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青柳いづみこのメルド日記



2008年3月23日/母の死とドビュッシー・シリーズ

  3月4日に母が亡くなった。2月15日に95歳を迎えたばかりだった。
  母は認知症で都内の施設に入所していたのだが、昨年末から誤嚥肺炎をくりかえし、施設近くの病院に入院中だった。
  母は食欲が旺盛で、食事はいつも時間をかけて完食していたのだが、昨年春に脳梗塞をおこしてからはうまく喉を通らなくなった。
  施設では、そのお年寄りの状態に合わせてさまざまな状態の食事を出す。食材を全部きざんで与えるのはきざみ食、すべてすりおろすのはペースト食。このペースト食になると、青菜のおひたしなんか単なる緑のとろっとした液体だし、味噌汁は逆にコンスターチを入れて固形状になり、なんだか宇宙食のようだが、ヘルパーさんたちは、スプーンでそれらをすくい、「はい、サバの煮つけですよー」とか「今度はサトイモ行ってみよー」とか元気に叫びながら食べさせている。
  母は相変わらず食欲旺盛で、口はしきりに動かすのだが、なかなかごっくんと飲み込めない。胃にうまく送り込まれない食べものは気管にはいって肺に炎症を起こす。ひと口ひと口が崖っぷちの綱渡りです、とヘルパーさんは言っていらした。
  ここで私は重要なことを知る。母と同じくらいのお年の入所者でも、きざみ食やペースト食ではない普通の食事をとれる方がいらっしゃる。個人差があるんですねと言うと、ケア・マネージャーさんはこんなことを言った。
  嚥下機能はひとえに喉の筋肉にかかってきます。お母さまは大人しくて最近はあまり会話もみられないが、そのお年寄りは自己主張が強く、ヘルパーさんに対して叫んだりどなったりして喉の筋肉を多いに使っています。これがとても大切なんですよ。
  なるほど、いつもブツブツ不平や文句を言ったり、ときどきキレたりするのも生きていくためには必要なことなんだ、と妙に納得した。

  暮れに施設の主治医から説明があった。
  嚥下機能が衰え、このままでは栄養はとれないし肺炎をくり返すことになる。口から食物をとるのが困難になった場合、静脈から点滴で栄養を補給する方法があるが、この施設は医療行為ができないので、退所して老人病院に入院することになる。もうひとつは胃漏といって、胃に穴をあけ、そこから直接食べ物を流しこむ方法がある。手術は内視鏡で行なわれ負担は少ないし、食べ物を入れていないときは管をしめて普通の生活ができる。これなら、当施設でも対応できるので検討してほしい。
  胃漏手術を承諾し、手術のための入院をお願いしたが、すぐにはベッドがあいていないという。正月に見舞いに行こうと思っていたら、施設でノロウィルスが発生し、母は感染していなかったが、すべての入所者が面会禁止になってしまった。
  そうこうしているうちにまた誤嚥肺炎を起こし、そちらで入院することになった。
  施設ではお年寄りの残存機能を保つため、なるべく車椅子に乗せて身体を起こしておく。病気ではあっても生活しているという印象がある。しかし、病院ではいつ行っても点滴の管につながれ、とくには酸素マスクもつけて、完全に寝たきり状態になってしまった。
  母はベッドの上でまどろんでいることが多かったが、ときどき目をあけてきょろきょろあたりを見まわしていることもある。ひとみは薄いすみれ色で、なんだか幼い子供にもどったような表情だ。
  栄養は点滴でとっているのだが、口はもぐもぐと動かし、ときどきいかにも食物を食べるような口の形をすることがある。すべてを失っても食欲だけは残り、オレンジページを定期講読しておいしそうなお料理の写真に見入っていたのに、もう食事をとることもできない。
  これは見ていて辛かった。
  いったん肺炎はおさまったので、胃漏手術を検討していただいたが、血液中のヘモグロビンの数値が極端に低く、手術はできないと言われた。もう一度経口栄養を試みたものの、すぐにむせてしまって嚥下できない。鼻から管を通し、栄養を流しこむ方法もとってみたが、やはり水すら通らず、熱を出して痰が増える。
  万策尽きて点滴だけの生活になった。
  誕生日に見舞いに行ったとき、主治医の許可を得てティッシュにお茶を含ませ、唇を湿したところ、赤ん坊がお乳を飲むように吸いついてきた。お誕生日おめでとう、ここまでよくがんばったね、と声をかけたら、一瞬、目を見開き、大きくうなずいたように・・・・見えた。

