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執筆&インタビュー

連載「6本指のゴルトベルク」/岩波『図書』 2007年12月号


  第18回 カストラート事情(後編)

 カストラートたちの歌声がどんなものだったのか、こんにちの我々には知るよしもない。オペラの役柄でカストラートのために書かれたものはカウンターテナーによって歌われているが、彼らはファルセット(裏声)の原理を拡張して女声のアルトからソプラノに至る広い音域を獲得した歌手たちで、去勢歌手とは根本的に違う。
  なかで、唯一本物のカストラートの歌声を聴くことができるのが、『カストラートの時代』というCDである。ヨッヘン・コワルスキー、ドミニク・ヴィスなど代表的なカウンターテナーの歌手とともに、最後のカストラートといわれるアレッサンドロ・モレスキが歌うロッシーニ『小荘厳ミサ曲』のアリアが収録されている。
  その美声から「ローマの天使」の異名をとったモレスキが手術を受けたのは一八六五年のことである。オペラのカストラートはとっくに引退していたが、一八九八年に撮影された写真をみると、システィナ礼拝堂の聖歌隊には七名ほどの去勢歌手が残っていたらしい。
  四年後、ローマ教皇レオ十三世は聖歌隊のメンバーからカストラートを追放する命令を出したが、残っている男性ソプラノ歌手たちには行き場がない。モレスキはそのままヴァティカンにとどまり、一九一三年に引退した。ストラヴィンスキー『春の祭典』が初演され、二十世紀音楽が誕生した年というのは何とも皮肉だ。
  『カストラートの時代』におさめられているのは一九〇二年の録音である。一八五八年生まれのモレスキはこのとき四十四歳。カストラートの寿命は普通の歌手よりはるかに長く、有名なファリネッリなどは七十七歳でも見事に歌ったというから、そんなに老齢というわけでもない。
  しかし、モレスキの歌は音程も不安定だし、高い声がかなり苦しそうだ(彼が修業をはじめたころはカストラート養成システムそのものが崩壊していたという)。見事にコントロールされたコワルスキーの歌唱のあとではかなり聴き劣りすることは否めないが、発情期の猫のような色っぽさがある。

  私が聴いたのはCDに復刻されたものだが、ナチスの支配下にあった一九四三年ドイツを舞台にした皆川博子の大河小説『死の泉』には、同じ録音をLPレコードで聴
くシーンが出てくる。  『「曲が流れ出した。雑音のあいだを縫う不気味なソプラノに、わたしは鳥肌立った。悲鳴のような声だ。そのくせ、妙になまめかしい」
  このような声がクラウスの慰めになるわけはない。怒られる前にほかの曲にとりかえようと針をあげかけると、「そのままでいい」クラウスは言った。
  「きみは知るまいが、これは、実に貴重な盤なのだ」』
  クラウスというのは、未婚の母が子供を生むためにナチスが建設した施設レーベンスボルンの所長で医師。「わたし」はそこでミヒャエルという赤ん坊を出産したドイツ人女性マルガレーテで、保身のためにクラウスの妻になる。赤ん坊の父親は、反ナチス運動を起こして処刑された白バラ党員を告発した「愛国者」だった。
  レーベンスボルンとは「生命の泉」という意味だが、実際には本のタイトルにあるように「死の泉」だった。生まれた子供が金髪碧眼のアーリア系なら大事に育てられる。あるいは、身分の高い将校の家に養子にもらわれていく。しかし、非アーリア人であることを示す「ドゥンケル」なら、即座に始末される。
  施設にはドイツ化に適合すると認められたポーランド人の子供たちも収容され、クラウスの身の毛もよだつような実験材料に使われていた。音楽好きのクラウスは、エーリヒという幼い男の子のボーイ・ソプラノを愛し、彼に歌唱訓練をほどこす。そして、その声を「永遠に凍結」させるために去勢しようとする。
  「エーリヒの歌は、私に至福を与える。永遠に、この声は保たれるべきだ。束の間の虹であってよいものか」
  先月ご紹介した『マルヴェッツィ館の殺人』の侯爵と同じように、クラウスもまた「音楽狂(メロマニア)」だ。彼は音楽を愛しているのではなく、美しい音楽や声によって陶然とする自分を愛しているだけだ。
  クラウスはまた、マルガレーテの息子ミヒャエルも同じ運命に陥れようとする。不思議なことにミヒャエルはそれを少しも嫌がっていない。
  「ぼくはむしろ処置を心待ちにしているんです」と彼は再会した父親に言う。「すべてを失うのだぞ」とさとされると、「そのかわり、一つのものを、持ちつづけるのですから」と答える。
  「声を失ったら、ぼくに何があるでしょうか」
  やはりカストラートを主人公にした小説『ポルポリーノ』の著者ドミニック・フェルナンデスは、彼らはすべてを失うのではなくすべてを手に入れるのだと主張する。
  有名な男性ソプラノ歌手ポルポーラにあやかって「ポルポリーノ」という芸名をつけられたカストラート予備軍の少年は、自分の声に誇りを持てず、「男の子でもないし娘でもない」自分の身分を恥ずかしく思っている(演奏と文筆の二刀流の私も、ときどき同じ思いを味わうことがある)。しかし、音楽院の同級生フェリチアーノはそんな彼の悩みを笑いとばす。
  「一体誰が、ぼくたちのように二重の生活を、二重の可能性を持ってるんだ? (中略)男でも女でもないっていうのは、いい換えれば同時に両方でもあるってことなんだ。素晴らしいことじゃないか?」
  一八世紀後半のナポリを舞台にした『ポルポリーノ』は少年モーツァルトや希代の色事師カザノヴァも実名で登場する小説で、フェリチアーノは、彼のことを仮装した美女だと思いこんだカザノヴァからくどかれ、そのことを大いに自慢している。
  サロンに招待されると、男性も女性もすべての目が彼に注がれ、男たちや女たちが彼のために胸ときめかせるのを感じる。
  「彼らはみな君の足下に平伏し、君のもとで、君は彼らを思うがままにし、男にせよ女にせよ君が自分のとは異なった性を好んでいると、そう思い込んでいるんだが、君の方は、彼らの主人でいるためにはそのどちらにも好みを寄せずにいるんだ(中略)君は何にでもなれるんだ。なにしろ君はなんでもないんだから!」
  この逆転の発想をごきげんな小説に仕立てたのが高樹のぶ子『ナポリ 魔の風』だ。

