「安川加壽子記念会 30年の時を経て蘇る秘蔵映像」を終えて

アンリ・バルダのウィーン日記が途中なのだが、次から次にことが押し寄せる。

6月24日には浜離宮朝日ホールの小ホールで安川加壽子記念会の第10回コンサートとして、安川先生ご自身の演奏映像を上映する会を催し、私がナビゲーターをつとめた。

安川記念会は、1996年7月12日に先生が亡くなったとき、ご葬儀の折りに楽奏するために発足した門下生の集まりが母体になっている。一周忌を期に結成され、97年に東京の紀尾井ホールで開かれたコンサートでは、先生のレパートリーからドビュッシーの前奏曲をメドレーで弾き、私も2、3曲弾かせていただいた。普通は一回かぎりの公演で終わりになるものだが、この会では、長く演奏活動をつづけた先生に倣って、先生にゆかりの演奏家の方々のご協力も得てそのつどコンサートを催してきた。

その第7回だったか、東京文化会館小ホールのロビーで、先生の演奏映像のごく一部を紹介したところ、大変好評をいただいた。当時はご夫君の定男先生もご存命で、「まるで加壽子が帰ってきたようだ」と喜んでくださった。そのときは、ロビーに椅子を並べただけだったので、残念ながら後ろのほうの席の方にはまったく見えなかったようだ。

今回のホールには大きなスクリーンもあり、後ろのほうの席はスロープになっているので見やすい。先生のあでやかな舞台姿を記憶にとどめていらっしゃる方には、それを新たにするこの上ない機会だろうと思う。今では、先生のステージに接したことのない方もたくさんいらっしゃるので、そんな方々にも是非見ていただきたいと企画した。

安川先生のファンの多くは、もう定年退職していらっしゃる方にちがいない。夜は出にくいかもしれないから、14時から昼の部を開催しよう。もちろん、現役の方々にも見ていただきたいから夜の部は19時に開催する。そんな提案をしたのは私だった。昼夜公演はトークコンサートで慣れている。それでも、自分が演奏するなら大変だが、今回はナビゲーターに徹するので大丈夫。

最初に放映したのは、1981年9月2日、先生の演奏生活40周年記念の年に日本テレビ『私の音楽会』という番組のためにおこなわれた公開録画からラヴェル『水の戯れ』である。

この作品は、先生の十八番のひとつだった。残念ながら典雅なピアノの響きはダビングで損なわれてしまったが、映像はそのままだ。安川先生のピアニズムで一番すごいと思うのは、左右の手の独立である。左手と右手がまるで別の生き物のように動き、左手は美しい放物線を描いて右手をとびこえ、すばやいアルペジオやたっぷりしたメロディを奏でる。体幹がしっかりして、肩から肘が完全に脱力しているからこそできることなのである。『水の戯れ』の右手には親指で二度を弾くむずかしい場面もあり、普通は手がひきつってしまうのだが、先生の長い親指は2つのキーを苦もなくとらえ、美しいソノリティをつくり出す。先生の手は大きく、左手で十度をつかんでいる場面もほんの一瞬出てくる。
そして、豊かな響をともないながら決して透明感を失わない絶妙のペダリング。

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次は、同じ番組から、音楽評論家の丹羽正明さんによっておこなわれたインタビューの模様である。主な話題は、前年に創設され、先生が審査委員長をつとめた日本国際音楽コンクール。それまでは日本から海外にコンクールを受けに行くばかりだったが、今度は自国で開催するので、やっと対等な場に立てた思いがするというお話だった。

お父さまが国際連盟で活躍され、自らも海外で育った先生は、国際社会の中に日本を置いて見るという意識が大変強かった。世界のピアノ界の動向と日本との比較、そして未来への展望まで、先生の視野の広さ、先見の明には驚かされる。1980年代はじめといえば、旧ソ連を初めとするいわゆる共産圏諸国が全体主義的な教育をおこない、国際コンクールで成果をあげていた時期なので、そのことも話題に出てきた。