  知らせがきたとき、私はあるオーディションの審査で大阪のホテルにいた。朝の6時ごろ病院から携帯に電話があり、容体が急変したのですぐに来てほしいと言う。家族にかけつけてもらい、私はオーディションの主催者に審査のキャンセルを告げてタクシーにとび乗った。
  そこからの時間のなんと長かったこと。飛行機か新幹線か迷ったが、夫に相談したら本数の多い新幹線のほうが結局早いだろうという。といっても東京駅まで2時間半、そこからさらに電車で青梅線の終点近くまで行き、そこからさらに車で15分・・・。
  結局、間に合わなかったのだ。亡くなったのは7時40分。新幹線の車内で訃報が告げられた。
  ドラマではこういうとき、家族がかけつけるまでは心臓マッサージでもたせておくではないか、とちょっと思った。でも、これはドラマではなく現実なのだ。
  やっとたどりついたとき、遺体はもう霊安室に移されていた。
  間に合わなくてごめん、と抱きしめたら、身体はもう少し固くなっていて、不思議な冷たさが伝わってきた。
  顔はやすらかだった。酸素マスクをつけているときは眉をしかめていたのに、そのしわも消えている。旅行バッグから化粧道具を出して薄化粧をほどこした。母の肌はなめらかで、ファンデーションがすっとのびた。眉毛に長い白髪がのびていたので、それを抜いて整えた。「痛いっ!」と起きてこないかななどとぼんやり考えながら。
  それからしばらく母と二人にしてもらって、施設でも病院でもいつもしていたように掌をかざして”気”を送った。頭に”気”を送ると、母はしきりに首を動かし、頭をぼりぼり掻いたり、ときにはけげんそうに見上げたりして反応したものだ。
  でも、このときは全然反応が返ってこなかった。生体に気を送ると、向こうの発する気を掌に感じるものだが、母の身体は何も発してこない。
  本当に死んでしまったんだなと思い知った。
 

  認知症を発症してから自宅介護7年、施設に入所して8年。親しくしてくださっていた方々の大半は亡くなり、社会との交わりも絶っていたので、親族だけでひっそりと野辺の送りをすませた。
  お寺はお世話になった施設の近くで、福井の永平寺に本山をもつ曹洞宗。偶然母の実家も曹洞宗だったのでよかった。お経の前に御詠歌が歌われ、鐘の音とあいまってとても美しくて涙を誘った。歌が大好きで、認知症になってからも賛美歌や『荒城の月』を澄んだきれいな声で歌っていた母だから、きっと喜んだにちがいない。
  お棺には父の写真や遺品、母がいつも唱えていたお経、好んで着ていた着物、人形、私が書いた本などたくさんの品を入れた。母が最後まで気にかけていた故郷の家の写真も。
  実は、兵庫県北部の養父市にあるその旧家が、江戸時代中期の養蚕農家ということで県の重要文化財に指定されたのだ。内定は出ていたが正式決定は3月7日。母は3日間だけ間に合わなかった。
  実は、もっとずっと早く指定されているはずだったのだが、町村合併の時期にあたって一年のびたところに、台風23号の水害で発足したばかりの養父市もそれどころではなくなり、さらに延期されていた。
  それでも、かやぶき屋根の葺き替えをはじめ、祖母や母が当時の景観のままに保存してきたことが評価されたのだから、何よりの餞となった。
  葬儀の前は、お骨になったらどんなに悲しいだろうと想像していたのだが、一番悲しかったのは釜にはいる前だった。思わずついていきたいという衝動にかられ、立っていられなくなった。
  1時間後、焼き上がったお骨はとても白くて清らかで、思わず見入ってしまった。お年にしてはしっかりしたお骨でこんなに残っているのは珍しいですよとほめられた。最後までしっかり食事をとってきたから。そして、食事がとれなくなったらすっと逝ってしまった。
  認知症になって自宅介護をしていた間、朝の食事はいつもチーズオムレツとポテトを焼いたもの、パンとスープだった。オムレツは牛乳を少し入れ、チーズをまぜてバターでふんわり焼き上げる。ポテトは残りの油でカリカリに焼く。
  母はおいしいねー、と掌を合わせ、何度もおいしいねー、おいしいねーとお辞儀しながら食べていた。めん類も大好きでおそば、うどんをよく食べた。里芋、かぼちゃの煮つけも大好きで、お鉢いっぱいつくっても全部食べてしまうこともあった。おやつにはプリンやアイスクリームを食べるので、いつも冷蔵庫に入れておいた。
  もちろん、変なこともたくさんあり、ホワイトシチューの中にうずら豆を混ぜていれたり、ごはんの上におかずを全部のせて上からぎゅーぎゅーおしつけたり、食べおわった食器を全部積み重ねたり。
  赤ん坊といっしょで何をするかわからず、家族で食事をするときは神経を使い、トラブルもたくさんあったが、施設にはいり、自分でつくったものを食べさせられなくなってみると、そのときがなつかしい。でも、見舞いに行ったときに自分で介護し、食事を食べさせてみると、なかなか思い通りに食べてくれないのでまたイライラする。そんなことのくりかえしだった。
 
