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執筆&インタビュー

連載「6本指のゴルトベルク」/岩波『図書』 2008年7月号


 第25回 長い長い物語

 村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』のあるページには、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』がちょこっと出てくる。村上の私淑する作家デレク・ハートフィールドの半自伝的小説『虹のまわりを一周半』の「人生は空っぽである」という一節が引用されているのだ。
  「私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまったのだ。どんな風に苦労し、どんな風にすり減らしてきたかはいちいちここには書かない。面倒だからだ。どうしても知りたい方はロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』を読んでいただきたい。そこに全部書かれている」
  これを受けて村上は、こんなふうに解説する。
  「ハートフィールドが『ジャン・クリストフ』をひどく気に入っていた理由は、ただ単にそれが恐ろしく長い小説であるという点にあった」
  おもしろいのは、『ジャン・クリストフ』のモデルがベートーヴェンだということ だ。あとがきでロマン・ロランは、主人公はベートーヴェンその人ではない、ボンの音楽家との類似はクリストフの家庭的特質にとどまる、と書いているが、一個の新しい英雄像を描こうと考えたとき、ロランの脳裏に自然に浮かんできたのはベートーヴェンだった。
  少なくとも、クリストフはシューベルトではない。ベートーヴェンに憧れながら、そして同じウィーンに住んでいながらどうしても彼に近づくことができず、英雄が死を迎える一週間前にようやく見舞いに行き、葬儀では松明を掲げて行列に参加したシューベルト。
  もうひとつおもしろいのは、『ジャン・クリストフ』の目的はベートーヴェン型の英雄を創造することだったが、作品じたいはベートーヴェンの音楽を体現していないことである。だってベートーヴェンなら、あんなに饒舌で長い作品は書かない。あんなにモティーフを無駄使いする作品は書かない。
  クリストフと田舎の旅籠で隣り合わせに一夜を過ごしながらついに結ばれないザビーネなんて、私が選ぶヒロインのベスト二十ぐらいには顔を出す魅力的な女性だが、出てきたと思ったらもう死んでいる。
  『ジャン・クリストフ』を気に入っていたハートフィールドによって文学に目を開かれた村上春樹の小説も、とても長い。『1978年のピンボール』までは、おそらく芥川賞の制約があって短い小説しか書けなかったのだろうが、その後どんどん長くなっていき、『ねじまき鳥クロニクル』に至っては文庫本三巻もある。

  村上春樹が好きな音楽も、とても長い。
  2003年から2005年まで『ステレオサウンド』誌に連載していた『意味がなければスウィングはない』には、シューベルトのピアノ・ソナタへの偏愛が告白されている。
  「どうしてかとあらためて質問されると簡単には答えにくいのだが、結局のことろ、シューベルトのピアノ・ソナタの持つ『冗長さ』や『まとまりのなさ』や『はた迷惑さ』が、今の僕の心に馴染むからかもしれない。そこにはベートーヴェンやモーツァルトのピアノ・ソナタにはない、心の自由なばらけのようなものがある」
  連載中に書かれた『海辺のカフカ』でも見事なシューベルト論が展開されている。
  十五歳の誕生日に家出をした田村カフカ少年は、高松市郊外にある私立図書館で大島さんという司書に会う。
  クラシックが好きな大島さんは、車のデッキにシューベルトのピアノ曲を入れている。シューマンが「天国的に冗長」と評した『ソナタニ長調 D850』。
  「シューベルトのソナタは、とくにニ長調のソナタは、そのまますんなりと演奏したのでは芸術にならない」と大島さんは言う。
  「あまりに牧歌的な長すぎるし、技術的にも単純すぎる。そんなものを素直に弾いたら゛味も素気もないただの骨董品になってしまう。だからピアニストたちはそれぞれに工夫を凝らす。仕掛けをする」
  ニ長調のソナタというのは、私たちが「ばらが咲いた変奏曲」と呼んでいる曲だ。
出だしのところが「ばーらが咲いた、ばーらが咲いた、真っ赤なばーらーが」の「ばーらが咲いた」に当たるメロディそっくり(厳密に言えばリズムが少し違っていて、「ばばらが咲いた」というふうになっている)だから。もちろん、シューベルトがマイク真木を真似するわけもないのだが。(同じようなパターンに、冒頭のメロディが「雪の降る町を」を連想させるショパン『幻想曲』がある)
  私が音大生のころ、シューベルトのソナタは、構成力を高めるための試金石として先生から与えられるものだった。つまり、村上が言うようにそのまま弾いたのではサマにならないから、くどいところはあまり気持ちを入れないでやりすごすとか、テンポに変化をもたせるとか、コントラストを強調する、あるいは曖昧にするとか。
  でも、大島さんに言わせれば、ウィーンのピアニスト、ブレンデルのように冗長さを感じさせないまとまった演奏は、あまりシューベルトにふさわしくない。なぜならシューベルトというのは「ものごとのありかたに挑んで破れるための音楽」だから。
  「僕はニ長調のソナタに耳を傾け、そこに人の営みの限界を聞きとることになる。ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないのだと知ることになる」という大島さんの主張は、そのまま村上春樹の小説観でもあるようだ。

