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青柳いづみこのメルド日記

2001年9月18日/新著を手にして

 「わあ、こんなにちっちゃくなっちゃった、まるでお骨みたい」
 書籍版『水の音楽』の見本を手にしたときの、私の第一声である。
 だって、本ってある意味、墓場じゃないですか。いろんな考えが溢れ出てあちこちに 渦をつくり、ときには別の渦が合流したり。とくに、この本のように、音楽はもとより 文学・美術・文化人類学にメルヘン、女性論まで話題がひろがっているものは。

 膨大な資料、膨大な音源。それをひとつに束ねて、ある方向性をもった流れをつくり出す。文脈と表現を凝縮していく課程で、原稿は削られ、どんどんコンパクトになって いく。筆者によっては、骨組みの上にネンドをはりつけていくタイプもあるが、私はす んごいグラマーな状態から徐々にシェイプアップする方。だから、図版もはいり、表紙 もできて、帯も巻きつき、ひとつのまとまった形になったときは、書いているときのい ろんな思いとともに、もうこの本にはかかわれないのだという淋しい思いまで押し寄せ てきて、思わず、お骨みたい、と口走ってしまったのだ。

 核となった30枚の原稿『水の精と音楽』を書いたのは、もう17、8年前。フランスに 4年間留学して帰国し、デビュー・リサイタルを開いたあと、どうしてもドビュッシーが 研究したくて、もう一度芸大の博士課程に入学したときである。楽理科の先生から、今 は廃刊になってしまった『音楽芸術』という雑誌に30枚ほどの評論を書くようにすすめ られてつくった2本の原稿のうちの1本だった。もう一本は雑誌に掲載され、のちに『 ドビュッシー 想念のエクトプラズム』に発展したが、『水の精』は活字になることな く、時が過ぎていった。その間、編集者のアドヴァイスで200 枚に書きのばされたが、 それでも、どこでも出してくれなかった。今度の本も、そんなに多い部数ではない。音 楽書にしては、文学や美術のことが沢山出てくるし、文学書にしては、音楽のことが沢 山出てきすぎる。こういう「越境する」仕事は、傍目にはかっこいいのだが、実際は発 表媒体も少ないし、読者も少なく、なかなか形になりにくい。
 それでも、私はこのテーマと最初の30枚がとても好きだった。プロローグとエピロー グは、そのときの原稿をそのまま使っている。

 フランスの音楽院に留学していたころ、ラヴェルのピアノ組曲『夜のガスパール』か ら『オンディーヌ』をクラスのレッスンで弾いたところ、教授から、「もっと濃艶に歌 って弾くように」といわれてカチンときたエピソードが発端となっている。私は、さっ きの「お骨」のときみたいに、とっさに「だって、私、メリザンドみたいなオンディー ヌを弾きたいんだもの」と言ってしまったのである。オンディーヌは水の精、メリザン ドは、ドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』のヒロインで、妖精めいた女性だ が、水の精ではない。オンディーヌは、人間の男を婿に迎えて水の底の国の繁栄をはか るために、男の部屋の窓の外にはりつき、美妙な歌声で誘いかける「誘惑する女」。メ リザンドは、森の泉のほとりで泣いているところを王子のゴローに救われたのに、「さ わらないで」ばかり言っていて、ちっともつかまえられない女。2人の性格は全然違う のに、どうして私はそんなことを言ってしまったのだろう?

 という疑問に答を出すために、神話民話の水の精、文学化された水の精、絵画になっ た水の精、音楽になった水の精・・・世紀末の宿命の女像・・・と探索していき、最後 に結論を出すのが、この本の流れである。書いているときは頭がヒートパンク状態にな ったが、何とかとどこおりなく流れていると思う。
 本の執筆と同時に、本の中で語っているピアノ曲をCDに録音した。はたして、自分 が理想の姿として描き出したように弾けているかしら? こわい。でも、ある程度でき たような気もする。BGMにCDをかけながら本を読んでいただけたら幸いである。気 がついたら、部屋中水びたしだったりして。



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