  葬儀の次の日は、ヴァイオリニストで芸大客員教授のジョラール・プーレ先生との合わせがはいっていた。理由を話してキャンセルしようかとも思ったが、3月20日のドビュッシー・シリーズ第1回で武満徹とドビュッシーのソナタを弾いていただくことになっており、お忙しい先生からせっかくいただいたお時間を無駄にするわけにはいかないと思いなおし、芸大外人官舎に伺った。
  先生はドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを作曲者のピアノで初演したガストン・プーレの息子さんで、お父さまからドビュッシー直伝の解釈を伝えられている。ドビュッシー自身、もう直腸ガンに冒されて余命わずかだったころに書いた白鳥の歌で、いろいろな思いがよぎった。
  自分では元気なつもりでも身心が衰弱していてうまく音楽できず、先生にご迷惑をかけたのではないかと心配になった。
  9日はドビュッシーのセミナーがあり、こちらもお休みしてもよかったのだが、やはり予定通り行なうことにした。私の頭をよぎったのは、恩師の安川加壽子先生のお母さまが亡くなられたときのことだ。もうデビューして演奏活動をつづけていた私は、定期的にお宅に伺い、15分ほどお時間をいただいていろいろなことをご報告していた。変わらず真摯に応対してくださり、的確な答えを返してくださる先生なのだが、そのときはなんだかいつもとは違う、かすかな違和感を感じとっていた。
  先生のお母さまが亡くなられたという知らせがはいってきたのは、それから数日後だった。
  私が先生のお宅に伺ったころ、お母さまはすでにお悪くて、先生も看病につとめていらしたことだろう。そんなときに貴重なお時間を私なんかのためにさいてくださって・・・と胸が詰まった。
  先生をお手本に、なるべく普段通り過ごそうと肝に銘じたが、そこまで修養を積んでいないのでなかなかうまくいかない。昼間はいいのだが、夜になると、やはり自宅で看取らなかったことへの悔悟の念がおしよせてくる。
  母は本を読むのが好き、文章を書くのが好きな人だった。施設にはいったころは、まだ本も大きな声で読み上げていたし、むずかしい漢字も読めたのだから、自宅にいればまだまだ読書の楽しみがあったかもしれない。音楽もたくさんきかせてあげたかったとか、いっしょに歌を歌いたかったとか。
  最後まで自分のそばにいてもらって、手づくりの料理を食べさせ、おいしいねー、おいしいねー、とよろこんでもらいたかったと悔やむ。病院のベッドでいかにも食べたそうに唇を平たくしたときの様子が思い出されてしまい、たまらなくなる。睡眠薬を飲んでもお酒を飲んでも眠れない日々がつづいた。
  そんな中でもコンサートに向けての準備はまったなしですすんでいったが、プーレ先生にはとりわけ助けていただいた。

