが語りかけてくる。弔いの鐘のようなバスを入れたとたん、外から救急車の音がきこえた。

  終わったあとささやかなパーティがあった。訪問客のうしろから合図すると、こっちへ来いという仕種。おめでとうの抱擁をして、嬉しかったので少しとびはねた。バルダも一緒にとびはねていたが、アイーと顔をしかめ、すぐに背中が痛い、という。昔のお師匠さんのバルビゼなら一気に盛り上がってしまうのだが、こういう風に感激に水をさす人だ。
  面と向かって、やっぱり来たのか、気違いじみている、と言われた。別にあなたのためにだけ来たわけではない、なんぞと言おうものなら、さらにひねくれてしまうだろう。それでもめげずにインタビューを申し入れたところ、パリに帰ったら、都合のいいときに電話するから、連絡先を自宅の留守電に吹き込んでおいてくれ、とのこと。最後にやっと、来てくれてありがとう、と言ってもらった。

  ところが、その晩いくら電話をしてもお話中でかからないのである。次の日、8時半に電話したら、蚊の鳴くような声。「ご機嫌如何?」と言ったきり、長い沈黙。とりつくしまがない。昨夜は遅く帰ってきてなかなか寝つかれなかった、それなのに7時に起きてしまった、と。演奏会のあとは興奮して眠れないのは当たり前。グルーピーは嫌いだ、とも言われた。私は取材なんだけど。とりわけブラームスがよかったと言うと、本当か? と反応を窺うような気配がある。
  何とかアポイントメントを取り、次の日、ルーブルの逆さピラミッド前で待ち合わせした。会ってしまえば、友好的な雰囲気になる。いきなり、自分の彼女を見せてあげようと言い、ある彫刻の前に連れて行ってくれた。ヴェールで顔を覆った女性の彫像で、大理石なのに、透明な布とその下に隠れた顔が実にうまく表現されている。このあたりのテクニックは、バルダのピアノにも通ずるものがあるような気がした。全体に霧をかけながら、各声部を浮き彫りにしていく手法。

  絵の話をする。ダヴィンチ、ゴヤ、モロー。ターナーは、印象派以前にあのスタイルはすごい、という点が意見が一致した。無名だったドラクロアがボードレールの美術評論で発掘された話は知らなかったようで、記事や批評にそんな力があるのか、とつぶやいていた。そうなのだ。だから逃げるなよー。
  レンブラントが好きだというと、その部屋は17時で閉めるしここから遠い、と言う。月曜日の開館は何時から何時までで、誰それの部屋は何時まで・・・と細かく言うので、暗記しているのかときいたら、昔からパリに住んでいるんだと言う。カイロ生まれのバルダは、16歳でパリに出てきたのだ。
  歩きながら、昨夜のことを少しずつ。前の晩、サン・ゴーチエでの公演はわざわざ来ることはなかった、徒競争みたいなもので、あっという間に終わってしまった。自分でもどうしてかわからない、と言う。楽器のせいか? ときいたら、いや、ピアノはむしろ昨日のものよりよかった、と言う。

  レオナルド・ダ・ヴィンチの描く女性の顔。目に宿るいたずらっぽそうな表情が、演奏会のポスターに使われていたバルダの写真にそっくりだ。
  立体的に構築された油絵を見ていると、やはり西洋音楽の根源はここにあると思う。暗い中から浮かびあがるもの。浮世絵に影響を受けた近代絵画は、そこを通り抜けたあとのことだ。最初から平板なのとは違う。
  ドラクロワの絵の前で、これはあなたのブラームスに似ていると言ったら、びっくりしていた。「暗い?」ときく。「そう」「カプリチオの2番も? あれは楽しかったでしょう?」と言って歌ってみせる。「あれ、すごくよかったですよ」「自分でもうまく行ったと思っている」「ただ面白い、愉快なだけではなく、辛辣で皮肉っぽい感じがよかった」と言うと首をかしげている。あんまりわかってないみたい。
  「インテルメッツォは退屈じゃなかったか?」ときくので、「とんでもない、しみじみしていて、思わず涙が出そうになった」と言ったら、「それはほめすぎだ」という。「本当だ」と言ったら、少しやわらいだようだった。

