【連載】「ヴィンテージ・ピアニストの魅力 第3回 アルド・チッコリーニ」(音遊人 2013年6月号)

長い間、私にとってチッコリーニは「よく弾くけれど面白くないピアニスト」だった。

典型的な「ジュー・ペルレ」系。音の粒がよくそろい、クリアな音色と明晰な解釈で曲の 構造を浮かびあがらせる。看板のサティ全集も、からんとしたクールな演奏だった。もう少しどろどろとしたものがあってもいいのに……。そんなことを考えていた。

だから、二〇一一年十月に雑誌『ショパン』 の依頼ですみだトリフォニーで開かれたリサイタルを聴いたときは、本当にびっくりしてしまった。

このとき八十六歳。肩をまるめ、懸命に腕をふり、つんのめりそうな恰好でステージを歩く姿はたしかに老齢のピアニストなのだが、弾きはじめたらとんでもない。軽く手を落としただけでピアノがすみずみまで鳴り響き、ペダルで柔らかく包み込まれる。

クレメンティのソナタでは、ベートーヴェンを先取りしたようなドラマティックな音楽づくりに魅せられたし、ベートーヴェンの三十一番のソナタでは、内省的な思索にひきこまれた。何より、このメモリーのむずかしい曲を暗譜で弾いているのだ。

休憩中に、パリ音楽院教授時代の教え子たちに会った。皆一様に、驚嘆している。この年齢まで弾きつづけるだけでもすごいのに、ますます完成度と艶を増している。七十五歳をすぎるころから豊潤さと自在さが加わり、ぐんぐん「うまくなっているのだ」という。

よい道ゆきかもしれない、と思う。サンソン・フランソワのように若いころから奔放なファンタジーを前面に出していると、どこかで陰りがくる。堅固な土台を持った演奏家が、長い年月の間に少しずつ熟していくほうがより真実に近づくことができるのだろう。

しかし、ただ熟すのを待っていたわけではない。つい先ごろ入手した五十六枚組のCD『完全EMI録音全集一九五〇~一九九一』 のラインナップを見て、度肝を抜かれた。バロックから古典やロマン派、アルベニス、モンボウ、グラナドス、ファリャなどスペイン物、 チャイコフスキー、ラフマニノフ、ムソルグスキー、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、ボ ロディン、アレンスキーなどロシア物、フランク、ダンディ、サン=サーンス、シャブリエなどフランス物。変わったところでは、ロッシーニやマスネ、デオダ・ド・セヴラックのピアノ曲。サティとドビュッシーは全曲。とてつもないレパートリーの広さなのである。

中から、リストが編曲したワーグナー『イゾルデの愛の死』を聴いてみた。二〇一一年のリサイタルで深く感銘を受けた曲だ。すみだトリフォニーのときは、まさに一人オペラだった。ピアノはオーケストラのように色彩豊か、メロディはオペラ歌手のようにたっぷり歌われる。タッチが自在で、ときに切なく、ときに輝かしく、さまざまに表情を変える。録音ではそうはいかない。まず、マイクの位置が近すぎる。ホール残響はほとんどなく、トレモロも溶け合うかわりにひとつひとつの音の粒がくっきり聞こえる。こう骨組をあらわにされては、寄せてな返す波のようなイゾルデの胱惚感も浮かび上がってこない。

もしかすると、「ジュー・ペルレ」のタッチ自体はさほど変わっていないのかもしれない。しかし、おそらくあるときからチッコリーニは、ホールトーンを自在に操る魔術を身につけたのだ。鍵盤上ですばやくアタックしてそれをペダルでつなぐ。ホール自体が巨大な楽器と化してそれを増幅させ、客席を音楽の海で満たす。

二〇一一年のアンコールはエルガー『愛の挨拶』。まるでスフレのようにふんわりと甘く弾かれた。セヴラックとドビュッシーを弾いた二〇一二年のリサイタルには行けなかったが、さらにすごい演奏だったときく。チッコリーニの音楽三昧の境地は、その場に居合わせたひとびとすべてを幸せにする。

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