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執筆&インタビュー

連載「6本指のゴルトベルク」/岩波『図書』 2008年3月号


  第21回  天安門事件とフランス大革命

  私の誕生日は六月四日だ。虫歯予防デーに生れたおかげで虫歯が一本もないのが自慢だが、この誕生日にはもうひとつ自慢がある。五月になおすと五月三十五日になることだ。
  『エミールと探偵たち』で知られるドイツの児童文学作家ケストナーに『五月三十五日』という作品がある。五月三十五日には、馬が口をきいたり洋服だんすの奥が南洋になっていたり、不思議なことが起きるという楽しいお話だ。
  日中文化交流協会の音楽使節として北京に行ったとき、そんな話を通訳さんにしたら、彼女はじっと私の顔をみて「六月四日には中国でも変なことが起きた」という。
  一九八九年六月四日−−。そう、天安門事件が起きた日なのだ。人民解放軍が広場に座り込む学生・市民を武力で鎮圧し、おびただしい死傷者を出した。とたんにケストナーの夢幻的な世界は消え失せ、なまなましい殺戮の情景が押し寄せてきた。
  七月十四日も、今はパリ祭などと浮かれているが、実はフランスの革命記念日だ。奇しくもちょうど天安門事件の二百年前の一七八九年七月十四日、暴徒と化した民衆は、絶対王政の専制支配のシンボルたるバスティーユ要塞に押しかけた。
  ギイ・スカルペッタ『サド・ゴヤ・モーツァルト』(高橋啓訳・早川書房)は、その日、三人の作家・画家・音楽家がいったい何をしていたかを検証した異色の小説だ。
   
  ということは、この三人は同時代人だったというわけか。
  海外作家の場合、翻訳・紹介されてはじめて私たちの目に触れることが多い。サドは渋澤龍彦さんとともに我が家にやってきたから、何となく渋澤さんと同世代のよう
に感じていたし、ゴヤも堀田善衛さんの三巻にわたる評伝の、威圧感のある黒い箱とともに本棚に鎮座ましましていたから、これまた何となく掘田さんと同世代のような気がしてしまう。
  対してモーツァルトは、頭に鬘をつけたこまっしゃくれた少年の肖像画として学校の音楽室に架けられていたから、何となくものすごく古い時代の人のように思いこんでいたものだ。
  スカルペッタはそんな歴史観ゼロの読者のため、巻末に対照年表を付している。
  マルキ・ド・サドは一七四〇年生まれ。フランス革命が勃発したときはパリのシャラントン修道院(精神病院として使われていた)に移送されたあとだったが、その十日前までほかならぬバスティーユの「自由の塔」に幽閉され、排水を流す漏斗状の管をメガホンがわりに民衆を煽動していたのだ。「囚人たちは殺されそうだ!」というアジ演説が暴徒をバスティーユに向かわせたのかもしれない。
  サド侯爵のでっちあげ演説は数日間つづき、たまりかねた司令官は彼をシャラントンに移す。獄中で書きためていた十五巻ぶんの原稿はすべて封印された。
  食べ物を運ぶ修道士から、サドは反乱の進行状況を伝えきく。ヴァンセンヌ監獄でいがみあったミラボーが国民議会を率いていることを知ると、心おだやかではない。自分が自由の身なら、怒りを誰に向けるべきかはっきり示すことができるだろうに。
  そして七月十四日、群衆がバスティーユを解放してみると、囚人はわずか七名だったのである。暴徒はサドの部屋にも侵入し、原稿の多くを散逸させてしまった。

  ゴヤは一七四六年生まれ。フランス革命の年はマドリードにいて、四月に宮廷画家に任命され、絶頂期にあった。パリとマドリードは離れていると言うなかれ。カルロス四世はルイ十六世と同じブルボン家の出身だったし、ゴヤに王と王妃の肖像画を描かせたカンポマネスは、僧侶、貴族、平民が初めて一同に会したフランスの三部会に倣って(似て非なるものではあったが)招集されたカスティーリア評議会の議長だった。
  七月十四日夕方、ゴヤはそのカンポマネスの家に顔を出す。リベラルな資産家、下級貴族、啓蒙思想家が集うサロンでは、パリで起きている「暴動」の話題でもちきりだ。群衆が街の盗賊団にけしかけられて、暴力、盗み、略奪をほしいままにしているというではないか・・・。革命のニュースは報道規制がかかっていたはずだが、カンポマネスには伝えられていたのだろう。
  ゴヤは彼らの話をぼんやりときいている。しかし、民衆の後進性について、無知蒙昧について語るときの軽蔑しきった口ぶりには辟易とさせられていた。
  「ゴヤの立場は微妙だ。彼らの理想、彼らの希望、彼らの改革案に本質的には賛同しているくせに、同時に一歩退き、ややもすると反対側に立っている。まるでその夢の裏側にいるような、その原理原則の裏側に、悪夢と夢幻の世界に魅せられているような」
  ゴヤは、二十五年前に自分が描いたエスキラーチェの乱に思いをはせる。カルロス三世がイタリア人顧問エスキラーチェの進言によって、スペイン伝統のケープとつばの広い帽子の着用を禁じたとき、民衆は王宮に攻めよせて撤回を要求した。
  貧困も不正も暴力もじっと耐え忍ぶのに、帽子の形をかえろと言われただけで蜂起するスペインの民衆の不可解さ。彼らは保守的で変化が嫌いなのだ。啓蒙主義者たちは、民衆のことを本当に知らないまま、彼らに幸福を与えようとしているように思われた。しかし、サラゴサの寒村に生まれ、民衆の趣味を自身の趣味としてきたゴヤには、そのあたりの機微が手にとるようにわかる。
  いずれゴヤは、版画集「カプリチョス」で大胆な社会風刺を試みるだろう。それでもなお彼は、死の二年前まで宮廷画家でありつづけるのだ。

