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執筆&インタビュー

連載「6本指のゴルトベルク」/岩波『図書』 2008年2月号


  第20回 コインの表と裏

 ベートーヴェンは、まったく性格の異なる作品をつづけて書くクセがあった。瞑想的な楽章ではじまり、闘争的な楽章でしめくくる『月光ソナタ』と牧歌的な『田園ソナタ』、悲痛なトーンで書かれた『ヴァイオリン・ソナタ第四番』と晴れやかな『同第五番・春』はいずれも一八〇一年に同時進行していた。
  一八〇四年夏に多幸感に満ちた『ワルトシュタイン』を書き終えると、激情の嵐が吹きまくる『熱情ソナタ』に着手。それが完成するとすぐに内省的で玄人ごのみの『ピアノ協奏曲第四番』を書きはじめている。
  この協奏曲の冒頭でピアノが奏でる連打音のモティーフは、『熱情ソナタ』でも印象的な使われ方をしているし、つづく『交響曲第五番・運命』では、「運命が扉を叩くモティーフ」としてしつこく使い回されることになるものだ。でも、楽譜を見なければ、四番の協奏曲と『熱情』や『運命』が同じ「運命の動機」をもとに組み立てられていると気づく人は少ないにちがない。
  一八〇八年、つまり今から二百年前の六月に『運命』を完成させたベートーヴェンは、ひきつづき『田園』という、これまた対照的な交響曲を仕上げ、十二月二十二日にみずからの指揮で両曲を初演している。ちなみに、アン・デア・ウィーン劇場で開かれたこのコンサート、『ピアノ協奏曲第四番』もベートーヴェン自身のピアノによって初演されている。タイム・マシーンでもあれば、是非聴いてみたいところだ!
  ベートーヴェンが音楽で示したコインの表と裏を文学で試みたのがアンドレ・ジッドの『田園交響楽』( 中村真一郎訳) である。「サンフォニー・パストラル」という仏文のタイトルは、『田園』と、物語の語り手である「牧師(パストゥール)の交響楽」の二重の意味があるという。前者は、ただ光だけの純粋で真っ白な世界。後者は、罪と悪と死の世界。
  ある寒村の牧師が、身寄りのない盲目の少女をひきとって、ジェルトリュードとなづけ、養育する。それまで面倒をみていた叔母は耳が不自由だったため、少女は言葉を話すことなく大きくなったらしい。ただ獣のような異様なうめき声を発するのみなのだ。一時の義務感からひきとったものの、さてどうしたものかと牧師は途方にくれてしまう。
  そこに友人の医師がやってきて、ローラ・ブリッジマンという、視覚だけではなく聴覚にも障害をもつ娘の教育を例にとってノウハウを教えてくれる。
  「まず手始めに、幾つかの触覚や味覚をそれぞれ一つに束ねて置いて、それにレッテルでも貼るような具合に、一つの音、一つの言葉を結びつける。そして君は、それを飽きるほど何度も繰り返して聞かせ、それからその子にも繰り返して言わせるようにするのだ」
  牧師はこの方法を実行に移し、自分でも点字のアルファベットをおぼえ、熱い、冷たい、甘い、苦い、粗い、柔らかいなど、感覚を言葉になおす方法を辛抱強く教えていった。

  このあたりの導入は、かのヘレン・ケラーとサリバン女史の物語を思い起こさせる。実際に、ヘレンの両親はディケンズが『アメリカ見聞録』に書きとめたローラ・ブリッジマンのエピソードを読んでいた。
  娘に何とか教育を受けさせたいと願った両親は、ボストンで聾学校を経営していたグラハム・ベル博士のところにヘレンを連れていく。博士は電話の発明者として知られているが、実は聴覚障害の専門家で、電話の発明も、耳の不自由な人のために人間の声の波形を記録できる装置をつくったことがきっかけだったのだ。ヘレンを診察したベル博士は、やはりボストンのパーキンス盲学校に手紙を書くようにすすめる。ローラ・ブリッジマンが学んだ施設で、盲聾者教育で大きな成果をあげていた。
  こうして、サリバン女史が派遣されてきたのが一八八七年。教育のかいあってヘレンがケンブリッジ大学のラドクリフ校に入学するのが一九〇〇年。最初の自伝が刊行されるのが一九〇三年。いっぽう『田園交響楽』の出版は一九一九年だが、着想は一八九三年に遡るという。その一年前、文章をつづることをおぼえた十二歳のヘレンはイギリスの雑誌に短い自叙伝を発表しているが、それが何かの形でジッドの目にとまったのだろうか?
  ヘレンの自伝は、人間の知覚というものについてじつに多くのことを教えてくれる。視覚と聴覚を奪われた人に残っているのは触覚と嗅覚、味覚、そして第六感だ。家族が外出するときは「よそゆき着」の手ざわりでわかる。来客があると、玄関のドアが閉まる「音」ではなく「気配」でそれとわかる。
  生後一歳七ヶ月で視力と聴力を失ったヘレンには、広い緑の草原や光輝く空、木々や花々の記憶があった。だから恐れずに庭に出ていき、匂いをたよりに咲きはじめのスミレやユリの花を見つける。バラの花を手でつつむと、蜜を吸っていた虫があわてて羽根を動かす振動を掌に感じることができる。
  具体的なものはすぐにむすびついたが、抽象的なものを言語化する作業には手こずった。庭で早咲きのスミレを摘み、サリバン先生のもとに持っていくと先生はよろこんで感謝のキスをし、指文字で「愛しているわ」とつづった。しかしヘレンには「愛」の意味がわからない。太陽を指さし、「これは愛ではないの?」ときいたりする。
  サリバン先生はヘレンに、愛とは太陽を隠す雲のように、手で触れることができないが、愛が注がれるときのやさしさを感じることはできる、愛があるから喜びが湧いてくるのだと説明する。