  私が村上春樹で最初に読んだのが『海辺のカフカ』だった。というより、ある雑誌から書評を依頼され、書評するからにはそれまでの小説も読まねばと、二週間ぐらい猶予をもらってほぼ全作品を読んだ。
  初期から追いかけてきたのでもなければ、何かのきっかけでファンになったわけでもなく、ある時期にまとめて読むような読み方をしたせいだろうか、私がそのとき思ったのは、村上作品というのはひとつひとつも長いけれど、それじたいで完成しているというよりは、むしろ集積としてとらえる必要があるのではないかということだった。もちろん、村上は現在進行形の作家だから、私たちはいつも建設中のビルや噴火中の火山のように目の前にある形でしか見ることができないのだが。
  『海辺のカフカ』でシューベルトを感じさせるのは、たとえばナカタさんのような人物像だ。
  この連載の何回めかで、ベートーヴェンが『運命』と『田園』のような対照的な作品を交互に書いていたこと、同じ「運命の動機」でも『運命』と『ピアノ協奏曲第四番』で使うときはまったく違った性格をもたせたことを書いた。
  しかし、ベートーヴェンの場合は、ひとつの動機をひとつの作品で使うときは、おおむね同じ感情で終始させている。『田園』ふうに牧歌的にはじまったものが、途中で『運命』ふうに悲劇的になったりはしない。ところがシューベルトの場合は、『田園』ふうにはじまった音楽がいつのまにかするりと『運命』ふうになり、また気がつくと元に戻っていたりするのだ。
  『ピアノ・ソナタニ長調』を例にとるなら、「ばばらが咲いた」モティーフはニ長調(つまり、明るくて元気がよい)で呈示されて一回終わると、次はニ短調(暗くて荘重)でくりかえされのだが、カデンツであっさりもとの長調にもどってしまい、拍子ぬけする。展開部でも、「ばばら」を重ねて『運命』ふうの効果を出しているのだが、すぐにまたなんでもなかったようにほんわかした光に満たされる。
  ちょうど、無色透明なものがどんな色でも反映させるように。

  猫と話のできる知的障害者のナカタさんも、たいていは『田園』ふうに推移する。彼と茶色の縞猫のカワムラさんとのかみあわない会話などというものは落語のクマさん、ハっつぁんのようでほのぼのと哀しく、宇野浩二『苦の世界』に匹敵するおもしろさだ。
  そのままほのぼのとすすんでいくと思いきや、ナカタさんは突然これ以上ないほど残酷な場面に遭遇する。「悪」の象徴ジョニー・ウォーカーによる猫の大量殺戮と、ナカタさん自身によるジョニー・ウォーカーの殺害である。ナカタさん自身が悪をなすのではない。ナカタさんがあまりにニュートラルなので何ものかがはいりこんできて彼に人殺しをさせるのだ。ナカタさんに罪がない証拠には、殺人を犯してもナカタさんの衣服には何も痕跡が残らない。
  血まみれのシーンをするりと通りすぎると、またほのぼのとナカタさんらしい会話がつづく。違っているのは、ナカタさんがもう猫とコミュニケーションをとることができなくなったことで、かわりにトラック運転手の星野青年が相手をつとめる。
  魅力的なモティーフの一部は展開されることなく放り出され、不思議な印象を与えるにとどまっている。たとえば突然空から魚やヒルが降ってくるシーンだ。ナカタさんが現在のナカタさんのようになった戦争中の事件に由来するらしいが、はっきり種明かしされることはなく、すべてが漠然としている。
  ナカタさんが九歳のときに起きたその事件にしても、これがミステリーなら物語の最後になんらかの「悪」の組織が読者の前に姿をあらわし、探偵役のカフカ少年と対決させるのだろうが、この作品では不気味に背景にとどまっているだけだ。
  その事件を引き起こした「入り口の石」についても、神話のように象徴化されていて、最後まで説明されることはない。「入り口の石」を閉めることに全精力を使って死んでしまったナカタさんの身体から、「悪」がエイリアンのようなねばねばした白い物体となって出てくるシーンでは、ナカタさんにかわって猫の言葉を理解できるようになった星野青年が退治する。
  もしここで「悪」が架空の人物や組織として肉づけされていたら、小説世界の中でことが終わってしまっただろう。しかし、具体的な形をとることなく、説明もされないため、読者は自分の知っている、体験したことがある、あるいは見聞きしたことがある「悪」に転化させて皮膚感覚的に理解することができる。
  ちょうど、シューベルトを弾く人(=聴く人)が、『運命』になったり『田園』になったりする音楽のまにまに漂いながら、人の心のうつろいをしみじみとかみしめるように。

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