【連載】「ヴィンテージ・ピアニストの魅力 第10回 ジョン・リル」(音遊人 2015年春号)

二〇一四年九月、ハクジュホールで、イギリスのピアニスト、ジョン・リルの七十歳記念リサイタルを聴いた。

ひと昔前なら、七十歳をすぎてなお活発な演奏活動をつづけていることじたいが驚きの対象となったろう。しかし、演奏寿命が延びたこんにちでは、七十代はまだ弾き盛りの印象すらある。

ヴィンテージ・ピアニストには二種類の在り方があると思う。年齢を重ねたからこその円熟味、枯淡の境地を前面に押し出す人もいれば、年齢に見合わない若々しさで楽曲と真正面からとりくむ人もいる。リルは後者のほうだろう。

ジョン・リルといえば、一九七〇年の第四回チャイコフスキー・コンクールで、旧ソ連のウラディーミル・クライネフと優勝を分けあったことで知られる。

このときの思い出をきかれたクライネフは、次のように回想する。

「チャイコフスキー国際コンクールの審査にはおかしな規定があって、予選でどんなにリードしていてもファイナルで失敗したらすべてがひっくり返ってしまうのです」

クライネフは予選を一位で通過していたが、本選ではリルがブラームスの『協奏曲第二番』をすばらしく演奏し、聴衆の人気をさらってしまった。

ところで、ジョン・リルがブラームスを弾いた背景には、同じ年にチャイコフスキー・コンクールを受けたフランスのピアニスト、シプリアン・カツァリスの助言があったという。

実はリルは、ファイナルにべートーヴェンの三番を用意していた。しかし、コンクール期間中にリルの親友になったカツァリスが、べートーヴェンはコンクールに向かないからと、もっとふさわしい曲、たとえばブラームスの二番かラフマニノフの三番を弾くようにすすめた。豊富なレパートリーを持っているリルはブラームスを弾くことにした。コンテスタントたちはすでに曲目を提出していたが、審査員長のギレリスにかけあったところ、めでたく要望が通った。カツァリスの忠告に従ったリルは、見事第一位を獲得したというわけだ。

七十歳になったリルのブラームスもすばらしかった。解釈は七〇年代を代表するような「新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト)」だ。私情をさしはさまず、作曲家の意図を尊重し、テキストそのものに語らせる。その質実剛健さがブラームスにぴったりだ。

奏法も考えられるかぎり自然で、重そうな腕を鍵盤におろしただけでたっぷりした音、深々した和音が生まれる。これはブラームスを弾く上で圧倒的なアドヴァンテージだ。

『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』はオクターヴの連続やすばやい連打があったりして、テクニック的にもむずかしい作品だが、リルはグローブのような手で軽々と広い音域をつかむ。

前半の最後に置かれたプロコフィエフの『トッカータ』も迫力満点だった。テンポは若いころよりは多少遅くなっているのだろうが、連打は強靱で少しの衰えも見ぜない。

むしろ、単純な音階に弾きにくさを感じているふしがあったのは、手が巨大すぎるためだろうか。

メモリーにもときおり不安をのぞかぜ、美しいイントロで開始したショパン『バラード第四番』も、脱兎の勢いで弾き始めたシューマン『ウィーンの謝肉祭の道化』も、何でもないところで乱れが生じたが、どこまでも誠実でけれん味のないアプローチはすがすがしい印象を残した。

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