  三人の中で一番年少の、そして一番短命なモーツァルトは一七五六年生まれ。フランス革命のころはすでに落ち目で、ウィーンで借金の手紙ばかり書いている。   
  ウィーンとパリは、マドリードよりさらに遠く離れているが、マリー・アントワネットはオーストリアの皇女だった。モーツァルトが六歳のとき、招かれて演奏したシェーンブルン宮殿の床でころび、助け起こしてくれたマリー・アントワネットに求婚したというのは有名なエピソードだ。
  モーツァルトの凋落のはじまりは、『フィガロの結婚』だった。フランス革命時の三部会でいうなら、第二身分のアルマヴィーヴァ伯爵が第三身分の下男フィガロにさんざんコケにされるという内容で、原作の戯曲はパリでもウィーンでも上演禁止、作者のボーマルシェはフランス革命の年に投獄されている。
  台本を書いたのはダ・ポンテだが、戯曲を読み、オペラ化したいともちかけたのはモーツァルト自身だったらしい。オペラだって、絶対王政時代に宮廷を舞台に発展し、観客の大部分は王侯・貴族だったのだから、ずいぶん大胆不敵な試みだ。
  『フィガロの結婚』はプラハで大当たりをとったが、ウィーンでは初演の年に九回上演されたにとどまった。つづく『ドン・ジョヴァンニ』に至っては、八八年にウィーン初演されたものの、皇帝ヨーゼフ二世の「私の舌にはいささか固すぎる」というコメントに象徴されるように上流階級の趣味に合わず、ウィーンでは二度と上演されなかった。
  スカルペッタの小説でのモーツァルトは、借金のお得意さん(?)プフベルクに二日越しの手紙を書きながら、こんなふうに独白する。
  「五年前は自信満々だった。ウィーン屈指のサロンでコンサートや音楽会(アカデミー)を開けば、百五、六十人の申込者がかんたんに集まってきたものだった。ところが今では、二週間も八方手をつくしたのに、申し込んできたのはたったひとり。ヴァン・スヴィーテンだけ」
  「アカデミー」というのは、定職をもたなかった(八七年に皇室宮廷作曲家に採用されたが、年棒はごくわずかだった)モーツァルトが考案した自作自演公演のことで、大アカデミーはブルク劇場など大ホール、小アカデミーはもう少し規模の小さな会場を借りて申し込み者を募る。大小アカデミーによる収入はモーツァルトの年収の半額以上を叩きだすこともあったのに、『フィガロ』が初演された八六年を境に開催されなくなった。

  『サド・ゴヤ・モーツァルト』は、ウィーンの街を歩くモーツァルトがダ・ポンテに出くわすところで終わっている。
  ヴェネツィアの台本作者は、「国立劇場でわれわれの『結婚』が再演される」という嬉しいニュースを知らせる。皇帝の妹みずからヴェルサイユでボーマルシェの芝居に出演することになり、お上の気持ちもやわらいだという。「もうじき上のほうから別の台本の注文がくるかもしれない・・・」とも耳打ちする。『コシ・ファン・トゥッテ』のことだ。しかし、モーツァルトの命はあと二年しか残されていない。
  三人の芸術家の道ゆきを見ていると、モーツァルトの不利は一目瞭然である。
  サド侯爵が獄中で十五巻ぶんの原稿を書くことができたのも、売れるかどうか心配せずにSM小説が書けたのも、資産があったからだろう。シャラントン出獄後、夫人が別居と財産分割を要求できるほどに。
  ゴヤも、宮廷画家として身分と給料を保証されていた。王侯・貴族のためには肖像画を制作し、「カプリチョス」のように自分が本当に描きたいものはこっそりつくり、酒屋で売らせた。晩年に購入した家の壁には「黒い絵」を描きまくった。
  しかし、フリーランスのモーツァルトは、作品の上演と楽譜の出版、演奏会などで生活費を稼がなければならなかった。
  すぐれたバランス感覚をそなえたモーツァルトのことだから、自分の聴衆を注意深くカテゴライズし、最前衛の作風でも受け入れる音楽通から聴きやすいものしか受けつけない凡庸な宮廷人までさまざまな耳に合わせて作曲する才覚をもっていたが、そもそもクラシック音楽が社会的・文化的エリートの庇護のもとに発展してきたのだから、その拡がりには限界がある。
  自作自演がもっとも売れていた一七八四年の手紙でモーツァルトは申し込み者のリストを父親に送っているが、まるでウィーンの高位の貴族たちの一覧表をみるようだと伝記作者のソロモンは書いている。より低い身分の貴族や高級官僚、著名な文化人のために残されている席はごくわずかしかなく、ましてや民衆などがはいりこめる余地はなかった。
  二百年後に、これほど一般大衆がモーツァルトの音楽を好むようになると、誰が予想しただろう。

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