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第7回 小川典子さん
小川典子さんは、2008年に演奏活動20周年を迎える。でも、まてよ、と私は思った。小川さんは1983年、第二回日本国際コンクールで2位に入賞しているはずだ。どうしてその年をデビューとしないのだろう?
お話を伺って謎が解けた。1987年9月、小川さんはリーズ国際コンクールで3位に入賞している。それをきっかけにマネージャーがつき、翌年、つまり今から20年前の4月に、ロンドンのウィグモアホールでシューマン、ドビュッシー、武満徹、プロコフィエフというプログラムでリサイタルを開いた。以降、日欧をまたにかけた活動がはじまる。
小川さんにとってのデビューとは、国際舞台でのプロフェッショナルな活動開始という意味だったのだ。
演奏回数は20年間ほぼ一定していて、年間70〜80回。主な拠点は、八時間も時差があるロンドンと東京。1年のうち1月ぶんは飛行機の中にいるのではないかと思うほどだ。
昨夏のスケジュールをきいて、目をまわした。スウェーデンのレコード会社BISでドビュッシー『12の練習曲』ほかを録音したあとすぐ日本に帰り、長野や愛媛でリサイタル。アドヴァイザーをつとめるミューザ川崎でジャズ・ピアニストの佐山雅弘と共演したあと、再びイギリスに飛び、マンチェスターの夏季講習の講師をつとめ、友人のピアニストとデュオのコンサートに出演した翌日に帰国。すぐ軽井沢に行き、八月音楽祭のリハーサルに参加。リストの『ソナタ』を弾いたあと、参加ピアニストによるアンコールを半分で退出して東京に帰り、翌日渡欧。今度はフィンランド音楽祭でラヴェル『ピアノ協奏曲ト長調』を演奏・・・と、綱渡り的な移動がつづく。
スケジュールというのは塊ではいってくるわけではなく、ばらばらにくる。それを入れているうちに、気がつくととんでもなく過密になっているのだ、と小川さんは笑う。結果として、年末年始も誕生日も祭日も、切れ目なく仕事をすることになる。
ピアノを習っている人にとってピアニストはあこがれの対象だが、実際はこれほど過酷な職業はない。ピアニストは孤独だ、とよく言われる。たった一人で飛行機に乗り、ホテルとホールを往復したあと、また次の公演地に向う。それに耐えられず、せっかく主要国際コンクールで上位入賞を果たしても日本に帰ってきてしまうピアニストが多い。
しかし、小川さんはまったく寂しくないという。もともと一人でいることが苦にならない性格だが、もう少し一人にしておいてほしいと思うほど、どの土地に行ってもたくさんの友達ができてしまう。コンサート関係者や裏方さん、チケットを売ってくれた一般の方たち。限られた時間内での出会いだから、みんな小川さんとふれあいたくて、遊びのスケジュールを入れてくる。鬼のように練習時間を確保しなければならないほどに。
体力的にも強靭だ。胃腸は丈夫で、世界各国のどんな料理でもおいしくいただける。手も丈夫で、これまで腱鞘炎になったことがない。専属契約をむすぶBISのスタッフは、小川さんがむずかしい曲の収録を何回くり返してもまったく音が痩せないと感嘆する。
リーズコンクールを受ける前に師事したキャプラン先生は、初めて典子さんに会ったときの印象を次のように語っている。
「テクニック、性格、体力とも、まさにピアニスト向きでした。この人はピアニストで生きていく人だと思いました」
もちろん、現在の小川典子さんは技術や体力だけではなく、ドビュッシーや武満徹作品でみられる繊細な音色の変化、リストのソナタでみせるがっしりした構成力など知的なアプローチでも、ロシア音楽でみせる雄大な音楽性でも抜きんでた存在だ。しかし、二十五歳でキャプラン先生に出会うまで、なかなか波瀾万丈のピアノ人生を送ってきたのだ。
ピアノをはじめたきっかけは、ちょっとアルゲリッチに似ている。お母さまがピアノの先生だったので、2歳のころからピアノの下にもぐりこみ、じっとレッスンを聴いていた。小さいころは自分のことを「ボク」と呼んでいて、「ボクも弾く、ボクも弾く」とせがむ。夕食どきにこの「ボクも弾く」がはじまると家族はがっかりする。昔の丸い椅子で、幼い典子さんは支えていないと落ちてしまうため、食事をすることができない。そして、ピアノに向うと、典子さんはいつまででも弾きつづける。
典子さんは、まだ正式に習う前にお母さまの発表会に出てバイエル88番を弾いた。これが「ボク」の非公式の演奏デビューだ。
4歳半から6歳までは黒田文子先生に手ほどきを受け、小学校1年生で桐朋学園子供のための音楽教室にはいり、末光勝世先生に師事した。
3年生のときに末光先生が亡くなると、先生の先生で、ときどき見ていただいていた井口愛子先生に師事する。厳しい指導でめきめきと腕をあげ、小学校6年生のとき学生音楽コンクールで優勝したが、愛子先生もまた体調をくずし、中学時代はお弟子さんの弘中孝先生が見てくださることになった。
弘中先生にはいちばん大切な脱力や色彩感の出し方を教えていただいたが、とにかく演奏旅行でとびまわっていてなかなかレッスンがない。東京音大の附属音楽教室から附属高校にすすみ、1年生のときに学生コンクールの高校部門でリスト『カンパネラ』を弾き、再び優勝するものの、愛子先生はご病気がち、弘中先生は演奏活動で多忙。
日本にいても仕方がないと、高校卒業後、ジュリアード音楽院に留学するが、師事した先生が2回レッスンを受けたところでまた病気になってしまう。
自分はどうしてこう先生運がないのだろう、継続してある一定したメトードで指導を受ける幸せに恵まれないのだろうと悩んだ時期だった。指導教官が病気ならほかの先生に変わればいいようなものだが、当時のジュリアードは人間関係がむずかしく、なかなかうまくいかなかったという。
18歳から24歳、つまり、日本の大学から大学院にあたる時期、小川さんはほとんど独学で勉強をつづけながら、ニューヨークでコンサートに通いつめる。著名なピアニストやベルリン・フィルをはじめとするオーケストラ演奏会、主要なオペラを総ざらいし、キース・ジャレットなどきら星のようなスターがそろうジャズクラブにも足を運んだ。
こうした豊富な聴体験が小川さんの活動を支えていることは言うまでもない。しかし、実践面ではやはり、ある時期まで先生の指導のもとにきちんと勉強する必要がある。
ジュリアード在学中に日本国際コンクールを受けたころの自分を小川さんは、迫力はあるがかなり粗削りな演奏をしていたのではないか、そのぶん、非常に情熱的には弾けたのではないかとふりかえる。そのときの「大型ピアニスト」というイメージが、長い間小川典子さんについてまわった。
日本国際のあと、別のコンクールを受けに行ったところ、日本人審査員の一人から、「あなた、なーんにも教わってないでしょう」と言われ、「あぁ、やっぱりそう聞こえるのか」と愕然としたという。
ニューヨーク在住のピアニスト、田崎悦子さんの紹介でキャプラン先生に出会い、シューマン『幻想曲』のレッスンを受けたとき、小川さんはまだ、ご本人の言によれば「ターザンみたいなピアニスト」だった。
(以下次号)
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