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執筆&インタビュー

連載「我が偏愛のピアニスト」/「ムジカノーヴァ」 2008年5月号


  第11回 柳川守さん(前編)

 柳川守さんが2007年12月に関西で開いたリサイタルのことは、3月号の『ムジカノーヴァ』で絶賛されている。「老練な音楽家の至芸に酔わされる、まことに幸せな一夜であった」(大久保賢)
  私は同じプログラムを1月に東京で聴いたのだが、「幸せな一夜」は本当にその通りだが、「老練」とは思わなかった。むしろ反対で、実に若々しく、ういういしくさえある。
  ベートーヴェン『ソナタ作品101』、ショパン『幻想ポロネーズ』、ドビュッシー『前奏曲集第2巻』というプログラムを通じて、音楽するのが嬉しくて嬉しくて仕方がないという気持ちが伝わってきて、それが聞き手をも幸せにする、そんな感じだった。
  とりわけ私を驚かせたのは音色で、ひとつひとつの音が鮮やかな像をむすび、ロシアの近代画家カンディンスキーの画布のようにホールの空間を極彩色に染めている。
  1932年生まれの柳川さんはもう70代なかばのはずだが、演奏は少しも枯れていない。むしろ、昨今の若手のほうがよほど守りにはいって、感情を爆発させるかわりにピアニシッシモのグラデーションを重ね、妙に老成した演奏をきかせることがある。
  そのことを申しあげたら、柳川さんは笑って、「僕には”まだ”何も守るものはないですから」とおっしゃった。
  「やっと入り口まではきたかという感じではあるんです。習っているときはネバナラヌが多く、自分の音楽について自信をもてないことが多い、こうするべきだとかいろいろ言われて、それを追っていくと、自分自身との間に軋轢が生じる。でも、結局は、自分が感動したこと、身体や感性の制約も含めてそういったものの中で自分がベストだと思うことをやっていけばいいんだ、それしかないんだとわかって、気が楽になったんです」
  でも、そういう心境に至るまでにはとんでもなく大変なことがあるわけですよね、と申し上げたら、柳川さんは短い言葉に万感をこめて「あります、はい」とお答えになった。
  私たちの世代にとって、柳川守という名前はすでに伝説になっている。1949年のNHK・毎日コンクール(現日本音楽コンクール)の第1位特賞。第2位特賞は田中希代子さんで、当時としては稀に見るレベルの高いコンクールだったその年のことを、まだ生れていなかった私は両親からくりかえしきかされて育った。
  1950年、安川加壽子先生の師匠ラザール・レヴィが来日して芸大の奏楽堂で公開講座を開き、当時高校生の柳川さんの演奏に感服し、パリ音楽院への留学を強くすすめる。
  52年に留学した柳川さんは、翌年、早くも一等賞を得て卒業してしまう。現在のパリ音楽院は卒業までに四年ぐらいかかるが、そのころは期末試験でよい成績をとれば一年めでも卒業コンクールを受けることができたのだ。
  演奏したのはベートーヴェン『ソナタ作品111』とショパン『葬送ソナタ』の第1楽章、バッハの平均律にベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番・皇帝』のフィナーレ。第2ピアノは51年の一等賞受賞者・田中希代子さんが担当した。
  審査員として招かれたが、芸大で柳川さんを指導したことがあるため辞退して客席で聴いていた安川加壽子先生のレポートによれば、「演奏が終わったあとは興奮した審査員が騒ぎ出し」審査員長にたしなめられるほどのセンセーションを巻き起こした。

  当時のパリ音楽院は男女の教育を分けており、同じ年に男子の部に出場したエリック・ハイドシェックの脳裏にも「ヤナガワ」の名前が深くきざまれた。受賞者演奏会の日、シャイヨ宮で『葬送ソナタ』を演奏した「ヤナガワ」は9回もアンコールに呼び出された。
  伝説のピアニスト柳川守のイメージは天才少年だが、「僕はいろいろなことが奥手 なんです」と柳川さんはおっしゃる。音楽の手ほどきをしてくださったのは東貞一先生。京都帝大の哲学科を卒業なさった瞑想的な方だった。生徒が弾くときはいつも窓のほうを向いていて、弾き終えるとただ「ウン」とうなずく。言われると「どうもありがとうございましたと言って帰っていく。そんなレッスンだった。
  東先生は、作曲も好きで「いつも譜面をいじっていた」少年を、あまり型にはめず自由に育てた。おぼえているのは、シャミナーデの『牧神』という曲を弾いたときだ。お母さまには楽譜と違うことを弾いていると言われが、東先生はそのままにさせてくださった。自分の中に浸りきったような不思議な感覚で、はじめて音楽っていいなと思った。
  こんな経験もある。3年生のとき、ショパンの『アンプロンチュ第1番』を与えられたが、当時少し精神的に弱っていて、音がわーっときこえたり、鍵盤が遠くに見えたりする。今から思えばショパンは大人の音楽で、感受性がめばえはじめた子供にとっ
ては、音の動きだけで滅入ってしまったのだと思う。5年生になってやっと健康をとりもどした。
  奈良県に住んでいたので、毎日コンクールで腕を磨いていった。当時学生部門はなかったから、いきなり大人のコンクールである。1946年、14歳のときは本選まで残った。次の年も本選どまりだったが、1948年には第2位特賞を得た。第1位特賞は松浦豊明さんだ。それでもう一度と思い、4年連続で受けて優勝することができた。
  コンクールを受けはじめると、東先生も具体的な指導をしてくださるようになった。なかでもショパン『葬送ソナタ』が課題に出た48年のときは、当時は珍しかったコルトー版の楽譜を手に入れて、練習法などをいろいろ研究してくださった。それまでは、片手ずつでさらうとか、むずかしいところを何回もくりかえして練習するぐらい しか知らなかったのが、トレーニングのメソードがあることをはじめて知って興味をもった。
  ラザール・レヴィの公開講座でその『葬送』を弾き、数年後にはホロヴィッツのようなピアニストになる、と絶賛されたのは、コンクール優勝の翌年である。そのころは月に一度東京に出て井口愛子先生の指導を受けていたが、あの曲は東先生に習っていたときにしっかり仕上げたもので、それがそのまま自分の実力ではなかった、と柳川さんは言う。
  戦争直後でもあり、柳川さんはジャーナリズムにもてはやされた。公開講座の3日後、井口先生にともなわれてホテルを訪れた柳川さんを迎えたレヴィは、「どんどん色んなものを手がけて、レパートリーを増やしなさい」「国際コンクールに出るつもりで勉強しなさい」「フランスに来ればできる限りの援助をしよう」とはげました。
  このときの訪問の模様は、なんと毎日新聞で報じられている。しかし、まだ高校3年生だった柳川さんの談話は、とても冷静なものだ。
  「芸大の演奏の時思いがけずほめていただいてからすっかり緊張してしまい何といってよいか言葉がみつかりません。(中略)フランスへもし行けるならもう少し勉強して着実なものを身につけてからのほうがより良い勉強になるような気がします」
  その言葉どおり、芸大にすすんでいったんは安川先生に師事した柳川さんだが、52年に中退してパリ音楽院に留学した。以降、フランス留学は足かけ15年に及ぶ
(以下次号)

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