Mr. AOYAGI? 違うんです!

いささか旧聞に属するが、昨年12月2日、帝国ホテルでポーランド大使館主催のショパン生誕200記念大レセプションが開かれた。

大使館関係の方々はじめ、歴代のショパン・コンクール優勝者、マルタ・アルゲリッチやダン・タイ・ソン、四位入賞の中村紘子さん、小山実稚恵さん、五位入賞の海老彰子さん、高橋多佳子さん、宮谷理香さん、2010年度の審査員のネルソン・フレイレ、2010年度の優勝者ユリア・アヴデーヴァも出席する大イベントである。

私はなぜか日本ショパン協会の理事(ちなみに、ドビュッシー協会というのはありません)をつとめているので、ご招待状をいただいた。同伴もオーケーとなっているので、あちこちにお声をかけてみた。

帝国ホテルのパーティはバイキング方式で、ローストビーフやお寿司の屋台では、目の前で切りわけたり握ったりしてくれるのだが、これが抜群においしいのである。

しかし、あいにくどなたもご都合が悪い。

青山学院大学仏文科の准教授でミシェル・フーコーの研究者である阿部崇さんをお誘いしたところ、快く同伴を承知してくださった。阿部さんは私をアオガクの講師に呼んでくださった方で、音楽にも美術にも舞台芸術にも映画にも造詣の深いマルチ文化人である。

さて、帝国ホテルの受付に行ってみると、名簿のところに「Mr.AOYAGI,Mrs.AOYAGI」と書かれている。海外ではこの種のパーティはカップルで出席することが常識なので、こうなってしまったのだろうが、そもそも、青柳はペンネームで戸籍上の名前とは違うから、Mr.AOYAGIなんて人は存在しない。
「違うよ!」と抗議しようと思ったが、きっと立食だから関係ないだろうと会場にはいってみたら、白いクロスをかけた丸テーブルがずらりと並び、結婚式のように一人一人の席に名札が置かれている。
「やば!」と叫んだが、仕方がない。阿部さんは「Mr.AOYAGI」の席に。

早速、同じテーブルの上田忠敏さんが挨拶にこられる。
大阪の岸和田音楽祭を主催し、多くのピアニストの支援をしていらっしゃる方だ。あわてて阿部さんをご紹介し、「この方は青山学院大学の先生で、主人ではないんです」と強調する。阿部さんはつい先ごろ超美人の奥様をもらわれたばかりなのだから、失礼きわまりない話である。

左隣はピアニストで芸大教授の東誠三さん。パリ音楽院でジャック・ルヴィエに師事された東さんは、ひとしきり阿部さんとフランス文学談義に花を咲かせていらした。

出席された方々はみな、立食方式だと思っていらしたらしく、東さんも「平服で着ちゃって・・・」とびっくりしたご様子。

立食方式なら、主催者挨拶と乾杯の音頭さえ終わればすぐにローストビーフにありつけるのだが、着席方式だといつになるかわからない。手元にあるのは、入り口で渡されたアペリチフのグラスだけ。うーむ。

悪い予感は当たってしまい、式典がとてもとてもとても長かったのである。
ポーランド大使は健康上の理由から欠席されていたが、代理の方のスピーチやポーランド文化関係の方々のスピーチ、日本側のポーランド関係者、日本ショパン協会の小林仁会長、雑誌の『ショパン』の内藤編集長もスピーチし、さらに、ショパンはじめポーランド音楽の普及に尽くされた方々に授与されるさまざまな勲章の贈呈式。

中村紘子さんや遠藤郁子さんも受賞され、それぞれの受賞者のスピーチ・・・と延々つづき、最後が2010年度ショパン・コンクール優勝者アヴデーヴァさんのミニ・コンサート。

あらかじめ舞台袖に置かれていたヤマハのフルコンサートが中央に運ばれる。
それにしても、見ただけでぞっとするようなシチュエーションである。学芸会のステージのような壇上には大小さまざまな幕が垂れ下がり、舞台奥も厚いカーテンで覆われ、「どうぞ大きな音をお出しください、音は私たちが全部吸ってあげますわよ」とでも言うようだ。

式典が長びいてさんざん待たされた上に、目の前にはアルゲリッチがでんと座っているし、歴代の優勝者や審査員がずらり。なぜかアルゲリッチの友人のチェリスト、ミッシャ・マイスキーまでいたり。こ、こ、こんなところで弾くの? 

