|
第8回 パゴダ
ドビュッシーは東洋に行ったことがない。でも、東洋ふうのペンタトニック(ド・レ・ミ・ソ・ラのような五音音階)を多く使い、東洋ふうの音楽をたくさん残した。『映像第二集』の第二曲『そして月は廃寺に落ちる』のスケッチでは、ペタントニックにもとづくメロディの上に「ブッダ」と書きつけられているが、この作品のイメージ源はカンボジアのアンコールワットの寺院だと言われている。
『版画』の第一曲には、そのものズバリ、寺院の塔をあらわす「パゴダ」というタイトルがつけられている。
ガムランのオーケストラっぽく、バスドラムがボーン、鈴がシャリーン、鐘がチーンみたいな前奏のあと、右手に出てくる旋律は、ガムランのスレンドロ音階そっくりだ。
それから、これもペントニックがからみあい、東洋ふうの四度(ド−ファのような音程)が重ねられる中間部。
この四度の連続は、一九一三年に手がけていた未完の東洋ふうバレエ『ノ・ヤ・リ または沈黙の宮殿』のスケッチにも出てくる。
ジョルジュ・ド・フールが書いた『ノ・ヤ・リ』の台本はこんなお話だ。
古代中国のある島の王子は、生まれつき耳が不自由で口がきけなかった。運命を呪った彼は、宮殿に住むすべての人々にも沈黙を強いる法律をつくった。ところが、捕虜として宮殿に住んでいた小さな王女ノ・ヤ・リには、この法律は耐えがたかった。
王女を深く愛していた王子は、「奇妙な鐘や水平のハープ」と「低い音のドラム」からなるガムランのオーケストラを伴奏に、「愛の炎のバレエ」を踊って愛を伝えるが、王女は首をふってききいれない。ついに王子は、ノ・ヤ・リをよろこばせるために沈黙の法律を解除し、宮廷は喜びに包まれた。
ドビュッシーは若いころ、パリの万国博覧会でガムランの舞台に接して、すっかり夢
中になってしまった。
一九一三年二月十五日付けのある新聞記事で彼は、「ジャワの音楽は、パレストリーナの対位法など児戯に等しいような対位法を含んでいる」と書いている。
「安南人は萌芽状態のオペラとでもいったものを演じる。それは中国の影響を受けた歌謡劇で、三幕の形態をおびている。ただし、神の数はずっと多く、その反面、舞台装置は簡単だ。怒ったような音を出す小さな笛が感興を盛り上げ、タムタムが畏怖を深みのあるものにする」(ドビュッシー『音楽とともに』杉本秀太郎訳)
十九世紀末のパリではオリエンタリズムが流行していた。とくに絵画の世界は、中国や日本の美術を知って強い刺激を受け、新しい発展をとげた。遠近法にいきづまりを感じていた画家たちは、広重や歌麿の版画の独創的な構図や単純化された線、平面分割法をとりいれた。ドガの踊り子のデッサンは『北斎漫画』にヒントを得たものだし、ゴッホやゴーガンの絵には、浮世絵をそのまま使ったものもみられる。
音楽の世界でも、同じようなことが起きた。作曲で遠近法に当たるのは、長調、短調の違いをくっきり分けたり、コードを立体的に組み立てたりする技法だが、十九世紀後半には飽和状態になってしまい、作曲家たちは新しい方法を捜していた。そのよりどころのひとつとなったのが東洋の音楽で、ドビュッシーはジャポニズムをとりいれた最初の作曲家だった。
ドビュッシーは、短調のかわりに全音音階を使ったり、東洋ふうの五音音階を使ったり、四度を重ねたりして調性感がなるべくぼやけるように工夫し、並列的でスタティックな音楽をつくろうとした。
ドビュッシーの死後、メシアンやジョン・ケージ、クセナキスがこぞって東洋の旋法やリズムを作品にとりいれるようになるが、ドビュッシーはその先駆者だった。
ドビュッシーの作品を私たち日本人が弾くと、どこかなつかしい感じがするのは、こんなところからきているのかもしれない。
|