トップページ| プロフィール | 今年の活動 | 新刊新譜コンサートCD書籍書評、CD評 |
執筆&インタビュー日記 | E-メール



青柳いづみこのメルド日記

2002年2月5日/25人のファム・ファタルたち

  
 ふー。連休前に出すエッセイ集の原稿(正確にいえばフロッピー)を出版社に渡したばかりで、レモンのしぼりかすみたいになっている。
 本を出すのはこれが7冊めだが、いつもとっても疲れる。ドビュッシーの評伝を書いたときなど、脱稿したあと3日間寝こんでしまったほどだ。もちろんCDをつくるのも大変だけど、やっぱり小さいころからやってきたことで、ピアノの方が慣れているらしい。明日は腕が上がらなくなりますヨ、とエンジニアさんに言われても、次の日になると、ピンピンしてたりして。もっとも、指は上がらなくなるけれど。

 今度の本のタイトルは『無邪気と悪魔は紙一重』。古今東西の25人のファム・ファタル(宿命の女、運命の女などと訳す)をとりあげ、彼女たちの生きざまを紹介しつつ、私なりのコメントを加えている。有名どころでは、谷崎のナオミやメリメのカルメン、アベ・プレヴォのマノン・レスコー。古典では、有島武郎の『或る女』とか、ハーディの『日陰者ジュード』とか、フロベールの『サランボー』とか。最後に、ベルクの『ルル』やワイルドの『サロメ』など、オペラになったファム・ファタルも出てくる。

 「ふらんす」という語学雑誌の連載をまとめたもので、連載中からけっこう反響はあったが、悪女でもないお前がどうして悪女論を書くんだ、とひやかされたこともある。あーら、知らないの、私ぐらい悪い女はいないのよぉ、といちおう苦しい冗談で応戦しつつ、私はこう答える。第一に、「宿命の女」は、必ずしも悪女ではない。たとえばカルメンのように、男を破滅させつつ、自分も破滅させられる女も多いのだ。第二に、真正の悪女とは、自分の行動を客観的に分析したり、総括しようとしたりはしないものだ。第三に、悪の相対性、何をもって悪となすのか、ということは、ものごころついてこのかた、ずっと考えつづけてきた。何しろ、私の女性観は、波瀾万丈の生涯を送ったご先祖さまたちによってつちかわれてきたものなのだから。

 タイトルになった「無邪気と悪魔は紙一重」というのは、太宰治の『お伽噺草紙』の「カチカチ山」の一節からとった。「カチカチ山」の兎は、お話ではよいキャラクターになっているが、太宰は、冗談じゃない、清純ぶっている汚れなき乙女ぐらい悪い奴はいない、と看破する。昔、処女だと思っていた初代さんに裏切られた恨みですかしらねぇ。

 ところで、私のご先祖さまにも、全く悪意はないのに男性たちをふりまわしてしまった清純な女性がいる。皆さんのまわりにもいませんか? とっても美人で性格もよく、男性がひと目で夢中になるのに、あんまり謙遜すぎてそのことに気がつかない人。それで、男性に言い寄られると、びっくりして、そんなつもりはなかった、と言うんだ。それって、一番残酷。だから、無邪気と悪魔は紙一重。

 セックスレス現象を先どりしたような小説もある。イギリスのヴィクトリア朝を舞台にした『日陰者ジュード』。ここに出てくる妖精の化身のようなシューという女性は、まあ、あんまり清純すぎて、男がキスするのも大変。岩波文庫の上・中・下とわかれているうち、やっとキスできるのが中の半分ぐらいまですぎたところ。エッチに至っては下巻の24ページまでおあずけ。こう書いただけで、どっと疲れる。これも、立派な悪女だ。

 こうしてみると、男らしい男と女らしい女のくみあわせなどはむしろ稀で、女らしい男と男らしい女、女らしい女と女らしい男、男らしい男と男らしい女、ここに男だか女だかわかってない男と女を加えると、それこそありとあらゆる組みあわせがあり、それぞれの力関係次第でさまざまなドラマが生み出される。何が善で何が悪かも、それによって相対的に変化する。
 25人のヒロインたちの人生をたどり終えたあとの、それが感想です。



→MELDE日記・目次へ



トップページ| プロフィール | 今年の活動 | 新刊新譜コンサートCD書籍書評、CD評 |
執筆&インタビュー日記 | E-メール

Copyright(c) 2001-2005 WAKE UP CALL
fountain@ondine-i.net