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執筆&インタビュー

連載「6本指のゴルトベルク」/岩波『図書』 2007年5月号


  第11回 耳の不思議

  何年か前、朝日新聞の書評委員をしていたことがある。三年間の任期中は、私が音楽人ではない人々の間に身を置く数少ない機会となった。
  委員会が終わったあと、社内のレストランで懇親会が開かれる。書評委員のメンバーや担当記者さんがワインやビール、ウィスキーなどを飲みながら四方山話をする。
  フランス料理のレストランらしく、BGMにはいつもクラシックが流れていた。
  このBGMが、私にとってはBGMたりえないのである。嫌でも耳にはいってきてしまう。とりわけ、専門に研究しているドビュッシーのピアノ曲だったりすると、意識にまとわりつき、われ知らず演奏者名を推理してしまったりする。ときにその名前を口にする。
  耳聰くききつけた記者さんが、えっ、どうしてわかるんですか? と不思議そうに尋ねる。
  クラシックの音楽家などという人種は特殊能力を備えたナントカ星人みたいなものだ。パトカーのサイレンも救急車のピーポーいう音も、きちんと楽譜に並ぶ音符として聞こえる。お母さんが子供を叱るどなり声もメロディのように聞こえる。
  一度、失敗してしまった。書評委員にはカラオケの好きな方が多く、会がはねたあと店にくりだす相談をしている。皆さん、歌は好きなのに楽譜は読めないらしく(小・中学校の音楽教育は何をやってるんだ!)、持ち曲はテープをまわしてくりかえし聴いておぼえてしまうという。歌謡曲やポップスは大好き(ついでに演歌も・・・)だが、目の前に楽譜がないと何も歌えない私などは足手まとい以外の何物でもない。
  ひそかにそんなことを考えていたら、「ねぇ、青柳さんも行きましょうよ」とどなたかが誘って下さり、思わずこんな言葉が口をついて出た。
  いいですけど、私、ちょっとでも音程が狂うと気になって仕方ないですから・・・。
委員一同、大いにずっこけたことは言うまでもない。

  小川洋子『余白の愛』(中公文庫)は、突発性難聴を患う女性が主人公である。よすぎる耳をもつ私と耳に障害をもつ女性とでは正反対のように思われるかもしれないが、騒音に過敏なこと、普通の人には聞こえないものが聞こえてしまうことなど、共通するところもあるような気がした。
  女性は、耳鳴りの症状を次のように語る。
  「それは最初、遠くの方から思慮深く漂い始め、耳の管を伝って近づき、最後にはすっぽりわたしを包んでしまう。そうなるともう、どうすることもできない。目をつぶり、時々人指し指でこめかみのあたりを押さえながら、音色の透明度や高低や響き具合にだけ心をとめ、それが遠ざかってゆくのをおとなしく待つのだ」
  いろいろな種類の耳鳴りに悩まされていた彼女は、それぞれの特徴を系統だてて分類できるまでになっていた。I のa−−歯軋り的低音、b−−口笛的高音、II のa−−冷蔵庫的不連続音、b−−ねじ巻き時計的連続音・・・。ちょうど私たち音楽家が、世の中のものおとをおたまじゃくしに換算して聴くように。
  私たちは、外からはいってくる音以外にも、自分の内なる音を聴いている。いや、聴かされていると言ってもよい。一番多いのはそのとき練習している曲や好きなピアニストの演奏、生徒が弾いた曲などだが、ときどき、わけのわからないメロディがたちあらわれて、虫の羽音のようにぶーんとつきまとい、払っても払っても逃げていってくれないことがある。こうした「音」が耳鳴りと違うのは、ピアノで実際に音だしするとすっと消えていってくれることだ。
  『余白の愛』の物語は、耳鼻咽喉科の病院を退院したばかりの女性が、健康雑誌の依頼で、自分の病状と回復の過程を語る座談会に出席するところからはじまる。

  座談会は、病院の真向かいに建つ古いホテルで行なわれていた。呼ばれたのは、主人公の他に中年の夫人と白人との混血らしい青年で、三人の話を一人の速記者が書きとっている。
  ある朝、目がさめたらすべての音が消えてなくなっていたんです。最初は、庭に雪が積もったのかと思いました。でも、カレンダーは六月だったんです・・・。大学の聴力検査でヘッドフォンをつけたとたん、隣の検査のざわめきとか学生の足音だとかがぐちゃぐちゃに絡まって、どれがどの音だかさっぱりわからなくなって・・・。
  元患者たちの言葉を聞きながら、主人公はそれを書きとるYという速記者の手が気になって仕方なかった。患者が最初の言葉を発するのと、Yがボールペンを滑らせる一瞬があまりにぴったりと重なり合っていたからだ。テープレコーダも回っていたが、青いボールペンを操るYの手はよどみなく、のびのびしているが細やかな動きで患者たちの声に寄り添っていた。
  「彼の手の周りだけ、空気が特別な流れ方をしている気がした」
  バランスのとれた美しい手だった。楕円形にきれいに切りそろえられた爪と厚みのある掌、長い指。中指には、速記者の勲章ともいうべき木の実大のペンだこがついている。これがピアニストなら、親指と小指の、ちょうど鍵盤に当たる部分が変形し、少し固くなっているだろう。
  座談会への出席で症状を悪化させた女性は、同じ病院に再入院し、秋がすぎ、冬が近づいたころ、ようやく退院する。ある日、薬をもらいに病院を訪れていた女性は、今までのものとは違った耳鳴りを聴く。それは、I−−aとも II−−bにも属さない、新しい種類の耳鳴りで、ずっといつまでも聴いていたいと思わせるような音だった。
  難聴のテーマを扱いながら、小川洋子は聴覚や視覚、言語ではとらえきれない、人間のもっとも深いところにある知覚の領域に踏み込んでいく。

