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2003年9月8日/アンリ・バルダの講習会
8月15日から25日まで、神戸は六甲山のRCNホールでフランスのピアニスト、アンリ・バルダの講習会の取材兼通訳をしていた。
バルダの名を知ったのは、2002年の11月である。安川クラスの大先輩のピアニスト、高野燿子さんのすすめでトッパンホールでのリサイタルを聴いた。その模様はこの日記でも記したから省略する。
とにかく強い印象を受けた。その印象のよってきたるところを確かめたくて、松山での公演も聴きに行った。東京のホールより小さな会場で、二度目ということもあり、少し緊張がゆるんだようなところもあったが、印象は変わらなかった。とりわけ、舞踊系の作品の演奏にただならぬものを感じた。ラヴェル『高雅で感傷的なワルツ』、アンコールで弾いたショパンの『ワルツ第8番』。リズムのはずませ方、ルバートとその戻し方、軽やかな飛翔と絶妙な拍の柱のおろし方。その自在な感じが、それまで聴いたどのピアニストとも違っていた。
これはあとで知ったことだが、バルダはジェローム・ロビンス(『ウェストサイド物語』の振り付けで知られる)がショパンをアレンジした一連の演目のピアニストを10年以上もつとめていたのだ。パリのオペラ座はもとより、ニューヨークやロンドンにも演奏旅行し、東京にも来たことがあるという。弾くのはワルツやマズルカ、ノクターンや子守歌、エチュードやバラードなど。練習ピアニストではない。舞台の上でピアノを弾き、最後は演技までするのだ。ギャラも主役のダンサーたちと同じ額を支払われる。
以下は、バルダの話。契約をかわしたあと、テンポの参考にするようにと、ニューヨークから音楽のカセットテープが送られてきた。しかし、そのピアニストはただ楽譜に書いてあることを弾いているだけで、踊るのにふさわしい演奏ではなかった。自分は、踊り手のステップに合わせて自由にテンポを変えることができるし、その日の好不調に合わせて微調整することもできる、と自負していた。
生きた音楽をやれる人だからこそつとまる仕事だし、また、そうした経験を経てきた人だからこそ、あれほど生き生きと舞踊音楽を弾くことができるのだ、とも思った。
足もとにも注目した。興が乗ってくるとバルダは、右足をペダルから上げ、宙で自転車を漕ぐような動作をする。レヴィだ、と思った。安川先生からレヴィ直伝のハーフペダルのテクニックを教わったことがある。かかと浮かせ、自転車漕ぎの要領で膝を前後に動かす。その動きでペダルを操作する。座り方の悪い私はとうてい真似できなかったが、先生の足の動きはまるで魔術を見ているようで、繊細かつ美しかった。
バルダを初めて聴いたころ、白水社でピアニスト論を書く話がもちあがっていた。正直言って、気のりがしなかった。ゴルフや野球など、引退した元選手が現役プレーヤーの解説をするケースはよくある。やはり専門家特有の視点があるし、プレーヤーの気持ちもよくわかるから面白い。しかし、演奏家に引退はない。編集者が求めているのは、ポリーニ、アルゲリッチなど、クラシック界なら誰でも知っている超ド級の名手ばかりである。それぞれ強烈な個性の持ち主で、はるか彼方に燦然と輝くスターたち。そんな名ピアニストを、ペーペーの私がエラソーに論じること自体、抵抗があった。
しかし、バルダを聴いて考えが変わった。この人のことは書きたい、と思った。国際的にはほとんど無名に近い。勿論、パリ音楽院の教授だし、フランス国内の著名なフェスティヴァルには招かれて演奏している。フランス放送管弦楽団とも共演しているが、その実力に比して不遇の印象がある。ある新聞評には、年に4回しか人前で弾かない神秘のピアニスト、と書かれていた。1981年にはN響の定期でショパンの2番の協奏曲を弾いているが、以降の来日は、友人たちが個人的に招いたものだ。
書きたい、とは思ったが、バルダには材料というものがない。1941年、エジプトのカイロ生まれ。ティエガーマンというポーランドの作曲家兼ピアニストに手ほどきを受け、16歳でパリに出てきて、安川先生のお師匠さん、ラザール・レヴィに師事した。19歳でパリ音楽院に入学、レヴィはもう退官していたため、高野耀子さんと同じベンヴェヌッティに師事した。21歳で1等賞を得て卒業。ラドー・ルプーが優勝したときのヴァン・クライバーン・コンクールでファイナリストに残り、給費生としてジュリアード音楽院に入学。ピアノと作曲を学んだ。カントロフと共演した室内楽のCDでは1978年にブダペストのリスト賞を、ショパンのソナタ3曲のCDでは1990年にワルシャワのショパン賞を受賞しているという。
わかっているのはここまで。インタビュー記事も過去の演奏会評も、CDのライナーも、とにかく、演奏家論を書くときは目を通しておくべき資料というものがほとんどない。たまたま、彼が六甲山頂の講習会に来るという話をきき、通訳を申し出た。