  20日のプログラムは、前半が私のソロ、後半はプーレ先生とのデュオとトークで、リハーサルでは先に私がソロの練習をし、あとでデュオの練習をする。ソロとデュオでは同じピアノでもまるで違い、椅子の高さから演奏する姿勢、使う種類の筋肉、使う種類の神経までことごとく異なっている。だから、普通はとても疲れるものだが、となりにプーレ先生がいてくださってすばらしい音楽を投げかけてくださるのですっかり癒され、むしろ気持ちが楽になったように思う。
  先生はすばらしい演奏家だが、同時にすばらしい教育者でもあり、たくさんの高名なお弟子さんを育てていらっしゃる。音楽や人の心というものを本当にわかっていらして、自分勝手に弾きまくるソリストタイプの奏者とは正反対。こちらの気持ちを察し、こちらのくずれそうになる弱い心まで察してそっと支えてくださる。すばらしい体験だった。
  後半は武満徹のヴァイオリンとピアノのための作品を2曲演奏したあと、プーレ先生のお父さまとドビュッシーとの出会い、ソナタの作曲経緯などを通訳しながら伺った。
  ガストン・プーレがドビュッシーに会ったのは、彼が25歳のとき。プーレ弦楽四重奏団を組織して活発に演奏活動をおこなっていた。このカルテットの重要なレパートリーのひとつにドビュッシーの『弦楽四重奏曲』があったが、彼らはまだ作曲者に会ったことがなかった。そこで、「アドバイスを得るために」ドビュッシーの家に演奏しに行こうと思い、アポイントメントをとったところ、快く承諾してもらった。
  そのとき1916年。ドビュッシーはすでに高名な作曲家で、パリの高級住宅街に一軒家をかまえていた。出てきた本人は、しかし極端に無愛想で言葉が少なかったので、メンバーはふるえあがったしまったという。
  それから4人は『弦楽四重奏曲』を作曲者自身の前で演奏したが、第1楽章が終わってもドビュッシー何も言わない。第2楽章が終わっても同じ。第3楽章も同じ。全楽章を弾き終えても何もコメントがない。
  ガストン・プーレは、おし黙っている巨匠におそるおそるきいた。「先生、この作品はこのような演奏でよろしいのでしょうか?」するとドビュッシーはやっと口を開いて、こう言ったものだ。「いや、あんまり。必ずしもそのようではありません」。ショックを受けるメンバー。しかし、ドビュッシーはこうつづけた。「でもそのスタ
イルはとてもあなた方によく合っている。何も変えないようにしてください」 
  それでも、「ほんのいくつか意見を言ってよいですか?」とドビュッシーは言い、それから実にたくさんの注文をつけたのだ。レッスンの終わりには、一同はすっかりうちとけ、ドビュッシーと仲良くなった。
  それから数週間後、ガストン・プーレはドビュッシーから一通の手紙を受け取った。
  「親愛なるプーレさん、私は一曲のヴァイオリン・ソナタを書きました。ついては、あなたにそれを見てもらいたいと思います」
  こうしてガストン・プーレは、今度は一人でドビッシー邸に行った。そこには、ソナタ全楽章のスコアがあったが、まだヴァイオリンのボーイングやさまざまな技法については何も書き込んでいなかった。優れたピアニストだったが、あまりヴァイオリン技法には通じていなかったドビュッシーは、そうしたテクニック的なことをガストン・プーレと協力してつくりあげていったのだ。

  こうして楽譜が完成し、ドビュッシーはガストン・プーレに行った。「親愛なるプーレさん、あなたがいなければこのソナタはできあがらなかった。私は、初演のとき是非あなたと共演したいと思います」
  こうして、1917年5月5日、パリのガヴォー・ホールでドビュッシーとガストン・プーレによる初演がおこなわれたのだ。

  プーレ先生とのトークのあとで演奏したソナタは、けっして耳にやさしい作品ではないが、お話のおかげで聴衆の理解も深まり、客席にすっと溶け込んでいった。  アンコールはドビュッシーの歌曲をハイフェッツが編曲した『美しき夜』、そして、クライスラーの『愛の哀しみ』。ワルツのリズムに乗ったこの曲が私は大好きで、武満徹、ドビュッシーとむずかしい曲がつづくので、お客さまにも喜んでいただけるだろうと思ったからだ。
  そして、この選曲は大正解だった。プーレ先生が弾く哀愁に満ちた旋律に乗って伴奏をつけていると、なんだか音楽の海の上を波のまにまち流れているような感触を味わった。自然に自分のすなおな心情が出ていった。母への思慕の念も、自分を責める気持ちも。
  うつろいゆく心理の綾を見事に音にあらわしたクライスラーのメロディは、コンサートから3日たった今も私の頭を占領している。

 

