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執筆&インタビュー

連載「6本指のゴルトベルク」/岩波『図書』 2007年8月号


  第14回 現代音楽はお嫌い?

  イタリアの名ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニは一九六〇年のショパン・コンクールの覇者だが、決して一般的な意味でのショパン弾きではなかった。彼自身の興味は、もう少し知的で構築的な、もう少し斬新な音楽のほうにむいていた。ドイツの評論家ヨアヒム・カイザーは、「この青年がショパンを弾くということは、涙にくもる眼ざしを空にむけ、私的な嘆きの歌をうたうことではない」と書いている。
  ポリーニの父親は建築家で、子供には固い職業に着かせたいと思っていたらしい。どうしても音楽家になりたいという息子に、主要な国際コンクールに優勝したら許してやると言った。そこでポリーニはせっせとコンクールを受けたのだが、どれも惜しいところで二位。これが最後のチャンスと思って受けたショパンでやっと優勝することができたのだ。
  普通はすぐに国際デビューを飾るものだが、ポリーニはそれから十年間ぐらい鳴りをひそめていた。まったく活動していなかったわけではない、労働者相手の無料コンサートには出演していた、と彼は言う。そのコンサートを聴いた人によれば、ポリーニはショパンでもベートーヴェンでもなく、シェーンベルクやウェーベルンなどの新ウィーン楽派、さらには二十世紀音楽の騎手ブーレーズの作品など、当時としてはチンプンカンプンな「現代音楽」を主に演奏していたらしい。労働者たちはどんな反応
をみせただろうか?
  一九七一年にグラモフォンから再デビューし、ショパンの『練習曲集』で大ブレイクしたポリーニは、やっと本当に演奏したかったものを弾くことができるようになる。ルイジ・ノーノ『力と光の波のように』、カールハインツ・シュトックハウゼン『ピアノ曲?』など、多くの二十世紀音楽が彼によって初演された。
  ポリーニは、二〇〇二年に東京で「ポリーニ・プロジェクト」という一連のコンサートを企画している。彼がめざしたのは、古典から現代までさまざまな時代の音楽を同じ舞台に並べることだった。モンテヴェルディにはじまり、ショパンやブラームスやドビュッシーにまざって、クセナキスやリゲティ、武満徹などの作品が演奏された。
  ザルツブルク音楽祭で同じことを試みたら、怒った聴衆が出ていってしまったという。でも日本人は従順だ。多少耳慣れない音楽でも、ポリーニが出てきて演奏するとそれだけで喜んでおとなしく聴いている。なかには、積極的に二十世紀音楽の魅力にめざめる人もいる。貴重な役目をポリーニは果たしたわけだ。

  クリスチャン・ガイイ『最後の恋』の主人公、フランスの作曲家ポール・セドラはそんなに運がよくはなかった。
  一九八七年八月十八日、チューリヒの「弦楽四重奏フェスティヴァル」で、セドラの作品が初演された。演奏するのはアレクサンデル・カルテットの面々。冒頭にはハイドンの『弦楽四重奏曲第六番』が置かれ、それからセドラの『弦楽四重奏曲第三番』、休憩をはさんでベートーヴェンの『弦楽四重奏曲第十四番』が演奏される。
  セドラの新曲は、バラエティに富んでいるとは言い難い六つの楽章から成っていた。最初のエレジーはとてもゆっくりで、とても長い。三曲めのインテルメッツォは少し短かったが、のろのろとしてもの悲しい。以下ノクターン、葬送行進曲、フィナーレ。アップテンポな曲がひとつもない。暗く沈んで、何かにとりつかれたようにくりかえしばかり。
  比較的若い層が多かった聴衆の一部は途中でがまんしきれず、騒ぎ出した。もうたくさんだ、辛気くさいのはうんざりだ、ひとつ陽気なやつをやってくれ! 騒ぎはやがて客席全体にひろがり、手を叩き、足を踏みならし、リズムをつけて「ベー・トー・ヴェン!」と合唱する。早く次の演目に移れというわけだ。あまりの騒ぎに自分たちの音が聞こえなくなったカルテットは演奏をやめ、ステージから逃げ出した。
  心配して楽屋を訪れたセドラに、第一ヴァイオリンのアレクサンデルは言う。
  「あなたの四重奏曲は素晴らしい作品です。本物の傑作ですよ。ぼくら、その初演に抜擢されて、とても名誉に思ったし、誇らしかった」
  セドラは、ステージを放棄して帰ろうとするカルテットをおしとどめ、予定通りベートーヴェンを演奏するようにすすめる。そうだ、とヴィオラ奏者は言う。あんな連中にはできるだけ凶暴な調子でフーガを弾いてやればいい。ベートーヴェンだって耐えがたいぐらいモダンな音楽にもなりうるんだってことを思い知らせてやる。
  いやいやだめだよ、とセドラは若い連中をなだめる。ベートーヴェンの十四番はそんなふうに弾いちゃいけない。
  「さっきの出来事を教訓にして演奏すればいい。骨折り損なんてことはないんだ。動揺して、悲しんで、怒って、がっくりきた、その気持ちを演奏に活かすんだよ」
  会場を去るセドラ自身はしかし、どうしようもなく悲しく、がっくりきている。実は、死に至る病に罹っていた。本当は寝ていなければならなかったのだが、やっとの思いで飛行機に乗り、若いカルテットと一週間リハーサルを重ね、初演に臨んだのだ。その作品がとんでもなく陰気だったのもそんな理由からだったが、聴衆はそのことを知らなかった。