アヴデーヴァさんは、考えられるかぎりもっとも過酷な状況の中、ショパンのノクターンと『英雄ポロネース』を演奏された。上体をそらし、腕を大きく振り、理想的なフォームなのに、音はあんまり聞こえてこない。

すべてあのにっくき幕たちのせいなのだ。やはりとても弾きにくそうだったので、隣の東さんに「普通なら崩壊してるよね」と囁いたら、「えらいよね、こんな中でよく弾くよね」と感心することしきり。

盛大な拍手のうちにミニ・コンサートが終わり、さて、ローストビーフ! と思ったら、過去にショパン・コンクールに出場した(入賞ではない)方々がアルゲリッチやダン・タイ・ソンを囲んで記念撮影するというので、舞台上に勢ぞろい。こぼれ落ちそうな壇上を眺めていたら、同級生で聖徳大学教授、後藤富美雄君の姿が見えた。

私たちが大学受験の年は、東大入試がなかったときである。後藤君は、かの灘高(!)に通っていたのだが、東大のかわりに芸大を受けたら見事合格してしまった、かっこいいピアニストである。

私たちの時代は、ショパン・コンクールどころか、そもそも国際コンクールを受ける学生も珍しかったわけだが、芸大生が多かった後藤君の下宿では、先輩で一昨年亡くなった神野明さんを中心に、「ショパン・コンクールを受けに行く会」をつくっていたという。互いに励ましあい、(半分冗談で?)プログラムの弾きあいをしたりして、1975年度のコンクールに向けて準備に励んでいた。

今でこそ、ショパン・コンクールはヴィデオ審査や予備予選があり、参加するのも並大抵ではないが、エントリーさえすれば「誰でも」受けることができた時代があったのである。

ところが、蓋をあけてみたら、日本音楽コンクール優勝者でもっとも可能性があった神野さんは参加をとりやめ、後藤君一人で受けに行くことになってしまった。「国際舞台は何もかも全然違っていた」と後藤君は語る。「技術も音楽性も解釈も教育システムも」。

前の回の1970年には内田光子さんが第2位入賞しているが、彼女は外交官のお嬢さんで中学以降の教育が海外である。75年はツィメルマンが優勝した年で、日本人は、国内では著名なピアニストでも全員2次予選で落ちてしまった。80年はポゴレッチ事件があった年で、海老さんが第5位に入賞しているが、その他の受験者はやはり2次予選どまりだった。

そして、小山実稚恵さんが第4位に入賞した85年になってようやく、三木香代さんが優秀賞、三村和子さんや阿部美香子さんが名誉賞(いずれも3次予選に進出した方々で、セミ・ファイナリストに当たる)を獲得、
90年には横山幸雄さんが第3位、高橋多佳子さんが第5位に入賞し、優秀賞には及川浩治さん、田部京子さん、名誉賞に児玉桃さん、上野眞さんと錚々たる顔ぶれが並ぶようになる。

しかし、2010年度はまた逆戻りしてしまって、日本人受験者は、予備予選は最多の17名が通過したにもかかわらず、再び全員第2次予選止まり(このことは、HPにもアップした大阪朝日新聞の記事で少し書いた)。何だか双六が振り出しに戻ったような、やるせない気持ちになる。

さて、式典の終わりごろからいつゴーサインが出ても困らないようにスタンバっていた私、写真撮影も無事終了し、すわローストビーフ! と走って列に並んだら、阿部さんがお寿司の屋台も握りはじめたと知らせてくれる。二人で手分けして両方をゲットし、ついでに他のお料理もお皿いっぱいに並べて食べはじめたところに、「会場の関係から、あと30分で終了させていただきます」という無情のアナウンス。どうも式典が予定より大幅に伸びたらしい。そりゃねーだろーと思ったが、仕方ない。時間内で全部食べてやるぞと、ひたすら料理を頬張り、ワインで流し込む。お餅ならぬローストビーフを喉に詰まらせて困ったという話はないのかしら。