〜〜〜〜ドビュッシー・シリーズ第2回 5月24日(土)〜〜〜〜
14時開演 於浜離宮朝日ホール
♪ ドビュッシーとパリの詩人たち ♪
  

  3月20日に中公文庫で刊行された『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』は、9歳のドビュッシーが運命のいたずらでヴェルレーヌとランボーの歴史的邂逅の現場にいあわせたというエピソードではじまります。
  第2回では、こうしたエピソードから話を起こし、ドビュッシーの青春時代を彩ったさまざまな詩人たちの出会いを軸に、トークをつけた音楽物語ふうの構成になっています。
  ヴェルレーヌ=ランボー事件から生まれた詩集『忘れられた小唄』にもとづく歌曲や、親友の詩人ピエール・ルイスの詩による『ビリティスの歌』を、ソプラノ歌手野々下由香里さんに歌っていただき、私がピアノ部分を担当します。
  野々下さんのピュアではりのある声は、私がいだいているドビュッシーの歌曲のイメージにぴったりですし、ドビュッシーが深く愛した歌姫メアリー・ガーデンの声にも似ています。私自身のドビュッシーとの出会いも、実はこれらの歌曲で、中学のころ、自分で弾き語りして楽しんでいたものです。
  マラルメの詩に想を得た『牧神の午後への前奏曲』(ラヴェル編曲)は、ドビュッシーのセミナーから巣立った若手ピアニスト、下山静香+深尾由美子の4手連弾によって演奏されます。やはり4手連弾による『6つの古代碑銘』では劇団俳優の田並明日香さんによるピエール・ルイスのテキストの朗読もあります。
  そして演奏会の最後は、ふたたび野々下さんの歌、私のピアノでドビュッシーの絶唱『フランソワ・ヴィヨンの3つのバラード』を演奏致します。とくに『母の求めによって聖母に祈るためのバラード』は静謐な中に深い感情を秘めた傑作で、大きな感動をよぶことでしょう。
  こんなに充実した内容のコンサートですが、実はチケットはまだ5分の1しか出てないのです。第1回にご来場くださった方々はひきつづき、またご都合がお悪かった方々は、どうぞ第2回に足をお運びくださいませ。
  チケットは各プレイガイドの他、本HPでも販売しております。

MELDE日記・目次
2008年1月5日/ドビュッシー・イヤーの幕明け
2007年11月5日/大田黒元雄のピアノ
2007年9月20日/ビーイングの仕事
2007年8月19日/越境するということ
2007年4月9日/吉田秀和さんの文化勲章を祝う会
2007年2月9日/カザフスタンのコンクール ( II )
2007年1月20日/カザフスタンのコンクール ( I )
2006年9月12日/10冊めの著作が出版されます!
2006年6月20日/美術とのコラボレーション
2006年1月5日/750ユーロの時計
2005年10月25日〜11月2日/セザンヌの足跡を追って──南仏旅行記
2005年9月30日/『ぴあ・ぴあ』ただいま7刷中
2005年8月28日/”気”の出るCD?
2005年7月6日/ラジオ深夜便
2005年6月23日/ぴあ・ぴあ
2005年5月30日/第7回別府アルゲリッチ音楽祭
2005年4月10日/朝日新聞の書評委員
2005年3月27日/ジャス・クラブ初体験
2005年3月20日/パリでメルド! トーキョウでメルド! 2)
2005年2月26日/パリでメルド! トーキョウでメルド! 1)
2005年1月5日/吉田秀和さんの留守電
2004年12月20日/音楽は疲労回復に役立つ!
2004年11月22日/有名にならない権利:クートラスとアルカン
2004年10月23日/14年越しのエッセイ集
2004年10月5日/プレイエルとベヒシュタイン
2004年8月25日/アテネ五輪 アナウンサーと解説者のビミョーな関係
2004年年7月4日/松田聖子体験
2004年6月1日/「メロン三姉妹」と美智子さま>
2004年4月16日/アンリ・バルダ追っかけ記
2004年3月10日/小さな大聴衆
2004年1月20日/大変なんです!!
2003年12月12日/テレビに出てみました
2003年9月13日・14日・15日・16日・17日/方向音痴のシチリア旅行 その II
2003年9月10日・11日・12日/方向音痴のシチリア旅行 その I
2003年9月8日/アンリ・バルダの講習会
2003年8月17日/東京湾大花火大会
2003年7月28日/世界水泳2003バルセロナ
2003年7月11日/新阿佐ヶ谷会・奥多摩編
2003年5月31日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[III]
2003年5月28日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[II]
2003年5月22日/アルゲリッチ−沖縄−ラローチャ[I]
2003年5月3日/無駄に明るい五月晴れ
2003年4月5日/スタンウェイかベーゼンか、それが問題だ。
2003年2月12日/指輪
2003年1月13日/肩書き
・2002年12月23日/ 年の瀬のてんてこまい
・2002年12月9日/批評とメモ
・2002年11月6日/アンリ・バルダのリサイタル
・2002年10月21日/なかなか根づかないクラシック音楽
・2002年9月26日/青山のブティック初体験
・2002年9月3日/鹿鳴館時代のピアノ
・2002年7月19日/竹島悠紀子さんのこと。
・2002年6月13日/ 生・赤川次郎を見た!
・2002年5月6日/海辺の宿
・2002年3月28日/新人演奏会
・2002年3月1日/イタリア旅行
・2002年2月5日/25人のファム・ファタルたち
・2002年1月8日/新・阿佐ヶ谷会
・2001年11月18日/ステージ衣装
・2001年10月26日/女の水、男の水
・2001年9月18日/新著を手にして
・2001年8月/ホームページ立ち上げに向けて


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