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第7回 ジャズとスーパー大回転
クラシック畑の人間にとって、ジャズピアニストは憧れの的だ。いいなぁ、ノリノリで楽しそうで。クラシックのピアニストがいつもしかめっつらをして、眉間に皺を寄せて弾いているのに、ジャズメンは演奏中もニコニコ笑ったり身体を動かしたり、足を踏みならしたり、他のミュージシャンと目くばせしたり。
ジャズにはインプロヴィゼーションがあるから、楽譜どおり弾かなくてもいいし。
あるジャズ・ピアニストにそんな話をしたら、とんでもないと言われた。いつもノリノリでいなければならない、いつも楽しそうでなければならない、いつもインプロヴィゼーションしなければならない、というのもなかなか疲れることだという。
ジャズ用のピアノは、クラシック用より軽く調整するのが普通だが、それでも運動量が多いから手指にかかる負担も相当なものらしい。クラシックの修業をしていないそのピアニストは慢性的な腱鞘炎に苦しんでいて、ハノンやチェルニーからやりなおしたいのだが、ライヴの予定がめじろおしでその時間がとれない、と嘆いていた。
そんなものか。
というわけで、レコード会社のディレクターやマネージャーたちは、てっとりばやくクラシック畑からジャズメン候補生をさがす。
あるとき、昔の教え子で、美形が多い音大のピアノ科でもとびきりの美人&スタイル抜群さんがため息まじりに、先生、ジャズにころべばデビューさせてやるって言われてるんですけど、どうにもふんぎりがつかなくて・・・と言っていた。
ポーラ・ゴズリングのハードボイルド『負け犬のブルース』は、文字通りジャズに「ころんだ」ピアニストの物語である。
ジョニーことジョン・オーエン・コサテリは、さるマイナー・レーベルからラヴェルとラフマニノフの四番の協奏曲のレコードを出すなど、それなりに活躍していたピアニストだったが、ロンドン交響楽団の友人三人としゃれで吹き込んだラテン・ジャズのレコード「サンバ・ブレイク・シックス」が文字通りブレイクし、二週間にわたって、かのローリング・ストーンズを蹴落としてヒット・チャートの第一位にランクされた。
「彼らはクラシックの演奏者として録音スタジオにはいったが、出てきたときはジャズ・バンドのジョニー・コージー・フォーになっていた。そして、金持ちになっていた。
しばらくの間は」
次のレコードはヒット・チャートの四十七位どまりで、もうその次はなかった。しかし、一度金の味をおぼえると、もうあともどりできない。ロンドン交響楽団のオケマンたちは、リハーサルや本番の合間を縫ってどんどんジャズの仕事をとるようになっていった。
それから十四年。ジョニー・コサテリはオーエン・ジョンズとなり、エージェントのレイニー・ブラックは、彼がジャズに転向してからもきっちり十パーセントのマネージ料をとりつづけていたが、いっぽうでしつこく「クラシック復帰」をすすめることを忘れなかった。そのほうがずっと実入りは悪くなるにもかからわず、である。
ジョニーのほうも、ひそかに先生についてクラシックのレッスンはつづけていた。ベートーヴェンの『ハンマークラヴィーア』、フランクの『交響的変奏曲』。
そしてある日、クラシックの殿堂、ロンドンのウィグモア・ホールで演奏するチャンスが訪れた。著名なヴァイオリニスト、ウォルター・ゲスラーが、リサイタルの伴奏者にジョニーを推薦したのだ。ゲスラーのいつもの伴奏者が入院してしまい、その代役ということだったが、老ゲスラーが自分の名前をおぼえていてくれたことにジョニーは感激した。
ひさしぶりのウィグモア・ホールのステージは、彼に快い刺激をもたらした。
「熱心な聴衆がつまった大きなホールの、あの聴き慣れたエコーが舞台の先端を越えて彼の耳に戻ってきた−−息づかい、ひそかな咳、見えない肘や瀬かなが座席で動く音、これはナイトクラブの演奏とはまるで違っていた。あそこでは客の半分しか聴いていなかったし、これほどの興味を示すものは一人もいなかった」
私もデビューしたてのころ、喫茶店でピアノを弾くバイトをしていたことがあるから、この気持ちはよくわかる。クラシックのコンサートでは客席に座るすべての人々が演奏に注目し、集中している。無視されていない、という意識がどれほど弾き手を鼓舞するか。
プログラムが終了したあと、ヴァイオリニストは粋なはからいをする。万雷の拍手に応えてのアンコールをコサテリのソロにまかせたのだ。
わっ、十四年ぶりのクラシックのソロ。何を弾くの? ときかれたコテサリは、眠っていても弾けるラフマニノフのプレリュード(私は起きていても弾けないが)ではなく、ラヴェルの『道化師の朝の歌』を弾くという。中間部にとんでもなく速い連打音が出てきたり、二重グリッサンドがあったり、あちこちに地雷がしかけられた危険な曲のひとつだ。
