【連載】「ヴィンテージ・ピアニストの魅力 第32回 マルタ・アルゲリッチ」(音遊人 2020年秋号)

二〇二〇年六月二十七日朝、フェイスブックでいきなり衝撃の動画が飛び込んできた。なんと、マルタ・アルゲリッチがソロでショパン『ピアノ・ソナタ第三番』を弾いているのだ。

収録は二日前でハンブルクのコンサートホール、ライスハレ。アルゲリッチとルノー・カピュソンによる無観客コンサートのライヴストリーミングで、曲目はショパンの他にベートーヴェン『ヴァイオリン・ソナタ第八番』、フランク『ヴァイオリン・ソナタ』。

アルゲリッチといえば、舞台上の孤独に耐えられないという理由で、一九八四年十月三十日、昭和女子大学人見記念講堂でのリサイタルを最後に、ごくわずかな例外を除いてソロを弾くのをやめてしまった。

協奏曲は弾くが、ソロはアンコールでたまに披露する程度だったから、本当に驚いた。

一九四一年六月五日生まれのアルゲリッチは、七十九歳になったばかり。三十六年ぶりのソロ演奏に踏み切った裏にはどんな理由があるのだろう。「ステージで一人でいるのが嫌なの」と、かつて彼女は語っていた。「監視カメラでずっと追われているような感じで、身動きできなくなってしまう」

動画撮影では、それこそ、ビデオ方メラで一挙手一頭足を追われているのだが……。

ネットを見るのが大好きなアルゲリッチは、コロナ感染拡大でステージのなくなった世界中の音楽家たちがオンラインで配信しているのをウォッチしていたに違いない。

誰かがやっているのを見ると大いに競争心を燃やし、自分ならもっとうまくできる、と思う質だから、私もやってみたい、ルノー協力して……、そんなところだろうか。

一番最近アルゲリッチの実演を聴いたのは、二〇一九年秋、パリのフィルハーモニーでの協奏曲だった。このときはショパンの一番が予定されていたが、直前にアナウンスがあり、リストの一番に変更になった。親しい調律師にきいたところ、秋にツアーが多く、なるべく手指に負担がかからないリストにしたのだという。

超絶技巧の多いリストのほうがより負担がかかりそうなものだが、彼女が演奏するさまを見ていると、腕をひと振りするだけで、筋肉がひきつりそうなパッセージもオクターヴの跳躍も魔法のようにするする弾けてしまうように思われる。

このときはいささかやっつけ仕事の感もあったが、動画でのソナタは本当にすばらしかった。

鮮やかなブルーの地に花柄のトップスであらわれたアルゲリッチ、万雷の拍手がない中、ややとまどった顔つきでハンカチをポンとピアノの横に投げ、腕を高く上げてくるくる振り、ついでに長い髪をかきあげ、あたりを見回したところでやおら弾きはじめる。見事にフレージングされた第一楽章マエストーゾの第一主題が鳴り響く。

強靱なテクニックは少しも衰えていないが、若い頃のように指に任せて弾きまくるところはなくなり、プレーズのトップで間合いを取り、丁寧におさめる。室内楽経験を重ね、弦楽器のボーイングから得たものが大きいのだろう。元々ベルカントでよく歌う旋律はより自在になり、対位法的な部分では各声部が独立して呼びかわすさまが明確に描かれる。

単音の伸びはすばらしく、三楽章の最後のE音が一小節ぶんきれいに響きを保っているのに驚かされる。四楽章の指さばきも驚異的だが、ハーモニーの進行にともなう色彩の変化、間の取り方が巧みで、スピードに追い立てられるようなところが少しも感じられない。

これを機にソロの封印を解いてほしいものだ。

2020年9月7日 の記事一覧>>

より

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