  ピアノ教師の草間恵美子は、旅行会社につとめる安倍渡という恋人をもち、年に二〜三回はナポリにオペラ見物に来るという優雅な身分。ナポリ貴族に見初められて海を渡った往年の名ピアニスト、ミチコ・カラファの家で、従姉妹の息子だという混血の舞台美術家に紹介される。ドニ鈴木と名乗るその青年はオーデコロンの香りをまとい、両性具有的な魅力をふりまいている。ちなみに、カラファという名は『ポルポリーノ』でもカストラート好きの伯爵として登場するから、高樹作品を一種の後日談として読むことも可能だ。
  恵美子は、ミチコにすすめられるままにドニとサン・カルロ劇場に行き、モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』を観る。ネローネこと皇帝ネロも、武将のオットーネも妙に高い声で歌うことを不思議に思った恵美子が質問すると、ドニはこう答える。オリジナルの楽譜では、ネローネは男性ソプラノ、オットーネは男声アルトが歌うことになっいる。つまり、この役はもともとカストラートのために書かれたものなのだ。
  劇場を出てカフェに行き、ドニと白ワインで乾杯した恵美子は、ドニから奇妙なことを尋ねられる。あなたの恋人の腕には花びらのような傷跡がないでしょうか? 彼に会ったことがあるの? いいえ、一度も。じゃぁ、どうしてそんなことをきくんですか? 見えたんです。気味が悪くなって帰ろうとする恵美子をおしとどめたドニは、あろうことか、自分は二百五十年前のカストラートの生まれ変わりだと告白するのである。
  日本に帰る飛行機の中で、恵美子は、ドニ鈴木が書いたという手記『あるカストラートの告白』を読む。ドニの前身はドメニコ・ファーゴという歌手で、オペラ歌手の母親によって修道院に送り込まれ、カストラート修業中に領主のライモンドの寵愛を受ける。そのライモンドは、情をかわしたあとに左腕に花びらのような痣が浮き上がる。自分がドメニコの生まれ変わりだと信じているドニは、どうしたわけかそのライモンドの面影を−−まだ会ったこともない−−恵美子の恋人安倍渡に求めているのだ。
  やがてドニ鈴木は演出の仕事のために来日し、恵美子と渡の間に奇妙なトライアングルが生じる。トライアングルといっても普通とは違う形の。つまり、一人の女性を二人の男性がとりあうのではなく、渡をめぐって恵美子とドニがはりあうという。
  ここで美恵子の立場は二重にこっけいだ。ドニは絶世の美青年で、すでに初対面で握手したときから、彼女はどうしようもなく彼に惹かれてしまう。
  「その手は骨が無いかと思うほどやわらかくふうわりしていた。美しい顔立ちで、細くしなやかな首が植物の茎を想わせ、私は慌てて目を伏せた」
  しかし、恵美子が自分のものだと思っている渡も、ドニにぐんぐん惹かれていく。
  「ドニ鈴木と安倍渡の視線が、一瞬絡んだ。そして離れた。視線を外したのはドニ鈴木の方だと思えた。安倍渡の横顔が、赤らんだ気がする。西陽のせいだろうか」
  男二人がいると、自分が除け者にされるのを恵美子は感じる。ナポリでドニと関係ができたと告白してみるが、渡は少しも嫉妬せずに、「わかるよ」と言う。恵美子の女性としての魅力は、渡に対してもドニに対しても無力なのだ。女性としての恵美子は、渡にもドニにも魅力を感じているのに。結局、ドニは最後まで安倍渡のことを二百五十年前の恋人の生まれ変わりだと信じて疑わず、渡もその気持ちに応え、二人は姿を消す。
  あとには、怒りのもっていき場のない女が残される。これまでさんざん女性にふりまわされてきた男性たちは喝采を叫ぶかもしれない。ざまーみろ。でも、女性にとってはイタすぎるラストだ。自分が愛する男に、自分の所有物を奪われる。こんな屈辱ってあるだろうか。そのぐらいなら、フツーに若い女にでも取られるほうがよっぽどましだと、誰しもそう思うにちがいない。

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