「ジョニーもラヴェルもいまかいまかと彼がやりそこなうのを待っていた。だが、二人ともその期待を裏切られた。(中略)彼の両手にはまるで重さというものがないようで、電撃的に動き、命あるもののようだった」
ジョニーの手が最後のフレーズをかみそりの刃のような正確さで弾ききると、聴衆は狂ったように沸いた。「ぼくにはまだできるのだ」とジョニーは思った。
客席には、楽壇で力があり、誰もが共演したがっているウェールズ国立交響楽団の常任指揮者プライステンプルがいた。そしてジョニーは、彼の指揮で協奏曲−−ガーシュインではなく、昔レコーディングしたラヴェルとラフマニノフ−−を弾くことを提案される。
まさに、絵に描いたようなサクセス・ストーリー。しかし、ジョニーはその直後、彼に情婦を殺されたと思い込んでいる男に刺客を送られ、大事な左手をくだかれてしまう。おまけに警察に追われ、クラシック界へのカムバックどころではなくなった。
『負け犬のブルース』はちょうどここまでが前半で、物語の後半は、ジョニーが「宿命の女性」ベスと出会い、苦しいリハビリに耐えつつ、ジャズをやめないでくれというカルテットの仲間の懇願にも耐えつつ、真犯人をつきとめるまでの顛末が描かれている。
冒険活劇の合間に、いろいろなページでそれとなく展開されるジョニーのクラシック=ジャズ比較論が、とてもおもしろい。彼の家を捜索しにやってきた警部に「両者はどう違うんです」ときかれたジョニーは、技術的には、たいていの人が思っているよりはずっと差が少ない、と答える。
「じつを言えば、以前はソナタやコンチェルトには必ず即興演奏の部分があったんです。作曲家が書いたものを基に演奏者が自分の好きなように演奏していい部分が。そして、これはまさしくジャズ・プレイヤーがポピュラーなスタンダードナンバーについてやっていることですからね」
もっと言うなら、バロック時代には、そもそも楽譜には真っ白な音符しか書かれていなくて、プレイヤーも兼ねる作曲家はその場の感興に応じて自由に装飾を加えて弾いていたのだ。ベートーヴェンが『ピアノ協奏曲第四番』を初演したときだって、譜めくりした弟子のチェルニーがのぞいてみたら、楽譜には簡単な記号のようなものしか記されていなかったという。
ジャズのプレイはスキーの回転競技そっくりだ、とジョニーは言う。
「あの旗のついた棒の代わりにコード・チャートというものが−−そのメロディから生まれる一定のコード進行があるんです。演奏者はコースのとおりに滑らなければならないし、旗を正しい順序、正しいタイミングで回らなければならない−−しかし、その旗と旗のあいだですることはまったく自分の自由にまかされているんです。そして、そのあいだですることが、すなわちジャズなんです」
クラシックの場合は、十九世紀末ごろからテクニックが極度に高度になり、作曲と演奏の分業化がすすむ。作曲家は楽譜を音符で埋めつくし、ここは強く、ここはゆっくり、ここは激しくとか、演奏家が自分の思い通りに弾いてくれるように速度記号や表情記号を書きこみはじめる。ラヴェルはその代表選手で、演奏家は作曲家の奴隷だと広言していた。
二十世紀にはいると「ノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)」といって、主情をさしはさまず、テキストに忠実な解釈が主流になり、創意工夫に富む演奏よりも一字一句間違えないで弾くことのほうが評価されるようになった。ちょうどそのころ、より自発的な、自由な音楽の発露としてジャズがヨーロッパに導入され、急速に発展していくのも、まったく偶然ではなかろう。
「ノイエ・ザッハリヒカイト」ですぐ名前が浮かぶのは、ギーゼキング、バックハウス、そして恩師安川加寿子先生の師匠だったラザール・レヴィら、一八八〇〜九〇年代生まれのピアニストだ。私たちは、第一世代の教師にザッハリヒを叩き込まれた第二世代のそのまた弟子世代に当たり、小さいころからマチガエチャイケマセン、ガクフドオリヒカナクチャイケマセンと言われつづけて育ったが、どうやらジョニーもそのクチらしい。
ジャズのプレイヤーとしてのジョニーは精神的にも肉体的にもタフで、ハイな精神状態を保つためにクスリやアルコールにおぼれることもない。しかし、クラシックのピアニストだったころは、たった一度だけブラームスの協奏曲で楽章をすっとばしてしまったことがトラウマになり、酒びたりの日々がつづいていたのだ。
クラシック界に復帰する決心をしたジョニーは、恋人のベスにこんなことを言う。
「もしそうなれば、ぼくはたぶん神経質で、自己中心的で、いつも強迫観念に取りつかれたイヤなやつに戻るだろう。(中略)ぼくの最初の女房がそれに耐えられなかったとすれば、きみには耐えられるという理由もない」
コンサート前の私も神経質でジコチューでヤな女だから、ウチの旦那さまがまだ逃げ出さないのはほとんど奇蹟に近い。
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