  三重苦のヘレンに比べて、聴くことができるジェルトリュードはずいぶん恵まれているように思われる。言葉の勉強だって、ずっと早くすすんだことだろう。しかし、生まれつき目が不自由だったために一度も自然を見たことがないジェルトリュードは、いつも炉端にじっとうずくまっていて外に出ていこうとしない。「光」の概念がない彼女にとっては、万物を照らす太陽も単なる「熱源」にすぎない。
  「色彩」の観念もない。牧師は虹を例に出してプリズムの色の名前を教えてやるのだが、ジェルトリュードは色と明るさを混同してしまう。「どの色にもそれぞれ濃淡があり、色と色とは無限に混合し得るものだ」ということがわからないのだ。
  一計を案じた牧師は、近くの町で開かれるコンサートに連れていき、交響曲のさまざまな楽器の音色と色彩をむすびつけて教えた。自然界にも、ホルンやトロンボーンの音色に似た赤とだいだい、ヴァイオリンやチェロに似た黄色と緑、フルート、クラリネット、オーボエを思わせる紫や青がある・・・というふうに。
  先に色彩がインプットされている健常者は、オーケストラの楽器の音色を自然界にたとえて表現するのだが、ジェルトリュードの場合は反対になる。
  そして実際に『田園交響曲』を聴いた彼女は、恍惚として「あなたがたの見ている世界は、本当にあんなに美しいのですか?」ときく。「あの小川のほとりの景色のように」。
  音楽ファンなら、このときジェルトリュードの中に沸き起こったセンセーションを追体験できるだろう。 
  第二楽章「小川のほとりの情景」。清らかな流れを思わせる低弦の動き、フルートが奏でるナイチンゲールのさえずり、オーボエが模した鶉の鳴き声、クラリネットが吹くかっこう。思い浮かべるだけで、脳がアルファー波でいっぱいになるようだ。
  牧師は困惑する。
  「私はすぐには答えられなかった。あのえも言われぬ諧調が、実は世界をあるがままに映し出したものではなくて、もし悪と罪とがなかったらこうもあろうか、こうもあったろうかという世界を描いたものだと、私は思い返したからである」。
  やがて物語は、『田園交響曲』の清らかな諧調から大きく逸れていく。
  もともと整った顔だちに生まれついたジェルトリュードは美しく成長し、牧師の妻はつきっきりで世話する夫を疑惑の目でみるようになる。ここで、ジェルトリュードに残されていた聴覚がかえって悪い方に作用するのだ。
  聴くことができないヘレン・ケラーは、相手の真意を知ることの困難さを語っている。まず第一に、話し相手の口調がわからない。人間の会話ではしばしば、語られる言葉と本当の気持ちはくいちがうもので、「真意」は声のトーンにあらわれるのに。
  しかしジェルトリュードは、牧師と妻のやりとりから状況を察知する。
  「嘘を言うときは顔に現われるものでしょう? わたしには声でわかります」と彼女は言う。いつか牧師の妻が自分のことを少しもかまってくれないと夫を非難したとき、自分は泣いていないと牧師は言ったが、それが真実ではないことは、声ですぐにわかった。実際に泣いたかどうか頬にさわってみるまでもなかった。

  町で『田園交響楽』を聴いてから三週間後、ローザンヌで神学を学んでいる長男のジャックが夏休みで戻ってくる。ここで、牧師−妻−ジェルトリュードの三角関係に新たな三角関係が加わる。村の礼拝堂でオルガンのけいこをするジェルトリュードの手助けをするうち恋に落ちるジャック。それを拒否しないジェルトリュード。
  激しい嫉妬にかられた牧師は、息子を遠ざける。
  困惑したジェルトリュードは、「この世の中が、あなたのおっしゃるほど美しいものではないような気がして来ましたの」とつぶやく。やがて彼女は目の手術を受け、現実に直面させられるのだ。視力を得たジェルトリュードは、牧師の顔に偽善を、妻の顔に苦悩を見いだす。そして、息子の顔が、自分が思い描いていた牧師の顔だちにそっくりなのを知った彼女は、絶望して入水自殺をはかる。
  前回ご紹介したトルストイ『クロイツェル・ソナタ』は、音楽じたいが人を破滅に陥れるような魔力を秘めていた。しかし『田園交響楽』にはそれがない。ジッドの恐ろしさは、聴く人の頭を幸福感でいっぱいにする音楽と、読む者の真心に訴えかける福祉的な美談をからませながら、それをぐるりとひっくり返してみせた点にある。
  日記のある一節でジッドは、音楽の転調の不思議について語っている。『田園』の第一楽章はのどかなヘ長調(Fメジャー)で書かれている。ジッドはその中で瞑想し、のんびりくつろいでいる。すると、魔法の杖をひとふりしたように第七音(セブンス)のホ音が変ホ音に変わり、よりいっそう敬虔な気持ちにさせてくれる第二楽章「小川のほとりの情景」の変ロ長調に導く。
  小説『田園交響楽』でジッドはこれと反対のことをやってみせたのだ。長調(メジャー)と短調(マイナー)を隔てるのは、実はたったひとつの音の違いでしかない。同じヘを基音にしていても、第三音をイではなく変イ音に変えればヘ短調になってしまう。そう、悲劇的な『熱情ソナタ』の調性だ。キーを五度上のハ音に移せば光輝く『ワルトシュタイン』のハ長調になるし、それをマイナーにすれば『運命交響曲』のハ短調になる。
  ジッドは文学上の転位を、きっと音楽から学んだにちがいない。

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