この講習会は昨年から開かれているとのことだが、バルダが講師をつとめるのは今年が初めて。RCNホールの1階スタジオにピアノが置かれていて、10人ほどの人が聴講できるようになっている。バルダは大音響が出るので、狭い部屋ではちとかわいそう。でも、これはバルダ自身の申し出によるものだという。最初、主催者側はメイン・ロビーの会場を予定していたのだが、人の出入りが多いことを嫌ったバルダが、スタジオを要求した。ドアには「レッスン中の出入りを禁じます」という貼り紙もしてあってものものしい。
バルダのレッスンは、リサイタルのあと高野さんのお宅や、やはり先生の世話していらした秦はるひさんのお宅で聴講したことがある。レッスン中のバルダは、興が乗ると自分でどんどん弾き出してしまい、それがとても楽しかった。そのときレッスンしている曲だけではない、共通点のあるシンフォニーやオペラなど、何でも出てくる。ときには、弾いているうちに、いつの間にか映画音楽の中のパッセージになってしまったりする。
ところが、六甲山の上にピアノを運び上げるのは大変だったとみえて、スタジオには¥ピアノが一台しかなく、バルダは生徒の横から手を出して弾いてみせる程度。これは、¥残念だった。とくにラフマニノフの協奏曲第2番が出てきたときは、2台あればオーケ¥ストラを弾いてあげられるのに、と悔しがっていた。
レッスンは一律1時間半。受講生は10歳の天才少女から、音大志望の高校生、音大¥生、パリ音楽院に合格したばかりのピアニストの卵やリサイタル間近の若いピアニスト¥、音大の先生方、趣味でピアノを弾いている人・・などさまざまだった。レッスン回数¥も、5回全部受ける人、1、2回しか受けない人とさまざま。その都度、レッスン方法¥を変えなければならない。
沢山を曲を用意しているのに全部弾けない人、1時間半もあるのにソナタの1楽章とか、組曲の中の一曲しか用意していない人もいて、時間の配分に苦労する。バルダは作品の一部だけを弾くのが嫌いで、ソナタなら全楽章、組曲なら全部勉強するように言う。コンクールやオーディションのために繰り返しを省略する人も多いが、二度目には解釈を変えて弾きたいので、是非くり返すようにとすすめていた。
指導の特徴は、とにかく作品の骨組みを重視すること。音の多い埋め草ばかり重視して肝心のテーマの所在が不明な場合など、バスと和声進行だけにしてメロディを弾かせたり、作品の中でも、隠れたバスを探し出して補足したり、いろいろ工夫する。自分で作品も書いているためか、作品に対する批判も飛び出す。ラフマニノフの協奏曲の場合、ある部分では作曲をミスしている、これは本当はこうなるべきだった、と実際に弾いてみせる。作品の好き嫌いも激しい。たとえばデュティユの『ソナタ』は嫌いで、初期にあたるこの作品では、まだいろいろな作曲家の借り物が多い、と、これも実際に例を示してみせる。
面白かったのは、生徒に移調して弾かせることだ。指先だけでおぼえている場合、どうしても和声進行に対して無神経になりがちだ。移調して弾くと、指使いが全く変わってしまうので、指にまかせて弾くということができないくなる。そこではじめて音をよく聴き、自分で的確な響きを選びとっていく作業がはじまる。たしかにその通りだが、なかなかその場で移調して弾ける生徒はいない。いきなり移調して弾けと言われた生徒たちは、胆を冷やしたことだろう。
すばらしいと思う演奏には、注文をつけないのもバルダ式だ。細かい注意をしているうちにバランスが崩れてしまうのが怖い、折角の才能を腐らせてしまうという。高校生で一人、バルダがアルゲリッチのような才能、と激賞している女の子がいた。パリ音楽院の彼のクラスにも、韓国人の女の子でテンペラメント溢れる生徒がいる。レッスンでプログラム全体を聞いても、何も注意することがないときがある、と言っていた。二人とも16歳。これから大人の世界で、うまく育って行ってくれればいいのだが。
解釈に関するレッスンがほとんどで、技術的にはあまり注意しない。せいぜい、ショパンのメロディ部分を弾くときに、指を曲げすぎると音がのびない、と指摘する程度である。テスキトが必然的に奏法を決定するので、技術が先走るのは好きではないという。一度だけ、和音をうまく響かせられない生徒に対して、立って鍵盤によりかからせていたことがあった。最初は掌全体で体の重さを支える。次に、今弾いている和音の指だけで支えさせる。これは、重力奏法を体感させるよい方法だ。
これだけピアノ教育が盛んなのに、まだ指先だけで弾いている生徒が多いのは、不思議なほどである。バルダと生徒が腕を並べて弾いているの見ると、一番違うのは手首だった。生徒の手首は固まりまくっているが、バルダの手首はそこだけ別の生き物のようにしなやかに動く。レヴィやコルトーが編み出し、安川先生によって日本に伝えられ、その後本国ではほぼ絶えてしまったポワニエという奏法だ。
