トップページ| プロフィール | 今年の活動 | 新刊新譜コンサートCD書籍書評、CD評 |
執筆&インタビュー日記 | E-メール

執筆&インタビュー

新連載「我が偏愛のピアニスト」/「ムジカノーヴァ」 2007年10月号


  第4回 海老彰子さん(後編)

  海老彰子さんのデビュー・リサイタルは一九七四年、ショパン協会の例会としておこなわれた。いざイイノ・ホールのステージに出てみると、満員のお客さまが自分だけの演奏を聴くために集まってくださっている、そのことにびっくりし、緊張したと海老さんは回想している。しかし、アンコールでは開放され、自由になった。
  このときのスリリングなアンコールは、今も耳に残っている。とりわけ最後に弾かれたラフマニノフの前奏曲は圧巻で、客席は大いに沸いた。
  デビュー後、海老さんはフランス政府の給費を得てパリ音楽院に留学する。本当はDAADの奨学金をとってドイツに行きたかったのだが、大学卒業まで待たなければならない。ドイツはいずれ行くのだからと先にフランスにしたら、「そのまま居すわってしまった」と海老さんは笑う。もともとモーパッサンやロマン・ロランなどフランス文学が好きで、中学生のころから読み漁っていた、そんな影響もあるという。
  指導教官でもハプニングがあった。私がのちにマルセイユで師事したピエール・バルビゼがパリ音楽院の教授に就任したばかりで、内諾を得ていたのだが、バルビゼはたった一年で辞任してしまった。結局、ピアノ科教授の中で唯一演奏を聴いていたアルド・チッコリーニのクラスに入学を許可され、二度の入試をパスして留学生活がはじまった。
  パリ音楽院は秋が新学期で、翌年の六月に終了する。その一年めの終わり、一九七五年度のロン=ティボー・コンクールに参加した海老さんは、第二位大賞と四つの特別賞を受けることになる。審査員団には芸大時代の恩師松浦豊明先生もいらした。
  翌年の秋には、モンテカルロオペラ劇場でモーツァルトとラフマニノフの協奏曲でヨーロッパ・デビューを飾る。学生生活と平行して演奏活動がはじまり、ほとんど寮と音楽院を往復するだけで三年間をすごした海老さんは、七七年に見事首席で卒業したものの、その直後から不眠症に悩まされるようになる。
  「EPIC WORLD」のエッセイで海老さんは「ピアノを弾くと、神経が昂り、また不眠症に陥るので、鍵盤には全く触れずに暮らさざるを得なかった」と書いている。

  もともと海老さんは、楽器一辺倒ではなかった人だ。勉強もするが余暇も楽しみ、動物と遊び、本も読み、絵画や映画も鑑賞したりしてゆとりをもってすごすのが性に合っている。しかし、欧米に追いつけ、追い越せと意気軒昂だった当時のピアノ界に刺激され、期待の星としてまっしぐらに突き進んできた。心身ともに無理がきたのだろう。
  ここで「焦らず、自分のリズムを作って、我が道を行く」という哲学を学んだ海老さんは、パリに戻り、音楽院の研究科コースを受験する。入学試験は公開されていて、私も聴きに行った。ベートーヴェンの作品一一一はスケールの大きな、堂々たる演奏だった。
  研究科コースは国際コンクールを受けることを義務づけられているので、海老さんは一九八〇年のショパン・コンクールに参加する。アルゲリッチが審査員をつとめ、ポゴレリチが第三次予選で落ちたことに腹を立てて途中で帰ってしまったコンクールだ。
  本選の六人に残り、協奏曲を演奏するためにピアノの前に座ったとたん、客席が騒然となった。ポゴレリチが「ガムをくちゃくちゃ噛みながら」客席にあらわれ、擁護派と排斥派の間で激しい争いが起きたのだ。この騒ぎで海老さんの集中力はさまたげられ、第三楽章の途中で少しアクシデントが起き、応援していた客席が「ふぉー」とため息をついた。結果は四位が空席、五位をポーランドのポブウォッカとわけあうことになる。
  「でも、私は変わらない」と海老さんは言う。学生時代は、コンスタントに弾くのはそうむずかしいことではない。しかし、レヴェルアップすればするほど要求するものが多くなる。楽器のコントロールやフレージングにも気を配るようになり、以前のようにただ弾くだけではなくなる。それだけに、ほんのささいなことでバランスがくずれてしまうこともある。そんな瞬間だけを判断せざるをえないコンクールのあり方に疑問を感じる。
  海老さんの若い演奏家たちに注ぐ温かいまなざしはこうした経験に裏打ちされたものだ。さまざまな国際コンクールの審査をつとめているが、そのたびに審査員という立場にとまどいをおぼえるという。その人がこれからどうのびるか、芸術家としてどう成長していくかが大切なのに、その時点の演奏で順位をつけなければならない。それでも、世界のピアノ界の進捗状況、日本人の立ち位置を知るためには貴重な経験になる。

  演奏を聴いても話を伺っても、私がいつも感じるのは、海老さんの包容力の大きさだ。
「フォル・ジュルネ」のディレクター、ルネ・マルタンは、クラシックが全世界的に地盤沈下を起こしていることを憂いて、何とかそれをくいとめる方法はないかとさまざまな工夫を重ねてきた。膨大な音資料を聴き、ネットワークを駆使して埋もれた才能に演奏の場を提供する。独裁者だから批判もあるが、エネルギーには感服する、と海老さんは言う。
  地盤沈下は海老さんも肌で感じている。パリでもニューヨークでも、主要ホールに出演するアーティストは同じような顔ぶれだ。自分の周囲にいる優秀な弾き手や若い才能は、懸命に活動はつづけているものの、なかなか表舞台に出ていかれない。その傾向は、自主コンサートやCDの自主制作の上に成り立っている日本のピアノ界ではさらに強い。
  「アーティストひとりひとりはそれぞれ努力しているんだけど、自分たちだけの運動で終わってしまいがちだ。私たちも、フォル・ジュルネのよい面を参考に、皆で力を合わせて大きな流れにしていかなければ・・・」と力説する。
  海老さんの活動は多忙だ。六月にはルガノ音楽祭に出演し、三日後にはソルトレークシティでリサイタル、十日後にはフランスで音楽祭があり、七月にはパリでリサイタル、トレドでリサイタルとマスタークラス、ニューヨークでもリサイタルが予定されている。
  「フォル・ジュルネ」直前にはハバロフスクでブラームスの二番を弾いた。この協奏曲、彼女が一九九二年から「是非弾きたい」と言っていたものだが、オーケストラとの共演は今回がはじめてだという。「私、のろいねー」と、海老さんはほがらかに笑う。
  ひとつひとつの作品に時間をかけ、じっくりと譜面を読み込んで解釈をさだめ、楽器と問答を重ねて音色を研究していく。現代では流行らないかもしれないが、だからこそ逆に新しい。
  いろいろなことがあるのが演奏人生だが「それぞれ花が咲く時期があるし、人が見ていなくても咲いている花もある」という言葉にははかりしれない重みがある。

執筆 & インタビュー一覧へ

トップページ| プロフィール | 今年の活動 | 新刊新譜コンサートCD書籍書評、CD評 |
執筆&インタビュー日記 | E-メール

Copyright(c) 2001-2005 WAKE UP CALL
fountain@ondine-i.net