民族によって勉強の仕方も違うというお話もおもしろかった。フランス、イタリアなどラテン系の国々は、まず土台づくりをしてから作品の演奏に応用するというやり方だが、アングロ・サクソン系はいきなり作品を勉強して、むずかしいところはその中で練習する、等々。私が育ったころの日本のピアノ界はまだまだ「より強く、より速く」という時代だったが、当時から安川先生は、テクニックは音楽表現や解釈に則したものでなければならない、そのためにもテクニックの土台づくりが重要だと力説していらっしゃった。

昨年のショパンコンクールなどを見ると、練習曲など、本来は腕の見せどころの場面でもあまりテンポを上げず、テキスト解釈で勝負しようとした人が多く、先生の予言は見事に当たっていると思う。

つづいて、同じ『私の音楽会』からモーツァルト『ピアノ協奏曲第26番 戴冠式』の第2楽章「ラルゲット」を見ていただいた。

『戴冠式』は1788年に書かれ、翌89年4月14日、ドレスデンの宮廷音楽会で、モーツァルト自身が初演したと言われている。翌90年、レオポルト2世の戴冠式の折りに演奏されたことからこの呼び名がある。

「ラルゲット」はイ長調の典雅な気分にひたされた美しい曲。カメラは先生の掌をいくぶん下から映し出すので、タッチが非常によくわかる。同じ音が4つつづく主題の前半をさまざまな方向のタッチで弾きわけ、つづくスラーとスタッカートでは手首の高さを変えて表情をつける。また、歌い込んでいくときの指のレガート、手首の位置なども、古典のメロディを歌うときのお手本のような奏法で、解釈とピアニズムが理想的にむすびついている。

中間部、右手一本でメロディを歌うところなど、音が減衰してしまうピアノには酷な箇所なのだが、先生が腕をしなやかに使って打鍵すると、たっぷりした余韻が長く糸をひき、少しも不足を感じさせない。あらためて先生のフレージングの見事さに耳を奪われた。

前半の最後は、同じ年の5月28日にNHKホールで開かれたN響特別演奏会から野田暉行『ピアノ協奏曲』の模様である。プログラムは他に、モーツァルト『ピアノ協奏曲K488』とラヴェル『左手のための協奏曲』。ラヴェルの『左手』には、低音部から高音部にかけて長いグリッサンドが出てくるが、右手をさっと出して邪魔になるたもとをおさえる動作がかっこよくて、今も目に焼きついている。

モーツァルトの第3楽章でもハプニングがあった。ロンド主題が再現されるところで先生は、とっさにあとのほうの経過句を弾いてしまったのである。一瞬はっと思ったが、よどみない流れの中で巧みに処理され、事故は何も起きなかった。それでも、演奏生活40周年を祝う演奏会で、先生のステージにかける意気込みとともに緊張も感じられ、先生にもこんなことがあるんだなーと、ちょっとほっとした気分になったことをおぼえている。

野田暉行さんの協奏曲は、1977年、NHKの委嘱により作曲・初演、同年尾高賞、芸術祭優秀賞を受賞した作品である。17歳までパリで学んだ安川先生は、アンリ・デュティユをはじめ同時代の作曲家たちがフランスの音楽界を担っていくさまをリアルタイムで見ていたので、作曲界が元気になると楽壇も元気になるからと、日本の現代ピアノ曲のシリーズを企画するなど、作曲界の活性化に力を尽くされた。

野田さんは、CD「安川加壽子の遺産」のライナーノーツで演奏会の模様を次のように書いている。

「安川先生が、ある日突然、私のピアノ協奏曲を弾くかもしれないと言われた時は大へんな驚きだった。いつも芸大の教授会では、斜め後ろの席でお近かった。とはいえ、先生は、若輩の私などなかなかお声をかけ難い存在であり、静かな佇まいの先生をただただ仰ぎ見るばかりだったのである。洋楽の神髄を体現され、日本の音楽史を自らの手で育ててこられた先生が、まだ生まれて間もない新曲を演奏して下さるということに、私は真に勇気付けられたのであった。(中略)

この夜の演奏は、まさに、自由な境地に到達された先生の奥義であった。まさかのこの演奏が、私の聴き得る、先生の最後の協奏曲の夕べになろうとは考えもせず、私は、ひたすら堪能していた。今もなおその光景は鮮明なのである。それから暫くして、先生はリウマチを患われ、それは不治の病となり、とうとう先生の手から音を奪い去ってしまった。最後の曲目の一つに私の曲を選んで下さったその思いを、その重さを、私は強く胸に秘めている。