  医者から最期は苦しむだろうときかされていたセドラは、ある計画をたてていた。新曲の初演を終えたらフランスに帰り、〈青波荘〉という別荘に行ってたった一人で死を迎えようと。そのために恋女房でピアニストのリュシーも別荘から遠ざけた。
  チューリヒのホテルで一泊し、タクシーで飛行場に行き、死人のようになって飛行機に乗り、タクシーでパリの自宅に戻り、十五分ほど休んだだけで駅まで歩き、息もたえだえで汽車に乗り、海辺の保養地に着くと再びタクシーで別荘に向かう。
  〈青波荘〉にはいったセドラは、すべての窓をあけはなった。
  ここで、野崎歓さんの訳による見事な言葉の交響楽が読者の目に(耳かな?)とびこんでくる。
  「海、つまり大海原の音がいま、聞こえてきている。力強い響きを立てて、ぎらつく光も加わって、その大音響はいよいよ耳をつんざいて聞こえる。いや、大音響でもなければ耳をつんざくわけでもない。満潮時の波の音なのだ。風であおられた高い波。それが崩れようとする。まるごと落ちてくる。海のかたまりがどさりと。あえなく砂浜に打ち寄せる。異常なことなど何もない。ポールの感覚が異様に敏感になっているだけなのだ。とりわけ聴覚と視覚が」
  海の交響楽のただなかで、セドラは最後の恋をする。脱ぎ捨てたローブを黄土色の砂の上に置いて沖まで泳いでいった婦人。めったにお目にかかれない明るいグレーのそのローブは、リュシーがタムセン&グリーグの店で買ったものとそっくり同じだった。だからセドラは、それがリュシーの忘れ物だと思い込んで別荘にもってきてしまったのだ。
  婦人は濡れた身体のまま〈青波荘〉にはいってきて、ローブを返して下さいと頼む。
  水着を着た、長身の女性。変わりゆく空を背景に窓枠のなかに収まったその姿。
  「お名前を教えてください」とセドラは言う。
  海水浴の女性は「デボラ・ナルディスと言います」と答える。
  デボラ・ナルディス? どこかできいた名前だ。ナルディスは『ある夜、クラブで』の主人公シモン・ナルディス。そしてデボラことデビーは、海辺の保養地のナイトクラブ「グリーン・ドルフィン」のオーナーである。ジャズで意気投合した二人は、シモンの夫人が交通事故で死去したこともあって結婚し、出会った場所で所帯をかまえていたのだ。 

  デビーにローブを返したあと、セドラはテラスまで行ってもう一度浜辺を眺める。それだけでは足りなくて黄昏どきの砂浜に出ていく。夫がいようがいまいが、あの人はわたしのものだ、とつぶやきながら。もうデビーの姿は見えなかったが、若いカップルがいた。
  愛しあう二人の若者たちを見ているうちに、セドラは突然、どうして自分の弦楽四重奏曲がチューリヒで受けなかったかがわかった。
  「聴衆にとってわたしの音楽が我慢ならなかったのは、それが彼らについては何も語らず、ただその曲自体についてしか語らないものだったからなんだ。実際のところ、わたし自身についてさえ語らず、語るのはひたすら曲自体についてのみ。愛についても美についても、美を愛する心についても語らない。そんな音楽なんだ」
  シンボリックな表現だが、直感にすっとはいってくる。ガイイ自身の表現を借りるなら「音楽理論が爆発的な進展を遂げた」結果、二十世紀音楽は、少なくとも「涙にくもる眼ざしを空にむけ、私的な嘆きの歌をうたう」ようなものではなくなっていた。だからといってよい作品ではないとか、美ではないとか言うつもりはないが。
  とてつもなく陰鬱なセドラの作品は、作曲当時の彼の心情をよく反映はしていたのだろう。しかし、死の間際になっても生の喜びがあり、愛があり、かぎられた時間であるがゆえによけい激しく燃え上がる恋があることを、そして、音楽というものが、その一瞬の恋にとてもよく似ていることを、そのときの彼は知らなかった。
  翌日、セドラの様子を見にきたデビーは、乞われるままに彼をオープンカーで連れ出す。そして、彼女がシモン・ナルディスと暮らしている別荘に行く。シモンは、ポール・セドラの名とチューリヒ音楽祭での騒ぎを新聞で読んで知っていた。
  「とうとう、ノーと言える聴衆が出現したのだ」と記者は書いていた。「醜いものを拒む聴衆が」。何が美で何が醜かについての説明は、いっさいないままで。
  クロワッサンを食べようとして気を失ってしまったセドラを、夫妻は〈青波荘〉まで送っていく。長椅子に横たわったセドラは、デビーに子守唄を歌ってほしいと頼む。シモンはピアノにむかい、ゆったりしたワルツのリズムでイントロを弾きはじめた。
  かつてシモンにジャズを思い出させた海辺の町で、デビーはセドラへの鎮魂歌を歌う。それはモーツァルトの『レクィエム』ではなく、セドラの作品でもなく、彼女が大好きな「バイ・バイ・ブラックバード」だった。

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