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執筆&インタビュー

連載「ドビュッシーとの散歩」/『音遊人』  2008年6月号


  第14回 グラドス・アド・パルナッスム

 小学校六年生になる姪がピアノを習っている。たまには毛色の変わったものを・・・と、先生が『子供の領分』の第一曲「グラドス・アド・パルナッスム博士」を課題にくださったらしい。
  最初のうちはいいのだけれど、どうも途中で飽きてしまってなかなかおけいこに身がはいらない、とお母さんが嘆いていた。
  ところでこの曲は、無味乾燥でたいくつなクレメンティの練習曲を子供がいやいや練習しているところを描写した作品なのだから、それを練習している子供が退屈してしまっては困りますネ。
  開始してしばらくはいかにも練習曲のように右手がカタカタ動くのだが、やがてそのうちのひとつの音がのびて旋律をつくり、左手と二重唱で歌いはじめる。ついで左手が主導権を握ってトッカータ的なパッセージに発展し、最後は練習から解放された子供が庭に遊びに行ってしまう(?)ような陽気な終わり方をする。
  前回の練習曲「五本指のための」でも見たように、ショパンの弟子と言われるモーテ夫人に手ほどきを受けたドビュッシーは、チェルニーなどの練習曲が必ずハ長調から始まることをあまり快く思っていなかった。「グラドス・アド・パルナッスム博士」も同じ系列に属する作品だろうが、実は、ショパン自身はチェルニーは嫌っていたが、クレメンティの練習曲は大いに活用していたのである。
  ただし、ハ長調ではなく黒鍵の多い調子で書かれたものを。
  ショパンの弟子たちの証言によれば、先生はまず、クレメンティの『前奏曲と練習曲』から♯や♭が四つ以上ついた曲がおさめられた第二巻から練習を開始させたそうである。
  なかでも彼がお気に入りだった『前奏曲変イ長調』はすばやいアルペジオで始まるのだが、弟子が少しでも粗暴な音で弾くと、ショパンは椅子からとびあがって、「なんですか、それは! 犬の吠え声じゃあるまいし」と叫んだとか。
  『子供の領分』は、ドビュッシーの愛娘シュシュに捧げられている。では、けいこ風景を描写されている子供はシュシュなのか? 

  ドビュッシーの四十三歳のときの子であるシュシュは、組曲が書かれたときまだ二歳半だったから、クレメンティの練習曲を弾くにはいくらなんでも早すぎる。というか、アルゲリッチのような天才でもないかぎり、そもそも二歳半でピアノは弾かないだろう。
  のちにシュシュは実際にピアノを習うようになったが、こちらもどうもあんまりうまくいかなかったらしい。
  ドビュッシーがピアノの先生に書いた手紙が残っている。
  「二年前からシュシュはもはや目立った進歩をしておりません。それは誰の落ち度でもなく、私はそのことであなたを非難しようとはしていません。ただ、彼女がもっと厳格な方の指導を受けることは不可欠です。
  また時間の問題もあります−−あなたはしばしばお変えになりますね。もっとも、それについて議論するつもりはありません。とはいえ、彼女の母親と私は、彼女の音楽の勉強を違う方向へ持っていく決心をしました」(一九一七年十月二十四日・笠羽映子訳)
  このときシュシュは十二歳。ドビュッシーは五十五歳だった。フランスを代表する作曲家からこんな手紙をもらったピアノの先生は、さぞかし困ったことだろう。
  不治の病におかされていたドビュッシーはそれから長くは生きていなかった。一九一八年三月二十五日に彼が亡くなったとき、シュシュは「パパが死んだ。この三つの言葉を、私は理解することができない。または、理解しすぎるほど理解している」と書いた。
  悲しいことに、シュシュ自身もそれから長くは生きていなかったのだ。ドビュッシーに愛情を注がれるためだけに生れてきたこの少女は、父親の死から十六ヶ月後、ジフテリアの予後が悪くて亡くなった。
  彼女が生き長らえていたら、ドビュッシー研究ももう少し進んでいたのにと思うと本当に残念だ。
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