【連載】「ヴィンテージ・ピアニストの魅力 第29回 ルドルフ・ブッフビンダー」(音遊人 2019年冬号)

一九四六年生まれのブッフビンダーは、モーツァルト、ハイドン、ブラームスなどドイヅ・オーストリア系の作品を得意とする正統派ピアニ一ストだ。中でもベートーヴェンには定評があり、ザルツブルク音楽祭で史上はじめてソナタの全曲演奏を果たした。

二〇一九年九月二十三日、そのブッフビンダーが東京オペラシティのコンサートホールで『悲愴』『ワルトシュタイン』『熱情』という王道の三大ソナタを弾く演奏会を聴いた。『悲愴』の冒頭の和音から引き込まれた。バスを強調した深く慟哭する響きだったからだ。序奏は悠揚迫らざるテンポで、弱音で聴かせる。

とはいえ、ブッフビンダーは思いいれたっぷりに弾く惑溺(わくでき)型でも、深い思索のあとを窺わせる哲学的なタイブでもない。『悲愴』の第一楽章は、むしろ疾走するベートーヴェンという印象を与えた。感情移入するよりは楽曲の構造をくっきりさせたい方向だ。大きな建物を建て、その中で和音外音やハーモニーの変化を際立たせる。

しばしばバスを強調するのもそのためだろう。第二楽章では歌謡性に頼ることなく、内声や左手をくっきり出して対位法的な動きに耳を向けさせる。第三楽章のテーマのささやくような歌い方がことのほか美しかった。

『ワルトシュタイン』も軽やかなタッチで疾走する。分散和音の個々の音よりは全体の響きで運ぶため、ハーモニーの変化が手に取るようにわかる。問いかけるような第二楽章の雄弁な休符が印象に残った。第三楽章の入りのト音を思い切り響かせ、おもむろに左手のアルペジオで誘うあたりの巧みさに舌を巻く。コーダでは、ぐっと音量を絞った中でトリルを綺麗に溶かして、星屑のようなテーマをはためかせる。

前半のステージでは、ところどころ弾きなぐりも散見されたが、後半の『熱情ソナタ』は素晴らしかった。太い線でグイグイ押すのだが、ときおり立ちどまって変化を強調する。「運命の動機」を連打してハ音から嬰ハ音に上がるところで大きくためを作るなど。

『ワルトシュタイン』のときもそうだったが、『熱情』の第一楽章のコーダも完全に足をペダルから離し、素晴らしい響きとキレで和音の連続を弾く。第二楽章の第三変奏の右手の目の詰まったレガートが美しかったこと。テンポの変化でロマンティックに歌うのではなく、音のひとつひとつが雄弁に語りかけてくる。

このあたりから演奏は変幻自在になり、第三楽章は息もつかせぬ展開に。どんなに疾走しても、若い腕達者なピアニストですら苦労するパッセージでも少しも乱れを見せない。二つのソナタと同じく、コーダはほとんどノーペダルで弾き通したが、少しも響きが痩せないところがすごい。最後のへ短調のアッコルドが鳴り響いたとたん、客席から心からの賞賛の嵐が飛び交った。

アンコールの『テンペスト』の第三楽章がまた見事だった。感傷的に弾かれることの多い楽章だが、アルペッジョに刻々と変化をつけ、全く飽きさせない。時に思いがけない内声を響かせる、時に極上のピアニッシモで溶かす。最後は体を開いてさっと終わり。

もう一つのアンコール、バッハの『パルティータ』第一番の「ジーグ」は、この人が優れたフィンガーテクニックを持ち、それを完壁に操っていることがよくわかった。左手と右手を鮮やかに交差させ、ずっとささやくような.ビアニッシモで弾きつぎ、最後の部分だけ音量全開で拍手を誘うなど、したたかなパフォーマーらしさも披露した一夜だった。

2020年1月4日 の記事一覧>>

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