【連載】「ヴィンテージ・ピアニストの魅力 第38回 イディル・ビレット」(音遊人 2022年春号)

トルコのピアニスト、イディル・ビレットは一九四一年生まれというからマルタ・アルゲリッチと同じ八十一歳。

パリ音楽院でナディア・ブーランジェの指導を受け、十五歳で卒業したあともコルトーやケンプに師事。ブーレーズの三曲のソナタをすべて録音した唯一の女流ピアニスト(その後、二〇二〇年に瀬川裕美子が収録している)であり、二十世紀のスペシャリストとして世に出たが、そのレパートリーはとんでもなく広い。二〇一六年、生誕七十五年を記念して百三十枚組のボックスがリリースされ、そこにはブラームス、ショパン、ラフマニノフのすべてのピアノ曲とベートーヴェンの三十二曲のソナタに加えて、リストによる交響曲の独奏版九曲も含まれている。

ビレットは来日していないので実演を聴く機会はなく、リスト・エディションのボーナスDVDを観た。二〇一一年六月六日、イスタンブール音楽祭で開かれたリスト生誕二百年記念リサイタルのライヴ動画である。
このときビレットは七十歳。大柄なピアニストでどつしりと座り、たっぷりした低音から煌めく高音まで幅広いダイナミックレンジを駆使して弾く。

最初に置かれたのは、リストが編曲したバッハの『幻想曲とフーガト短調』。原曲はオルガンの傑作「大フーガ」だ。左手は縦横無尽に動き、オルガンの足鍵盤のような効果を出している。
ついで『二つの伝説』。「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」では、強靱なフィンガーテクニックで小鳥の囀りを表現する。中間部の左手のメロディは人差し指と親指を重ね、ホルンのような効果を出す。コラール部分ではワーグナー風のハーモニーが拡がり、目を閉じて聴いていると楽劇の舞台が浮かんで来るようだ。
「波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ」も、悠揚迫らざるテンポで大海原を歩く聖人の壮麗な伝説を描いていく。左右の手が交互に打ち鳴らされる部分は迫力満点。クライマックス部分も多少のミスタッチには構わず弾き切り、会場は大喝采に包まれた。

疲れを知らぬビレットは『大練習曲』の一番と二番を豪快に弾き、リスト編曲のワーグナー『タンホイザー』序曲を壮麗に奏でる。
『巡礼の年第二年”イタリア”』についで、『同第三年』から「エステ荘の噴水」。音の光らせ方が巧みで、指先から光のシャワーが降り注ぐ。『大練習曲』九番はまるで即興演奏のようで魅力的だった。最後に『巡礼の年第二年”イタリア”』の補遺を三曲。
「タランテラ」を鮮やかに弾いてのけ、ブラヴォの嵐を浴びたあと、アンコールがなんと『リゴレット・パラフレーズ』。いやはや、大変なスタミナだ。

巻末に、ワイマールのサロンで弾く『小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ』が収録されている。リストが所有していたドイツのピアノは、リサイタルで使われたものより繊細な楽器。ビレットもより柔軟なピアニズムで、リストのテクスチュアを鮮やかに表現しているように思った。

ビレットは歴史的なピアノに興味があるのだろうか。リストのライヴァルだったタールベルクのピアノでショパンのマズルカを弾いている動画もある。リストとは打って変わってたおやかな演奏。
かなうことなら、実演で聴いてみたいピアニストだ。

2022年6月14日 の記事一覧>>

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