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第8回 強迫性障害
ピアノを勉強していて、精神にいささか異常をきたしてしまった人は多い。どこか少 し変、という意味では、多かれ少なかれみんなそうかもしれない。
何しろ、ものごころつかないころからピアノの前に座らされ、友達が「あっそびましょ」と誘いに来ても、「おけいこだから」と断らなければならない。練習ノルマは一日三時間。ハノンや音階などの基礎練習に始まって、チェルニーなどの練習曲、バッハなどの対位法の課題、古典のソナタやロマン派の小品。ときには、コンチェルトもある。
ある程度進むと、コンクールやオーディションを受けることをすすめられる。同じようなレヴェルの子供たちが、同じ曲を練習して競う。受験生が多く、朝から晩まで審査がつづくから、ときには朝の九時に呼び出されたりする。
ステージの上には、弾いたことのない巨大なピアノ。客席には、こわそうな審査員の先生たち。その後ろには、受験生や親たち。拍手もなく、シーンとしずまりかえっている中、緊張して弾きはじめる。ほんのちょっとしたミスでも、審査席からごそごそエンピツの音がきこえてくる。ああ、やっちゃったぁ、今度もダメか。
現在ピアニストとして活躍している人たちは、こうした試練を見事くぐりぬけてきた
人たちばかりなのだ。どんな身体の調子が悪いときでも、たとえ朝の九時の呼び出しであろうと、ある程度のレヴェルを維持できるだけの体力と精神力、たゆまぬ鍛練と持続力。しかし、いっぽうで演奏家というのは芸術家肌で、気分の変動が激しく、精神的に不安定な人種でもある。この二つの性向はかみあわないのが当たり前で、誰でも多かれ少なかれバランスをとって生きているものだが、このバランスが崩れると、異常をきたす。
演奏前にピアノのキーの深さをミクロ単位ではかり、少しでもばらつきがあるとキャンセルしてしまったミケランジェリも、やっぱりどこか変だった。現在ではクリスチャン・ツィメルマン。自宅に録音スタジオをつくり、最高の状態だと思う瞬間の録音をとるのだが、最高の瞬間は瞬時に消えうせ、テープばかりがたまって、実際のディスクはなかなか出ない。実演でも限りなく完璧主義で、自分の楽器を運んできても日本の風土に合わないとダダをこねる。
自伝的作品『野生のおおかみ』で自身の病的なこだわりを告白するのは、フランスの若手ピアニスト、エレーヌ・グリモーである。エレーヌの場合、こだわりは対称性に出る。片方の靴ひもが反対側ときっちり同じになるまで際限なくむすんではほどく。演奏旅行でホテルに泊まると、ベッドルームの家具、バスルームの化粧道具が全部左右対称になるように並べなおすまでは眠れない。日本の高輪のホテルに泊まったときは、イルカがプリントされたセーターをしまおうとして、折り目の両側に一ミリの差もなく正確に同じ数のイルカがくるように折り畳む作業に疲れ果て、衝動的に窓から投げ捨ててし
まったという。
自傷行為で苦しんでいた時期もある。幼いころ、ガラスの破片でかかとを切って手術して以来、甘美な苦痛を再体験したいという衝動にかられ、いつしか自分で自分に傷をつけるようになった。ここに対称性への強迫観念がからむ。ころんでひざに傷を追うと、対称性を求めてもういっぽうのひざにも同じような傷をつける。右手に切り傷をつくると、すぐに左手もわざと切った。エレーヌの手や足はかさぶたや絆創膏だらけになった。
エレーヌは、こうした傾向を「強迫性障害(OCD)」と呼び、音楽家になくてはならない資質ととらえる。
「どんな活動でも完璧の追求が要求されるものには、生まれつき強迫的な性格が必要であり、音楽も同様だ。楽器やスポーツをやる子どもはだれも、自分のなかにそれをもつのだろう」
ノーベル賞作家イェリネクの『ピアニスト』は、ピアニストの夢破れた「強迫的な性格」のピアノ教師の生態を描いた作品である。翻訳者中込啓子さんによれば、イェリネク自身が母親の要求過多の指導で音楽を勉強したことがあり、その文章は、「きびしい訓練を経た人でなければ実現しえないような節度と緊張感を示している」という。小説のほうはかなり難解で読むのに骨が折れそうだが、のちに映画化され、二〇〇一年度カンヌ国際映画祭でグランプリをとっているから、観た方もいらっしゃるかもしれない。
この映画は主演のイザベル・ユベールも助演のブノワ・マジメルもカンヌを制したのだから話題作で、女性誌の『フラウ』でも特集を組んでいた。でも、試写会を観た人の感想は、圧倒的に「ひいた」とか「イタイ」というようなものだった。クラシックの本場ウィーンでの音楽シーンがたくさんおさめられていることから、甘く美しい音楽映画だと思って見たらとんでもなかったと語っている人もいた。
でも、本職のピアニストが観たら、ここまで極端ではないにせよ、われわれの世界ならあっても不思議はないと思うだけで、あんまりびっくりしないのではないだろうか。
