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執筆&インタビュー

新連載「我が偏愛のピアニスト」/「ムジカノーヴァ」 2007年11月号


 第5回 廻由美子さん

  廻由美子さんは、ちょっとグレン・グールドに似ている。
  グールドのデビュー盤となったバッハ『ゴルトベルク変奏曲』は、どうしてもこれで録音したいという彼の主張にレコード会社が折れた形になったが、廻さんが1993年に初リリースしたCDも、コープランドとガーシュウィンという斬新な曲目。
「変なもの入れて・・・」と関係者をびっくりさせたが、これが見事に当たって、『CDジャーナル』誌の年間ベストCDに選ばれた。
  以降リリースされた16枚のCDは、ルネッサンスから近代・現代までエキサイティングなプログラムと演奏で、そのたびに話題を呼んできた。
  でも、最近はステージであまり廻さんの演奏を聴くことができない。ふつうはアルバムを出すと各地でコンサートを開くものだが、廻さんは「ひとつ出すともう次のことをやりたくなってしまう」と言う。レコーディングしたプログラムは自分の中では完結したもので、さらにくり返すことが苦痛になる。セルフ・コピーは避けたいし、いつも新鮮な気持ちで弾いていたい・・・。このあたりも、グールドの考え方に共通するところがある。
  2007年5月27日、東京文化会館で八年ぶりのリサイタルが開かれたので聴きに行った。「音の迷宮」と題されたプログラムで、「黄道12宮による12のファンタジー」という副題をもつジョージ・クラムの『マクロコスモス第2集』から2曲、バルトークの『ミクロコスモス第6集』、バッハ「トッカータハ短調」、ヒナステラ「ダンス・アルゼンティーノ」と弾きつづり、最後にまたクラムの『マクロコスモス』
2曲でしめくくる。
  不思議な時間だった。夜空に光る星座のようなイメージの衣装でステージにあらわれた廻さん。お気に入りのピアノ、ベーゼンドルファーのインペリアルの前に座ると、奇術師のように、ふっと空中から音をとりだす。その音たちがダイナミックな身体の動きにつれてさまざまに姿を変えて文化会館の空間をとびまわる・・・。そんなイメージなのだ。
  クラム作品では楽譜の指定によって内部奏法がある。弦の上の一定の音域に紙をのせて鳥のはばたきのような音を出したり、下のほうの鍵盤を肘まで使っておさえ、ミドルペダルで倍音をひびかせたり。
  1960〜70年代には最先端だったこの技法も、今は古典的とすら言える。でも、聴衆にはなじみがなかったらしく、といっても拒絶反応ではなく、興味しんしんで思わぬ聴体験を楽しんでいた。
  自分は予定調和がきらいなのだ、と廻さんは言う。お客さまあってのコンサートだが、最初から好みにあわせるようなことはしたくない。本当はお客さまだって新鮮な驚きを求めているのだと思う。お互いに未知のものをさぐりあいながらすすんで行くことがエネルギーになり、相乗効果でよい空間が生まれる。コンサートとはそういうものでありたい。
  5月27日のリサイタルはまさにそんなステージだった。10月25日にはライヴ録音がリリースされるという。

  廻さんが音楽に出会ったのは幼稚園のときである。音楽がさかんな幼稚園でリトミックの授業もあり、先生がピアノの手ほどきをしてくれた。ご近所の方が桐朋学園子供のための音楽教室の存在を知らせてくれた。
  廻さんは、ソルフェージュが得意な子供だった。どんどんむずかしいことが出てくるのでゲームみたいでおもしろかったらしい。週に一度のピアノレッスンはちょっとこわかったけれど、教室が楽しかったのですんなりと附属高校にすすんだ。
  高校から師事した先生は富本陶先生。初代人間国宝の陶芸家・富本憲吉のお嬢さんである。ミスタッチや楽譜の間違いにきびしいというよりは、もっと上の意味できびしい先生だった。美意識のかたまりで、本当にその生徒がやりたい表現で弾いているかどうかすぐに見抜かれる。いくら練習しようが、歌っているつもり、何々しているつもり・・・は認められない。温かい人柄で大好きだったのだが、そういう面ではとてもこわかったと廻さんは回想する。
  廻さんの高校・大学時代は桐朋の黄金時代である。ひとつ上は指揮者の高関健さん、下にはヴァイオリンの堀米ゆず子さんや加藤知子さん。ソルフェージュ能力が抜群の廻さんは、大学にはいっからも伴奏をたくさん引き受け、オーケストラに参加したり、指揮の伴奏をしたり大活躍だった。
  他方、切磋琢磨するとか、ひとつことを練り上げるという方向にはなかなかいかなかったが、大学2年で転機がおとずれる。
  フルートの伴奏で都市センターホールで演奏しているとき、音楽が「降りてくる」瞬間があった。廻さんは、今でもどの部分か今でもはっきり覚えている。バルトークの作品を初めて弾いたときも、自分の内部が反応し、強く突き動かされるような経験をした。自分はぜったいにずっと音楽をやっていきたいと思ったという。
  そんなとき、インディアナ大学で教えているハンガリーのピアニスト、ジェルギー・シェボックが桐朋で公開レッスンを開き、廻さんも受講した。まだピアノを弾くということに物理的に苦しんでいた時期だったが、シェボックのひとことで目からウロコが落ちた。
  「ピアノを弾くって思わなきゃいいんじゃないかって言われて、あっ、そうかと、ぱっとそう思うわけ。ぱっと楽になったりとか。そのひとことで。ああ、私はこの人についていきたいと思った」
  そこで、卒業後はインディアナに留学する。二人の姉がフランス文学専攻だったこともあって本に囲まれて育った廻さん、フランスのフィルム・ノワールなどもよく見ていたからアメリカには興味がなかったのだが、大学生活はとても楽しかったと語る。
  インディアナは学園都市で、映画に出てきそうな町だったので、「学園ドラマをやる自分」というのを大いにエンジョイした。ライブラリーも充実していて、日本文学がたくさんあり、活字に飢えていたのでせっせと読んだ。
  もちろん、「シェベックに魔法をかけられた」ピアノはしっかり勉強した。アーティスト・ディプロマコースに籍を置き、81年から83の間にリサイタルを六回おこない、すべて最高の成績を得て卒業したあと、同大学で1年間助手をつとめた。
  そのままアメリカに残るという選択肢もあったわけだが、廻さんは迷わず帰国を選ぶ。つねづね、学生という身分はあまり長くつづけるものではないと思っていたからだ。
  「受け身の勉強は終わって、今までの勉強を還元したほうがもっと勉強できる時期がきたんじゃないかと思って。アメリカに残らなかったのは、自分の中に音楽がどんどん響いてくるのが感じられてきたので、日本に帰ってもやっていけるという確信をもてたから」 これが1984年。以降、廻さんの誰にも真似できない活動がはじまる。(以下次号)

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