演奏会当日、オーケストラとのゲネプロが終って先生に一つだけお願いをした。普通ならこの段階での注文は、聞くだけ聞いて、ということになるのであるが、先生はそうではなかった。「あ、そう」と軽く頷かれたその箇所は、決して変更容易なものではなかったが、本番で見事に変っており、私を驚嘆させた。やはり先生は、幼くしてプロとしてのメティエを獲得された、プロ中のプロであることを目の当たりにしたのであった」 
この演奏会で先生は、花柄のドレスの上に、打ち掛けのような同柄のふわっとしたガウンをまとってあらわれた。今から思えばリウマチで肩が冷えるのを防止するためだろう。

1980年代はじめといったら、現代音楽は一般的に「ガラガラドシャン」とうるさいものだと認識されていて、演奏するほうも平気でつぶれた音や汚い響きを出していたように思うが、先生は現代曲を弾くときでも常にためをつくり、極力ダイレクトなタッチを避けている。文字どおり「翼のはえた指」、シャープな腕の運びはさすがだと思った。

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この映像でおもしろかったのは、譜めくりである。譜めくり役は前の新演奏家協会代表の魚住源二さん。ホールではよくあることだが、天井で風が渦まいているので、譜面の片方が返ってきてしまってハラハラする。魚住さんが立ち上がるタイミングを失して先生がご自分でめくっているところもある。そうでなくても丁々発止の現代曲の協奏曲で、普通はそんなことがあったら気が動転するものだが、先生の沈着冷静ぶりに頭が下がる。

昼の部では、ここで楽しいできごとが起きた。協奏曲の映像途中で事務所の人が、野田先生がいらしてます・・・と耳打ちしてくださったのだ。演奏終了後、安川先生が客席に向かって手まねきをし、作曲者を呼ぶシーンが映っていたから、とっさにこれを利用しようと思った。

協奏曲が終わり、ステージが明るくなる。すかさず、客席のどこかにいるはずの野田さんに向かって「安川先生が呼んでいらっしゃいます」と呼びかけた。野田さんは立って挨拶し、客席からは拍手が沸き起こった。

終演後にきいたことだが、実はこのとき、音楽評論家の丹羽正明さんもいらしていたのだ。ご紹介しなくてすみませんとあやまったら、丹羽さんは、番組のことを熱っぽく語ってくださった。安川先生とのインタビューはよどみなく流れているように見えるが、実は4日前に打ち合わせし、細部まで練り上げたものだという。たしかに、先生はパリ育ちでフランス語が母国語、寝言もフランス語でおっしゃるというから、周到な準備がなければスムーズには運ばなかったかもしれない。

後半のプログラムは、前半より3年ほど前の1978年7月5日にNHKホールで開かれたショパン・リサイタルからの録画である。野田暉行さんが書いていらっしゃるように、先生はリウマチからくる手指の故障で83年を期に演奏生命を奪われたが、その最初の発作が起きるわずか1ヶ月前の演奏だった。リウマチが悪化してからは、語り種になっている先生のあでやかな舞台姿も損なわれてしまったが、この映像では、すべてが準備されているのにまったく自然なステージマナーを堪能することができる。

演奏会のプログラムで井上二葉先生が「袖から出てきたときからすでに音楽がはじまっている」と書かれているが、まさにそのとおりで、まずピアノの背もたれに右手をのばし、ついでピアノの背に左手を軽くそえる。そうえいば、このころはまだ背もたれのある椅子を使っていた(今ではスツールタイプが一般的だ)のだなと、そんなところにもなつかしい思いがした。

最初の曲は『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』。ポロネーズは1831年作。序奏は34年に出版される際に作曲された。管弦楽伴奏つきとして書かれたが、こんにちではソロで演奏されることが多い。アンダンテ・スピアナートでは、左手の親指を基点とした自在なアルペジオと、右手の美しいカンタービレが印象的だ。モーツァルトのときは手首を高くとって腕をつり下げるようにして弾いていらしたが、ショパンでは手首を低くとり、指先で練るようにタッチしている。安川先生といえば、優雅で繊細なタッチばかり愛でられたものだが、実はロマンティックな音楽にも対応するテクニックを持っていらしたのだ。