バルダの演奏で驚異的なのは、その多彩な表現だ。ラヴェルを弾いているときとショパンを弾くとき、シューマン、ブラームスを弾くきでは別人かと思うように音や響き、アプローチが変わる。ロシア物を弾くときは、ラヴェルのときのように感覚的に鋭い印象は消え去り、鬱勃とした暗い情熱が煮えたぎる。ポーランド人のティエガーマンに手ほどきを受け、フランス系ユダヤ人のレヴィに習い、またジュリアードで別の系統の先生に師事したわけだから、さまざまな伝統をとりこんでいる形跡がある。そのあたりをきいてみたいと思ったのだが、インタビューを申し出たら見事に拒絶されてしまった。
自分が今日あるのは、テキストを十全に読む努力をしているからだ。奏法についてはホロヴィッツに傾倒し、ヴィデオでじっくり研究した。自分が受けてきたピアノ教育は単なるステップにすぎない、と主張する。評論を書くためには伝記的なディティールも必要だから、と言っても、「自分だって自伝を書くかもしれない、そのときにネタをとられたら困る」とか、「言葉では嘘をつく可能性がある、しかし、レッスンをしているときは、音楽に対して嘘はつかない。あなたはずっと自分のレッスンを聞いてきたのだから、それだけで十分なはずだ」と言う。
ちょうど私も11月にリサイタルを準備しているところだし、10月25日リリース予定のCDの1STヴァージョンも届いていたので、それを聴いてもらいながら、実地のインタビューを試みることにした。たまたまショパンの遺作のワルツをレコーディングしていたのが幸運だった。ジェローム・ロビンスのバレエのプログラムにもはいっていた曲で、ダンサーが踊れないので実際よりずっと遅いテンポで弾いたという。プログラムには練習曲作品10−2もはいっていた。毎日3回のリハーサル、公演も2週間はつづく。手に負担がかからないようにペース配分しなければならない。そんなところから糸口がつき、材料になる話を沢山聞き出すことができた。
ちょうど「週刊現代」の依頼で「戦場のピアニスト」のシュピルマンの息子の手記の書評を書いたのだが、バルダにも、同じような大きな悲しみを感じることがある。たとえばショパンの『ソナタ第2番』の第1楽章。これはCDでもすばらしい演奏を聴くことができるのだが、生徒に説明するとき、彼は「悲しみよりも強い悲劇的なもの、涙すら出ない状況・・・」と説明する。実際に彼が弾くのを聴いていると、ボッシュやブリューゲルの絵のような迫力で迫ってくるのだ。ドビュッシー『ピアノのために』のプレリュードの解釈も、ひたすら暗い。ずーんと沈んだ底の方からもあもあと這い上がってくるような弾き方で、少し上がったと思うとまた奈落の底に沈む。こうした深さは、なまなかのピアニストでは出せないだろう。
印象深いレッスンは沢山あったが、一番すごかったのは、何と言ってもラヴェルの『夜のガスパール』。男性のピアニストで、全曲を弾いたが、レッスン時間内では細かくレッスンする余裕がないので、ほとんどバルダが弾きながら説明した。
『スカルボ』の中で『左手のための協奏曲』に似た部分、バルダは例を示しながら、理想とする弾き方で弾きたいと思って左手の小指の裏側を傷めた話をはじめた。
10年ぐらい前で、ラヴェルの全曲録音をする2週間前だったという。 1年間は全く弾けなかった。その後5年ぐらい後遺症をひきずった。 しかし、一度は理想とする弾き方で弾き、録音したい、と──。それをきいたとき、何とかレコーディングを実現したいものだと切に思った。そのぐらい、デモーニッシュですごいスカルボだったのだ。
楽しい話もある。ショパンの『ソナタ第2番』の第3楽章「葬送行進曲」の中間部。左手のアルペジオで、生徒さんがテキストと違って音を弾いているのをききつけたバルダは、どうしてか? ときく。生徒さんいわく、「バルダ先生がCDでそう弾いていらっしゃいました・・・」。思わず、自分で自分の手を叩くバルダ。単純な読み間違いではなく、バルダは作品の中で気に入らないところがあると、自分流になおして弾くのだそうな。その部分では、メロディと同じ音が伴奏の中にはいっていて美しくないので同じ和声の別の音を補充して弾いたとのこと。ただ、それをすっかり忘れてしまっていたあたりがバルダらしい。
バルダは耳が敏感だ。生徒が妙な音を弾くと、耳がぴくっと動く。思わずつまんだら、自分は両耳を自由自在に動かすことができる、という。ピアノと同じくこの点についても修行を積んだそうで、最初の1年は両耳を同時に、2年目は片方の耳を独立して動かすように訓練した。3年目は何と、2対3のリズムで動かすことができるようになったという。実際にやってみせたので、一同大爆笑だった。
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