【連載】「ヴィンテージ・ピアニストの魅力 第34回 フー・ツォン」(音遊人 2021年春号)

コロナウイルスの感染拡大が続く二〇二〇年暮れ、フー・ツォンが他ならぬコロナ感染で亡くなったという衝撃的なニュースが飛び込んできた。

一九三四年生まれの八十六歳。一九五五年のショパンコンクールで東洋人初の第三位に入賞し、併せてマズルカ賞を受賞したことで知られる。
二〇一六年に北京のコンサートでショパンの『二十四の前奏曲』を演奏予定だったが、頸椎と腰の状態が思わしくなくキャンセルし、そのまま事実上の引退となっていた。

その前年、八十歳の誕生日を記念したコンサートを開いている。前半にハイドンやモーツァルトなどウィーン古典派を弾き、後半はドビュッシー「前奏曲集第二巻」から六曲。ついでショパンの『マズルカ作品五十六』と『バラード第四番』を演奏した。

マズルカは、五五年のショパンコンクールの第二次予選で演奏し、審査員のひとりタリアフェロから「情熱的で生気に満ちた高揚感、悲壮な情感、精緻で微妙な色彩感」を愛でられ、やはり審査員のケントナーからも「こんなに陰影に富んで、優雅で、典型的なマズルカのリズムを持った演奏があるとは想像もできなかった」と称賛された十八番である。『バラード第四番』は、客席からの隠し撮りと思われる動画が残っている。大変にロマンティックなスタイルだ。悠揚迫らざるテンポの中で、旋律も伴奏も大きく揺らし、纏綿(てんめん)と歌いついでいく。手をポーンと跳ね上げての間の取り方、ふとした騎りがたまらなく魅力的。野情にとどまらず、時折見せる激しい感情の発露も彼の演奏に拡がりを与えている。

コーダなど技術的に難しい場面では、左右に首をふって熱演している。この「首ふり」が実はフー・ツォンの壮絶な演奏人生を象徴しているのだ。

パリ大学への留学経験をもち、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』などを翻訳している文学者の家庭に生まれたフー・ツォンが、教養のひとつとしてピアノを習いはじめたのは七歳半。才能が顕著だったので、九歳半のとき、指揮者のマリオ・パーチについて本格的な勉強を開始する。

パーチは、いわゆる「ハイフィンガー奏法」の信奉者で、指を鍛えるため、一枚の銅板を手の甲に置き、落とさないで弾くように指示した。
パーチの指導は、フー・ツォンに美しいトリルを与え、スカルラッティやハイドンの名演奏を生んだが、他方、メロディを嫋々(じょうじょう)と歌いあげたい彼の気質には合わなかった。

三年後に師が亡くなり、再びピアノを勉強しはじめたのは十七歳のときである。ショパンコンクールを受ける半年ほど前からポーランド人のジェヴィエツキに師事した他はほぼ独学のフー・ツォンは、生涯を通じて体系的な技術の不足とそれに派生する手の故障に悩まされた。

晩年にステージでも使用していた指先だけ穴のあいた手袋は、傷めた手首を保護するためという。これをはめてスカルラッティを演奏する動画が残っているが、思うにまかせない指先を補うように手首の動きを多用して弾いている。それでも表現したいことに追いつかないため、無意識のうちに首をふることになる。これで頸椎を傷めて演奏活動に支障をきたしたというのは、皮肉としか言いようがない。

フー・ツォンの評伝『望郷のマズルカ』の著者森岡葉によれば、彼は毎日、コンサート当日でもショパン『二十四の前奏曲』と『二十四の練習曲』を通してからプログラムの練習にはいるのを常としていたという。体系的な技術習得への飽くなき執念。

しかし、いったんステージにのぼると不自由な手指もものかは、沸き起こる楽想に突き動かされてしゃにむに突き進んでしまう。教育体系が整備されたこんにち、彼のような純粋に音楽する想いに溢れたピアニストはもう現れないかもしれない。

2021年6月4日 の記事一覧>>

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