トップページ| プロフィール | 今年の活動 | 新刊新譜コンサートCD書籍書評、CD評 |
執筆&インタビュー日記 | E-メール

執筆&インタビュー

新連載「我が偏愛のピアニスト」/「ムジカノーヴァ」 2007年9月号


  第3回 海老彰子さん(前編)

  海老彰子さんのインタビュー前に、五月二日から六日まで開かれた「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」に足を運び、演奏を聴いた。今年はオール・ラヴェル。『クープランの墓』や『夜のガスパール』など難曲ぞろいのプログラムを早朝から弾かなければならず、演奏する側としてはこれ以上過酷な条件はないはずだが、磨き抜かれた音色とペダリング、テキストや作曲家に対する深い洞察をじゅうぶんに楽しむことができた。
  海老さんは、七四年に渡仏して以来、日欧で半々の活動をしている。演奏の仕事は重なるときは重なる。今日は日本、四〜五日後には欧米・・・とピンポン玉のような往復がつづくと、さすがに疲労もたまる。不思議なことに、帰国するときはさほど感じないが、日本から向こうに行くときは、たまに「何故出ていくんだろう」と思うこともあるという。
  それでも頑固に「はんぶん・はんぶん」の活動形態をくずさないのは、異文化コミュニケーションに興味があるからだという。欧米ではさまざまな人種がまざりあい、国や民族ごとに風俗・習慣も違う。日本人でもその地に行けばそれなりの表現をするし、向こうの人が日本に来てもこちらの習慣に合わせようとする。そこがおもしろくてたまらない。
  「好奇心旺盛なところは、きっとまだ子供のまんまなんですね」と彼女は笑う。

  海老さんと私は三学年違いで、高校は重なっていないが、桐朋の音楽教室のソルフェージュの授業でご一緒したことがある。彰子さんはまだ小学校低学年で、お姉さまでピアニストの裕子さんとともに最前列に座り、先生が何か質問すると二人そろって真っ先に手をあげていたのをよくおぼえている。
  大阪で生まれた海老さんは、元気いっぱいの子供時代を過ごした。ピアニストにはあまり運動神経が発達していない人も多いのだが、海老さんは鉄棒が得意で、前まわりも後ろまわりも百回ぐらい平ちゃらだったというから驚かされる。動物や昆虫が大好きで、トンボやカマキリからヤモリや二十日鼠まで何でも観察し、すっかり友達になってしまった。
  ピアノの勉強の面でも「野性児」だった。お父さまの転勤先の広島で音楽の勉強を始め、小学校一年生のときに東京で小嶋準子先生にしっかり基礎を教えていただいたが、その後さらにお父さまの転勤で二年余り独学だった時期がある。「奔放な魅力はあるけれど、もう少し整理されなければ・・・」と、知り合いの先生がつぶやいていたものだ。でも、今にして思えば、そのとき妙に管理されなかったことがよかったのだ。「EPIC WORLD」という雑誌に寄稿した海老さんのエッセイには、「音楽に合わせて自由気ままにお話を創り出しては、それを楽譜に書きつけ、楽しく悦に入っていた」と書かれている。幼時から音楽の道をめざそうという子供たちは、ともすると音楽一辺倒になってしまい、義務教育も余暇も犠牲にされかねない。しかし、よく遊び、よく学び、「ノーマルに」ピアノの勉強をすることができた海老さんはとても恵まれていた。
  小学校高学年になると、さすがに独学にも限界が見えてくる。そこで師事した先生が、ヨーロッパ帰りの新進ピアニスト、岡村梨影さんである。私もリサイタルを何度も聴いたことがあるが、色彩感豊かで、何ともいえず高貴な香がたちのぼる演奏で、「より強く、より速く」がモットーだった当時のピアノ界では異彩を放っていた。
  その後、岡村先生が再びベルリンに留学されたので、中学からはお姉さまと同じ永井進先生に師事することになった。永井先生は、多くの一流ピアニストを育てたすばらしい教師だったが、レッスンは怖いので有名だった。あるとき海老さんは、「なんで君はそんなにおませなんだ!」と言われてわけもわからず泣いたことがあるという。
  「おませ」って、人間的に? それとも音楽的に? 海老さん自身も永井先生の真意はわからないという。私などはむしろよい意味に受け取るけれど。
  実際に、芸大附属高校に合格したころの海老さんに再会した私は、とても大人びた印象を受けた。私などにとっては芸高受験は大変なハードルで、合格することがひとつの目標だったようなところがあるが、海老さんはそのころすでに将来を見据えていたのだ。

  一九六〇年代は旧ソ連の黄金時代で、若い外来演奏家はほとんどモスクワ音楽院出だった。野島稔さんやヴァイオリンの佐藤陽子さんなど、日本人留学生も受け入れていた。
  海老さんもモスクワ留学を夢見て、中学三年のときは代々木の日ソ学院の夜学に通い、格変化の多い文法に手こずりながらも必死で勉強したという。高校一年の冬には両親のすすめでツアーに参加し、新潟からプロペラ機でハバロフスクに向かうという、現在では考えられない行程を経てモスクワとレニングラード(現・サンクトペテルブルク)を訪れている。モスクワでは佐藤陽子さんとの出会いもあった。しかし、それからしばらくして日ソの関係が悪くなり、渡航が極端に制限されるというニュースがはいってきた。留学は大学生になってからという永井先生のアドヴァイスもあり、まずは芸大に進学する。
  芸大では、病気療養中の永井進先生にかわり、ベルリンから帰国したばかりの松浦豊明先生が指導教官になった。日本人としてはじめてロン=ティボーを制した松浦先生の指導のもと、一年生で毎日(現・日本)音楽コンクールへの参加を認められる。当時は、一般教養科目の取得の妨げになるからコンクール受験は二年生からという不文律があったのだが、海老さんのとびぬけた実力がピアノ教官室をも動かしたのだろう。
  コンクールの本選では日比谷公会堂でシューマンの協奏曲を弾き、見事に優勝を果たす。二〜三年たってからこのときの録音を聴いた海老さんは、「一生懸命弾いてはいるが、とってもとっても・・・」と語る。「若いときっていうのは若いエネルギーがあってそれはとても貴重なんだけど、音楽として練れているかということになるとねぇ。たとえばひとつの音の中にいったいどんな意味があるのかというようなところまでは、なかなか」
  自分のことだから余計きびしくなるのだろうが、客席にいた私はまったく違う感想をもった。当時、協奏曲を弾くチャンスは極端に少なく、海老さんも含めて多くの参加者がオーケストラとの共演は初体験だった。自分のパートを弾くだけで精一杯という演奏が多いなか、海老さんは非常に音楽的にオーケストラと対話をかわし、感心したことをおぼえている。もっとも、ずっと伴奏につきあった裕子さんの功績もあるかもしれないが。
  海老さんは、コンクール受験生の域を越え、はるか先を歩きはじめていたのだ。
(以下次号)
執筆 & インタビュー一覧へ

トップページ| プロフィール | 今年の活動 | 新刊新譜コンサートCD書籍書評、CD評 |
執筆&インタビュー日記 | E-メール

Copyright(c) 2001-2005 WAKE UP CALL
fountain@ondine-i.net