おかげで、他のテーブルの方々にご挨拶するひまもなかったが、2010年度の審査をつとめた小山実稚恵さんは私のテーブルにも来てくださり、ひとときお話がはずんだ。

小山さんとは、その一週間後に『中央公論』誌でショパン・コンクールに関する対談をさせていただくことになっていた。たまたまショパン・コンクールの結果が出た日がショパン協会の部会で、代々木の本部に行ったところ、会長の小林先生や予備審査の審査を担当した海老彰子さんはじめ諸先生方が、議題をそっちのけでコンクールの話をなさっている。日本人全滅は何が悪かったのか? 結局、教育の問題でしょう・・・というような話になった。欧米に追いつき追い越せでやってきたのに、ここまで来てやっぱり教育か・・・とちょっと疲れてしまう。

その日、大阪に飛んで大阪朝日新聞の記者と会食することになっていた。そこでもショパン・コンクールの話になり、皆さんの感想をお話したら、それを是非記事に書いてくださいということになり・・・。聴きに行ってもいないのにと躊躇したが、ピアノ教育については日ごろ思っていたこともあり、書くことにした。

ショパン・コンクールというのは、ブーニンが優勝したころから日本で人気が高まり、旅行会社が観戦ツアーを組むようになった。日本ショパン協会にもツアーのプログラムが配られるので、理事の先生方には行かれる方も多い。私も行こうかなと思ったのだが、予選から本選まで全部聴くと、旅行代金、ホテル代、チケット代などで100万円ぐらいかかる。加えて、私は人みしりで、一人でご飯を食べるのが嫌いなくせに、誰かを誘うのが苦手(これは、小学校の遠足のころから変わっていない)で、人間関係が心配で尻込みしてしまった。結果的には、日本人は2次予選ですべて姿を消したから、3次予選から観戦ツアーを組んでいた方々はがっかりしたかもしれない。

そんなわけで、聴きに行ってもいないショパン・コンクールについて書き始めたところに、ワルシャワから帰国したばかりの小山さんからメールが届いた。昨年9月に刊行した『我が偏愛のピアニスト』(10人の日本人ピアニストのインタビュー集で、小山さんにもお話を伺っている)に対する感想のついでに、ショパン・コンクールにふれて「日本人はじめアジア人が本選にすすめなかったのは残念ですが、その道のりは遠いというか、先が細いのかなという感じも受けました」と書かれていて、胸にズンと響くものがあった。そこで、小山さんにお許しをいただき、そのコメントも入れ込んだ形で記事を書いたところ、雑誌『中央公論』編集部の目にとまり、是非小山さんと語り合ってください・・・という運びになったわけである。

対談はとても楽しかったが、小山さんはオフィシャルな立場だし、発言の影響力も大きい。私はつっ込んだ質問をするほうなのではばかられることも多々あったと思うが、限度ぎりぎりまでフランクに話してくださったことに感謝している。

下記に掲載している写真は、ポーランド大使館のレセプションの折りのショットで、左が小山さん、真ん中が阿部さん、左側にお料理のテーブルが見える。撮ってくださったのは、岸和田音楽祭の上田さん。今年にはいってお会いする機会があり、写真をいただいてとても嬉しかったのだが、別れ際に上田さん、「ご主人によろしく」。

だから、違うんだってば!!

新メルド日記20110116_01

投稿日:2011年1月16日

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「MERDE/メルド」は、フランス語で「糞ったれ」という意味です。このアクの強い下品な言葉を、フランス人は紳士淑女でさえ使います。「メルド」はまた、ここ一番という時に幸運をもたらしてくれる、縁起かつぎの言葉です。身の引きしまるような難関に立ち向かう時、「糞ったれ!」の強烈な一言が、絶大な勇気を与えてくれるのでしょう。
 ピアノと文筆の二つの世界で活動する青柳いづみこの日々は、「メルド!」と声をかけてほしい場面の連続です。読んでいただくうちに、青柳が「メルド!日記」と命名したことがお分かりいただけるかもしれません。

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