  こんな気持ちは、私にもよくわかる。芸大を卒業したとき、虎ノ門の卒業演奏会でショパンの練習曲を抜粋で弾いたら、熱烈なファン・レターをもらった。「あなたは幻影を見ているのです。でも、そのイマジネーションを大切にして下さい」という返事を書いた。 
  前の晩シャンゼリゼ劇場で、バルダのジュリアード時代の同級生ギャーリック・オールソンのブラームスを聞いた話をした。ショパン・コンクール優勝者で、いわゆる「グランド・キャリアー」を築いているピアニストだ。「すばらしかったか?」ときく。「全然」と言うと、「ラジオで少し聞いた。自分の本番の前の日だった。おとなしくて何も起こらない。彼は大きな手と大きな身体をしていて、ものすごく容易性(ファシリテ)がある。キャリアーを積むにはその方がいい」と言う。オールソンはたしかに楽々と楽器を鳴らしていたが、アメリカンな感じで、気持ちが動かなかった。

  あなたのショパンのワルツのCDはもう出たのか? ときかれる。昨年の夏、六甲山の講習会で少しレッスンしてもらった。ショパンのワルツは大好きだ、とバルダが言う。「アンコールに弾いた8番のワルツ、よかったですね」と言ったら、否定しなかった。妙に素直。バルダが弾くと、リズムの遊びのパターンが刻々と変化するので、少しも小さな曲に聞こえない、ペダルもバスだけにつけてあとはノーペダルにするとか、いろいろな工夫があって楽しい。即興曲の第1番もそうだが、バルダのショパンには、往年の音楽映画のような懐かしい華やぎがある。
  カフェにはいる。私はカプチーノ、バルダは水を注文。問わず語りに、『ウェストサイド物語』の振付師ジェローム・ロビンスの話をする。以前にも書いたと思うが、バルダは10年ほど、ロビンスの創作バレエのピアノを弾いて、パリのオペラ座はじめ世界各国の劇場をまわっていた。以前に、ヴィデオがあったら見せてほしいと頼んでおいたのだが、家のどこかに埋もれている。たぶん地下の旅行かばんの中で、自分も見たいのだが、探せそうにないと言う。

  1989年に電話がかかってきて、ピアニストのなり手がいないから面接に来てくれないか、と頼まれた。沢山審査員がいるのかと思ったら、ジェローム・ロビンス一人で、わざわざ電話してきたのだからピアニストは1人かと思ったら、こちらは沢山いた。ショパンのノクターンを数曲弾いたらOKだった。
  リズム感が特別だと思うと言ったら、認識していないらしく、別に計算したものではない、ある曲をどんなテンポで弾き、どこはどんなテンポにするか、弾きはじめるまでさっぱりわからない、と言う。
  ショパン、ブラームス、シューマン、ラヴェル、ラフマニノフ、スカルラッティ。「弾く曲とスタイルによって何人ものバルダがいる感じだ。アプローチも音色まで変わってしまう」と言うと、びっくりしたように「ラヴェルのときもか?」ときく。そうだと言うと、これも全く意識していない、しかし最大の賛辞だと思う、と口もとがほころんだ。

  高野さんから借りたテープで、国立放送管弦楽団と共演したラフマニノフの『ピアノ協奏曲第1番』を聞いた話もした。「あれはすばらしい、あんな演奏は一生に一度しかできない」とのこと。「もう20年も前だ。日本に行ったのと同じころ」
  ラフマニノフの2番を弾いてみたい、と言う。3番は弾いたことがあるが、2番はまだ勉強していない。1番は、放送響のとき以来弾いたことがないので、もうすっかり忘れてしまった。これから協奏曲を弾こうとすると、マネージャーやいろいろな問題があってややこしい。
  マネージャーの話は、高野さんからきいて知っている。昔は女性の敏腕マネージャーがついていたのだが、彼女は乳ガンに罹り、それを苦にして自殺してしまった。バルダは、とにかく運が悪い。パリ音楽院でも一番可愛がっていた有望な生徒が、わずか21歳で癌で亡くなっている。