主人公のエリカは三十代の終わりにさしかかった独身女性。ウィーンの国立アカデミーに学んでいたが、修了演奏で失敗し、コンサート・ピアニストへの道を絶たれる。教授職に鞍替えしたエリカは、母校よりワンランク下のウィーン市立音楽院にポストを得る。
音大を優秀な成績で卒業しても母校の講師にすらなれないピアニストが多いのが現状だから、これだってじゅうぶん幸運な方ではあるのだが、娘を著名なピアニストに育てようともくろんでいた母親にとっては立派な挫折だ。
娘がもし自分だけに指導をまかせていてくれたら、今ごろは世界的な名声を得ていただろうに、と彼女はくやしがる。でもエリカは、じゅうぶんすぎるぐらいに母親にスポイルされてきたのだ。やっとのことであるレヴェルに到達しても、ゆっくり休むことを許されず、すぐに次の段階へ、次の段階へと追い立てられる。
エリカはいまだに母親の支配下から抜け出せない。音楽院でのレッスン時間をきちっとはかられていて、定時に帰らないと詰問される。室内楽を合わせているときでも、容赦なく母親が電話をかけてくる。美しいドレスを買っても隠しておかなければならない。男性とつきあうことも固く禁じられているため、エリカにはまだ男性経験がない。
欲求不満に陥ったエリカは、昼食代をヘソクリしてのぞき部屋に通ったり、ポルノ映画を見たり、アダルトショップでSM用具を買ったりする。
エリカは、思春期にはいったころから自傷行為をくりかえしていた。同じ年ごろの子供たちが遊んでいるのを横目で見ながら母親に練習を強要され、練習が終わったあと、皆がトランプに興じているときも自室に閉じこもり、かみそりで手の甲を切る。
「金属はバターに食い込むように、中に食い込んでいく。一瞬、前には閉じていた組織に貯蓄銀行の窓口が一つ開いて、そのあと遮断グチの向こう側から、骨折ってなんとか抑えられていた血が勢いよく出てくる。全部で四つの切り口だ」
自傷行為は次第にエスカレートし、体中を待ち針で刺したり、自分の性器をかみそりで傷つけたり、というショッキングなページもある。
しかしいっぽうで、市立音楽院でのエリカは尊敬されるピアノ教師だった。ことにシューマンやシューベルトの演奏には定評があり、作品を深いところで理解し、解釈する。生徒たちにも、テキストを尊重しつつ、「厳密性が終わりを告げて、本来の創造性である非厳密性が始まるような、ある一点」を捜し求めるように指導する。
音楽院のマスター・クラスの生徒の一人、工科大学の学生ヴァルター・クレイマーが、そんな先生に好意をいだく。金髪の美青年で、同世代の女の子にもモテモテなのに、地味な紺のプリーツ・スカートとシャツブラウスを着けて、肌はくすんだ角質層で覆われ、皺も法令線も目立ちはじめた年上の女性にあこがれる。先生が演奏するとき、そのテクニックに感嘆し、リズミカルに動く背中、躍動する二の腕の筋肉に見入っている。
レッスンを受けたあと、先生と高尚な議論も交わす。アドルノの音楽論について、ブルックナーについて、シューマンとシューベルトを襲った病理について。
しかし、クレイマーが愛を告白すると、エリカは黙って手紙を差し出す。てっきりラヴレターだと思って狂喜して受け取ったそれには、青年の度肝を抜くことが書いてあった。いや、愛の手紙には違いないのだろうが、その愛を成就させるために、彼女が長い間かけて収集し、靴箱にため込んでいたSM用具を彼女に対して使ってほしいというのだ。
映画『ピアニスト』を観た多くの人も、そしてクレイマー自身も「ひいてしまった」シーンだが、少なくともメンタリティの面から言えば決して特殊な状況ではないことは、エレーヌ・グリモーの例をみてもわかっていただけるだろう。
エレーヌ・グリモーも語っているように、もともとスポーツ選手や演奏家は、トレーニングや練習という名目で自分自身をいためつけるのが習慣になっている種族だ。親や先生、コーチに依存するのも当たり前。いまだに、最初の手ほどきをした先生と母親のトリオで演奏旅行しているキーシンのようなピアニストもいる。
マザコンの作曲家や演奏家は数多いが、そのことは少しも活動のさまたげになっていない。精神的に未発達だからといって偉大な音楽家にはなれないというわけではない。何しろかの天才中の天才、モーツァルトも父親のレオポルトに依存しまくりだったのだから。
エレーヌ・グリモーもツィメルマンもミケランジェリも、強迫的な性格をむしろキャリアに活かしている。悲劇なのは、エリカのように、ピアノの勉強で強迫的障害を亢進させられながら、ついにプロになれなかったケースではないか。
『ピアニスト』は、霊感に恵まれなかった子供が、本人の意に染まない、人工的な教育を継続して受けたときにどんなゆがんだ反応を示すものかということについての絶好の臨床報告書でもある。
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