  難聴が起きるずっと前から、主人公には予兆があった。ある朝、鏡の前で髪をとかしていて、急に耳に目が吸いよせられてしまったのである。まるで初めて耳を見るような気分で、輪郭の微妙な曲線をなぞったり、皺の模様を左右比べてみたりした。
  耳鳴りを聴く前日、夫が家を出ていった。医者からは、そうした心身の疲労が難聴の誘因になると言われたが、因果関係はわからない。しかし女性は、夫の裏切りも予感していた。
  女性の髪は、素人にもカットできるストレートのロングだったので、恋人時代から散髪は夫の役目だった。その日曜日も、遅くめざめ、ブランチを食べ、しばしくつろいだところで「髪を切ってやろう」と夫が言い出した。
  ビニール製のケープで首からくるぶしまですっぽり覆われ、髪と首を思いのままにされながら、霧吹きのレバーを押す人差し指、ハサミの丸い穴にまきついている親指と中指、そっと前髪を払う小指を通じて夫を知覚した女性は、何の前触れもなく夫に女がいることに気づく。目の前を動く彼の指が彼女を訳もなく辛くさせたからだ。
  夫の指の記憶が、Yの指の記憶に重なる。病院でYに再会した女性は、「わたしの耳のために、あなたの指を貸してもらえませんか?」と頼む。
  Yは速記用の紙の束と青いボールペンをもって女性の家を訪れるようになる。速記者と語り手にも相性がある、とYは言う。しゃべる速さはあまり関係ないが、ときどき、声の質がぴったり合う人がいる、その人の声が「ペンの先になじんで、紙の間で溶けてゆくみたいな感じ」がする。
  女性が耳鳴りについて話し終える瞬間と、Yがボールペンを置くタイミングは、公園で抱き合っている恋人たちのように隙間なく重なっていた。
  書き上がった紙を手にした女性は、「今わたしは、耳鳴りを手にしているんですね」と言う。糸のような青い速記文字は音符のように解読不能だったが、慣れてくるといろいろなものを読み取れるようになった。
  そしてふいに彼女は気づく。 I−−aとも II−−bとも異なった耳鳴りの音はヴァイオリンだったのだ。その音色は彼女にひとつの記憶をよびさまし、その記憶はさらに別の記憶−−中学のころ、川原の草むらでヴァイオリンを弾いてくれた「十三歳の少年」の記憶へとつながっていく。

  博物館で少年とともにベートーヴェンの補聴器をみたときのこと、エデンの園のような川原で、聞こえてくるのはヴァイオリンの音と、ときおり吹く風が草を撫でる音だけだったこと、楽器を挟む少年の顎が痛くないかしらと心配になったこと。
  むすび目をほどくきっかけとなるのは、いつもYの指だった。
  二人のこの作業をどう名づけたらいいものかと女性はいつも迷う。作業という言葉自
体、ピントがずれているような気がするし、行為というほど仰々しくない。遊戯ほどふざけてもいない。その他、習慣、奉仕、儀式、交歓、接触、愛撫・・・と言葉をつらねても、どうもしっくりこない。
  形の上では、女性が自分にしか聞きとれない音について語り、それをYが速記という特殊な手法で綴る作業なのだが、二人は言葉を越えた何かを使って交信している。
  読んでいて、気の合う仲間と室内楽をやっているときのようだ、と思った。ヴァイオリンでもチェロでも、ソロ楽器から流れ出てくる音を受けとめ、いったん内部にとりこんだあと、鍵盤上をかけめぐる十本の指を通して返す。向こうが誘い、こちらが受ける、あるいは、こちらがしかけて、向こうが乗る。一緒に流れる、溶け合う、はじける、あるいはわざと対立する。
  Yが書きとるのが女性の言葉そのものではないのと同じように、私たちが聴いているのはお互いの音ではない。音の向こう側にあるもの。過去・現在・未来を自在にとびかう意識と意識のコミュニケーション。耳鳴りのように果てしなく持続するもの。
  楽曲がいつか終わるように、Yと女性の「作業」にも終わりがくる。
  Yを探してある倉庫にまぎれこんだ女性が、昔「十三歳の少年」が弾いていたヴァイオリンに出会う場面はとりわけ美しい。
  「私は耳に残っているヴァイオリンの音色を、もう一度呼び戻してみた。余計な音が何もないおかげで、まるで腕の中のヴァイオリンが鳴っているかのように鮮やかに、それは響いてきた。わたしはたっぷりとそれを味わい、耳の奥にまで染み込ませたあと、ヴァイオリンを元の場所に返した」
  あとには、「沈黙」という名の音楽が残った。

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