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執筆&インタビュー

連載「我が偏愛のピアニスト」/「ムジカノーヴァ」 2008年6月号


  第12回 柳川守さん(後編)

 1952年、ピアノ界期待の星としてパリ音楽院に入学した柳川守さんだが、フランス特有の促成栽培のような教育は性に合わなかった。コンクール優勝からレヴィの公開講座まで、勢いだけできたようなところがある、留学したら腰をすえて勉強しようと思っていたのに、たった一年で終わってしまう。室内楽も、パスキエに誘われ、同期留学の豊田耕二さんとのデュオでクラスにはいったが、これまた一年で卒業させられてしまう。
  レヴィともそりが合わなかった。柳川さんも日本人としてはよい手の持ち主だが、先生の手は比べものにならないほど大きく、腕も長く、肩ががっしりしている。日本では指をしっかり上げて弾くように習ったのに、手を丸めたまま、指を上げないで弾きなさいと言われる。肩や肘、手首もできるだけやわらかくと言われる。でも、まだ充分鍛えられていない手で指を上げなかったりやみくもに力を抜いたりしたら、きちんと音は出ないのだ。
  自分は一曲仕上げるのに時間がかかるほうだが、レヴィは完成度の高い『葬送ソナタ』を聴いてそれが普通だと思っているから、少しまごまごしていると、この曲は嫌いなのかとおききになる。自分が悩んでいる問題について理解していただけない。
  次第にすれ違いが多くなっていった。 「自分のやりたいのはもしかするとピアノではないのかもしれない。ずいぶん考えた」 柳川さんの逡巡は、日本でもいち早くキャッチされていた。『音楽之友』1953年5月号、つまり柳川さんが圧倒的な成績でピアノ科を卒業する直前、評論家の村田武雄は野村光一との対談で、「あの人はたとえば作曲家のようなものになるのじゃないかと思う。あの人は弾くことで満足していられそうにもないと思うのです」と語っている。
  今でこそ、コンポーザー・ピアニストは認知されるどころか、むしろ主流になっているが、当時は演奏一本が美徳とされたのだろう。
  すでにデュボワの和声法の教科書を終えていた柳川さんは、シャランの和声法のクラスにはいった。予備科を卒業しないうちに特例で上級クラスに入れてもらったものの、背のびしすぎてうまくいかず、二等賞の一位指名にとどまった。次の年も挑戦していればきっと一等賞がとれていたにちがいないが、そこまでやるパワーが残っていなかった。
  自分のまちがいは、ピアノの勉強方法を作曲にも応用してしまったことだ、と柳川さんは語る。和声法のいろいろな約束ごとをきちっと勉強してもそれだけで曲が書けるわけではない。むしろ、最初から規則など知らず、自由に書いたほうがよかったかもしれない。
  オーケストラが大好きで、ピアノ譜もいろいろな楽器の音色にあてはめて読む(だからあの色彩感が生まれるのだ!)柳川さんは、ジャン・フルネについて指揮の勉強をしたこともあるが、多くの人とコミュニケーションをとる指揮という職業は向いていなかった。

  そんなとき、柳川さんにチャンスが訪れた。スイスでカラヤンやクララ・ハスキルの前でピアノを弾き、すすめられてベルンの放送局で演奏したり、トリノでラフマニノフ『協奏曲第2番』を共演する機会を得たのだ。1955年というから、カラヤンがベルリン・フィルの首席指揮者に内定した年である。帝王ではなかったがすでに大きな存在だった。
  カラヤンの紹介でイギリスのコロンビアでのレコーディングも実現した。ディレクターからは、自分たちにまかせてくれればちゃんと編集していい作品にする、と言われたが、テープを聴いた柳川さんは、自分が本当に納得する演奏がまだできていないと断った。今のままでじゅうぶん演奏していける、ツアーもできるからと言ってもらったが、踏み出す勇気がなかった。
  これは、ある意味でとても残念なことなのだ。1955年といえば、グールドがニューヨークのタウンホールのたった一度のリサイタルでコロンビアと契約を結び、バッハ『ゴルトベルク変奏曲』を録音した年である。未来を担うべきリパッティが5年前に死去、ミケランジェリも闘病生活を送っており、ディレクターたちは有望なピアニストを捜していた。柳川さんが申し出を受けていたら、世界的存在になっていたかもしれない。しかしまた、カラヤンと共演した多くのピアニストのように、途中で挫折していたかもしれない。
  とにかく納得のいく勉強をしたいと思った柳川さんは、道を求めてさまざまなピアニストの演奏を聴く。そこで出会ったのがポーランドのピアニスト、ブライロウスキーだ。生徒はとらないと言われたが、空港まで追いかけていって、一度聴いてくださいと頼んだ。 柳川さんのピアノを聴いたブライロウスキーは、パリにとどまるつもりならマルセル・シアンピを紹介しようと言ってくれた。エリック・ハイドシェックの先生だ。もしそこでアメリカに行くと言ったらロジーナ・レヴィーンに紹介される手筈になっていたという。
  これが1958年である。柳川さんを預かったシアンピは、ブライロウスキーの指示で、テクニックの基礎をやりなおさせた。他の曲を弾くことを禁じて、椅子の座り方から始め、鍵盤に手を乗せ、全部の指で支えるテヌート、そして指一本ずつの運動にすすむ。
  秒単位のゆっくりした動きで、なによりも運動神経の分離独立が大切である。同時に、手の握り方、開き方の体操などをまじえ、フォームをつくる。腕のいろいろな運動など、独立したトレーニングが20種類ほどもあった。なお、掌がしっかりするまでは手首を固めておくというのが、柳川さんにとっては納得のいく指示であった。
  1ヶ月ほどの集中トレーニングのあと、実際の曲への応用学習にはいる。そこでは、画家が絵の具を使うように、どうやって応用するかが問題なのだと言われた。

  1961年、シアンピの指導を受けていた間に、柳川さんはリスト=バルトーク・コンクールに参加し、入賞こそならなかったが、聴衆の絶大な指示を得て名誉賞を授与された。バルトークの小品やリストのラプソディなどで客席を沸かせてしまったのだという。
  レヴィの公開講座でも、パリ音楽院の卒業演奏会でも、そして私が聴いた東京の演奏会でも、柳川さんの演奏は、ツボにはまれば聴く人の魂を強くゆり動かす力をもっている。
  苦心惨憺したが、留学したことは後悔していない、と柳川さんは断言する。自分自身の対決で苦労したわけで、それがなかったら脱皮できなかったと思うことがたくさんある。
  ひきつづきブライロウスキーの指導のもと、タッチや音色について研鑽を積み、1967年に帰国。翌年の5月27日、東京文化会館小ホールでショパン『24の前奏曲』とリスト『ダンテを読みて』などの曲目でリサイタルを開く。以降、ほぼ毎年演奏会を開き、そのうち一部の演奏はライブ・セレクションのCDで聴くことができる。
  現在は30年教鞭をとった国立音楽大学も定年になり、音楽三昧の生活を送っている。 タッチについて新しい発見をしたのは、つい最近のことだ。「指の触覚を通して音を聴くということが実感としてわかるようになりました」と柳川さんは語る。そうするととたんに音がクリアになる。
  「この間のリサイタルには、一応満足しています」 柳川守さんの意義は、長いキャリアを積んできたことでも、なお高い演奏水準を保っていることにあるのでもない。柳川守という類まれな才能が、長い試行錯誤を経て、自分自身や社会との戦いも制してゆっくりと成熟し、自己実現のときを迎えたことにあるのだ。 これからの柳川さんの演奏が本当に楽しみだ。

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