ポロネーズは右手の技巧が大変むずかしいが、先生独特の手前に引き寄せるようなタッチで苦もなく処理されている。腕でぽーんとはずませるスタッカート、身体中が躍動するようなダイナミックなリズムは圧巻。

何度も見ている映像なのだが、改めて大きな画面で見ると、しきりに胸が詰まって涙が出そうになって困った。聴いていらした方も同じ思いだったらしい。演奏終了後に客席はどよめき、自然発生的に拍手が湧き起こった。

先生のリズム感はヨーロッパ仕込みなのだ。パリで小学校に通っていらしたころ、体操の授業にダンスが組み込まれていて、すべてのステップを習ったという。先生のお宅に伺ったとき、小さな銀色のケースに細い爪楊枝のようなものがはいっているのを見つけて、これ何ですか? と伺ったら、舞踏会でダンスを申し込んできた男性に渡すものだと話していらした。残念ながら先生は、舞踏会デビューの前に戦争で帰国しなければならなくなったのだが、十七歳の先生が舞踏会に出ていたらどんなに人気だったろうと、思うだけでわくわくする。涙をこらえてこんな話をしたあと、「子守歌」「舟歌」「スケルツォ第4番」をつづけて見ていただく。

「子守歌」は1843~44年、ショパンが可愛がっていた歌姫ポーリーヌ・ヴィアルドーの娘のために書かれた作品。よどみない左手の伴奏に乗って、旋律に繊細な変化がつけられていく。カメラは下のアングルから映し出すので、先生の大きな掌で包み込むようにして装飾のヴァリアントが紡ぎ上げられていくさまに目をうばわれてしまう。自らも3人のお子さまをお持ちの先生の慈愛に満ちた表現にも心打たれる。

「舟歌」は、1846年に書かれたショパン晩年の傑作である。ヴェネツィアのゴンドラのリズムに乗って展開する音楽は刻々と表情を変える。いつも親指を基点とした重音のテクニック、常に呼吸しているようなしなやかな手首に目を奪われる。先生の「舟歌」のテンポでは、ひとつのエピソードがある。芸大のピアノ科の試験で、ある学生が「舟歌」の演奏時間を7分と書いて提出したところ、ある先生が「舟歌」は7分では弾けない、もっとかかるだろうと発言した。そうしたら安川先生はこともなげに「あら、私は6分で弾くわよ」とおっしゃったとか。

そんなわけでテンポは速いが、うつろいゆく表情の変化がさっとひと刷毛で描かれるあたりは見事。クライマックスでは、音楽に没入しきった先生ご自身の表情も読みとれる。

「スケルツォ第4番」は1842年作。悲劇的な作風のスケルツォの中で唯一長調で書かれた作品。優雅で洒脱な雰囲気が先生のピアニズムにぴったりだ。とりわけ両手でのぼっていく重音のスタッカートは誰もが苦労するものだが、先生は見事な指さばきで鮮やかに弾かれる。表面的な華麗さに耳を奪われがちだが、実は堅固な和声的構築にもとづき、太い線でぐいぐいと押していく迫力にも圧倒される。

ここでプログラムに書いた演奏がすべて終わり、客席からは再び拍手。

「ありがとうございます。先生は、今となってみればご丈夫だった最後の演奏会で、とても興に乗っていらして、珍しく3回もアンコールなさっています。先生のアンコールといえば、まずドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』『ミンストレル』、ショパン『練習曲作品25-1』や『同25-2』『夜想曲作品9-2』などでした。この日は練習曲2曲に加えて『ワルツ作品64-2』も弾かれています。残念ながら映像はないですが、そのアンコールの音をお聞きいただいて、終わりにしたいと思います。この音は、当時高校生だったあるファンの方が録音してずっと大切に持っていらしたのをコピーしていただいたものです」