  それから、突然、一九八一年の日本でのツアーの話になる。このときは敏腕マネージャーの売り込みで、N響の定期でショパンの2番を弾いたのだ。そのあと、日経ホールでリサイタルを開いた。響かなくてむずかしいホールだった。そこではショパンの2番のソナタを弾いた、と。こちらは、雑誌の批評で知っている。
  今回、シューマンの『クライスレリアーナ』は早く弾きすぎた、と言う。本当は、ブラームスの『バラード』4曲を弾きたかったのに、主催者側から前半が全部ブラームスでは渋すぎると言われた。日本ではこちらのプログラムで弾きたい。「幻想即興曲も早すぎた、真ん中はうまく行ったけれど・・・」。バルダのアイドルはホロヴィッツで、あんまりホロヴィッツ風になると、指がまわりすぎて聴衆を置いてきぼりにしてしまう。
  「今年も六甲山に行くんですか?」「まだ決まってはいない」。あとでコンサートも企画されているという話だが、ともちかけると、その時期ではなく11月だという。でも、小さなホールしかない。昔神戸で弾いたときも、人の頭が見えるようなホールだった。自分はもっと大きな会場で弾きたい。小さなホールは自分には合わない。本当にそうなのだが、集客の問題がある。

  美術館を出てルーブル前のヴァージン・レコードに行く。バルダは映画のDVDのところで立ち止まってしまい、奥のクラシックのCD売り場にははいっていかない。「悲しくなるから」と言う。私も沢山CDが並んでいるのを見ると頭が痛くなるのだが、かまわずはいって行って、ちょうどEMIからリリースされたばかりのフランソワとハイドシェックのCDを購入。
  さらに本の売り場にまわって、先ごろ亡くなった作家セバスチャン・ジャプリゾの本名のジャン・バティスト・ロッシ名義で書いている小説集も購入した。祖父青柳瑞穂が処女作『不幸な出発』を翻訳しているマルセイユ出身の作家で、純文学では食べて行けないのでミステリーに転向し、『シンデレラの罠』がベストセラーになった。その後映画の脚本なども書いていたが、鮮烈なデビューのわりには大成しないで終ってしまった感じがする。日本文学のファンで、『暗殺者の夏』の翻訳者が自宅を訪ねたとき、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』が好きだと言っていたという。
  バルダはさる老婦人の家に夕食に行くとのこと。その前に花を買わなくては。病気の人、老いた人には本当に優しい。私はオペラ座でオザワ指揮のラヴェル『スペインの時』とプッチーニ『ジャンニ・スキッキ』を観るので、車で送ってもらい、入り口で別れた。


MELDE日記・目次
2004年3月10日/小さな大聴衆
2004年1月20日/大変なんです!!
2003年12月12日/テレビに出てみました
2003年9月13日・14日・15日・16日・17日/方向音痴のシチリア旅行 その II
2003年9月10日・11日・12日/方向音痴のシチリア旅行 その I
2003年9月8日/アンリ・バルダの講習会
2003年8月17日/東京湾大花火大会
2003年7月28日/世界水泳2003バルセロナ
2003年7月11日/新阿佐ヶ谷会・奥多摩編
2003年5月31日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[III]
2003年5月28日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[II]
2003年5月22日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[I]
2003年5月3日/無駄に明るい五月晴れ
2003年4月5日/スタンウェイかベーゼンか、それが問題だ。
2003年2月12日/指輪
2003年1月13日/肩書き
・2002年12月23日/ 年の瀬のてんてこまい
2002年12月9日/批評とメモ
・2002年11月6日/アンリ・バルダのリサイタル
・2002年10月21日/なかなか根づかないクラシック音楽
・2002年9月26日/青山のブティック初体験
・2002年9月3日/鹿鳴館時代のピアノ
・2002年7月19日/竹島悠紀子さんのこと。
・2002年6月13日/ 生・赤川次郎を見た!
・2002年5月6日/海辺の宿
2002年3月28日/新人演奏会
2002年3月1日/イタリア旅行

2002年2月5日/25人のファム・ファタルたち

・2002年1月8日/新・阿佐ヶ谷会
・2001年11月18日/ステージ衣装
・2001年10月26日/女の水、男の水
・2001年9月18日/新著を手にして
・2001年8月/ホームページ立ち上げに向けて


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