音源を保存していらしたのは、当時地方の高校生だった方だ。一年の冬、テレビで安川先生の演奏会の録画を見て、「舟歌」のクライマックス部分でこれまで体験したことのない感動に襲われ、気がついたらテレビの前で涙を流していたという。この方はその体験を作文に書き、『音楽鑑賞教育』という雑誌の作文に応募したところ、入賞した。

そんな思い出とともに送られてきたのは、NHKホールでの演奏会の録音だった。私たちが入手した映像にはアンコール曲はショパン『練習曲作品25-1』だけだった(しかも映像は途中で途切れていた)が、録音ではさらに『ワルツ作品64-2』と『練習曲作品25-2』も収録されていた。

当初は『ワルツ』だけを聴いていただこうと思っていたのだが、リハーサルのときに聴いてみたら、『練習曲作品25-2』はさらに感動的な演奏なので、最後にこの2曲を聴いていただこうと思ったわけだ。
 どちらも、プログラムを演奏し終えたあとの高揚した気分がよく味わえるが、なかでも『練習曲作品25-2』はすばらしい。先生の右手からくりだされる繊細な6連音符を左手の三連音符が支え、からみあい、見事なアラベスクを紡ぎあげる(夜の部のトークではここを「アルペジオ」と間違えてしまった。痛恨のミス!)。
 
昼の部も夜の部も、終了後、ロビーに出て行ったら多くの方に囲まれた。
昼の部には野田暉行さんを安川先生の霊が呼ぶ(!)という感動的なハプニングがあり、こちらも高揚した気分がしばらくつづいた。夜の部にはその手は使えなかったし、そのぶん、立ち上がりが鈍かったように思うが、後半の『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』を見ているうちにどんどん音楽が身体に入り込んできて、後半のショパン・プログラムは昼の部より感情移入してトークすることができたように思う。

1978年という年は安川先生がエリザベート国際コンクールの審査に行かれて、日本人が誰も入賞できなかったのである種の挫折感をいだいたまま帰国、空港で肩に異変を感じたときである。先生はそのとき、「日本人が欧米のピアニストに追いつくまでにはあと25年はかかるだろう」と思われたという。それからとっくに25年はすぎているが、そして、その間日本のピアノ界は大進歩をとげ、国際舞台に進出しているはずなのだが、昨年のショパンコンクールでは再び振り出しに戻ってしまった・・・ような気がした。

いったい何なのだろう? 本物の脱力、本物のリズム感、本物の色彩感、本物の解釈とそれにむすびついたテクニック、アスリートと比べてもほれぼれするようななめらかで無駄のない動き。さりげない、でも美しいステージマナー、ドレス、仕種、たたずまいのすべて。何よりも、個より公のことをまず第一に考える姿勢、広い視野と暖かい心。

私は1999年に刊行した『翼のはえた指』で、「日本のピアノ界が頭打ちになっているのは安川加壽子が足りないからだ」と書いたが、その気持ちは今も変わっていない。

私は、評伝を書いたときもそうだったが、門下生だから安川加壽子先生のことを紹介したいと思ったのではない。真に偉大な音楽家で、生前にその希有なご存在がすべて理解されたとは思えなかったので、その隙間を-少しでも-埋めたかったのだ。

打ち上げを終えて帰宅したら、いくつか感想メールがはいっていた。
「初めて演奏とお姿を拝見したのですが、流麗でかつ衣装なども本当に美しく、当時の方々が憧れの眼差しで熱狂したのもうなずけました。あのような流れるようなショパン、あまり最近では聴かないように思います」
これは若い音楽学者の卵さん。

「初めて安川加壽子先生の演奏されている姿を拝見しました。衝撃でした。インタビューの内容もすばらしかったです。お話では幾度も、安川先生はこうであったといろいろな形で伺って来たのですが、実際目にすることができて本当に良かったです。映像を観たというよりも、本当に生の演奏会を観たような、生々しさ、鮮烈な印象を受けました」
こちらは元音楽雑誌の編集さん。

夜の部には子供たちもたくさんきていた。願わくば、彼ら彼女らの中に「安川加壽子」が根付き、いつか美しい実をむすばんことを。

新メルド日記20110608_03

投稿日:2011年6月30日

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