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第3回 完璧な演奏
永井するみ『大いなる聴衆』(二〇〇〇)の主人公安積界(あずみ・かい)は、若き天才ピアニスト。T芸大ピアノ科の同級生、千堂紫がプロデュースする札幌音楽祭の四回連続リサイタルで、四日ともベートーヴェン『ハンマークラヴィーア・ソナタ』を弾く。
ベートーヴェンは三十二曲のソナタを書いているが、中で一番ポピュラーなのは、『悲壮』『月光』『熱情』という、いわゆる「三大ソナタ」である。
『ハンマークラヴィーア』なんて、演奏時間はゆうに四十分を超えるし、難解だし、玄人ごのみでとても一般受けする作品とはいえない。そんなソナタを、どうして四回もくりかえして弾くのか?
答えは簡単で、安積は東畑ミカリという婚約者を誘拐され、犯人からこんな脅迫状を受け取っていたのだ。
「ハンマークラヴィーア。/完璧な演奏をしろ。さもなくば、ミカリは二度とお前の元へは帰らない」
でも、完璧ってどういう意味の完璧? クラシックのピアノを少しでも経験したことがある人なら、こう叫ぶだろう。
完璧その一:技術的に完璧。ひとつも音をはずさない。つまり、ミスタッチしないというのは、比較的わかりやすい。でも、レコーディングしたことがある人なら、「ミスタッチ」にも限りなく段階があることを知っているだろう。
ミキシングルームでは、しばしばこんなやりとりがかわされる。
アーチスト「あっ、今の音ミスッた」
ディレクター「えっ、どこどこ?」
アーチスト「わかんないんですか?。この音ですよ」
ディレクター「聞こえないなー。ただかすってるだけじゃないんですか?」
アーチスト「ミスはミスです。修正して下さい」
ディレクター「弱ったなー。ひとつ修正するたびに千円いただきますよ」
幼いころから音楽教室でソルフェージュをたたき込まれ、かすかな音程の狂いまで即断できるように訓練されたピアニストと、大学で機械工学を専攻し、レコード会社に就職したディレタクーでは、音の判断に大きな開きが出てくる。こうした、さまざまなレベルでの耳の違いのようなものが『大いなる聴衆』というタイトルにも反映されている。
完璧その二;楽譜の指示通り完璧に弾く。フォルテ(強い)やピアノ(弱い)、そのほかもろもろの強弱・速度・表情記号をすべて守り、作曲家の意図に忠実に弾く。
ここで、どの版を使うかという問題が起きる。ベートーヴェンの楽譜には、校訂者がさまざまな解釈をほどこした版から、できるだけ自筆手稿を忠実に再現しようとした原典版まで、いろんな版がある。
原典版といったって、ベートーヴェンの手書きの楽譜には省略記号が多く、どうしても校訂者の解釈が加味される。また、ベートーヴェン自身が、ニュアンスや速度など、自分の書いた通りに弾いていなかったという側近の証言まである。
つまり、相対的な完璧という妙なことになる。
完璧その三:音楽的な意味での完璧。
『羊たちの沈黙』のレクター博士は、技術的には完璧ではないが作品の神髄をとらえる演奏をする。『悪魔に食われろ青尾蠅』のエレンは、技術的には完璧に弾くが作品の神髄をとらえることができない。では、『大いなる聴衆』の安積界は、札幌音楽祭の第一夜でどんな演奏をしたのか。
「楽曲そのものは、もちろん全て記憶している。細部の和声の動きや主題変奏の現れ方も確認したつもりだ。足りないのは、それを音楽たらしめる何かだ。常に頭の中で鳴っていた内なる音楽。そしてそれを頼りに進む勇気」
しかし、界がいくら耳をすませても、内なる音楽は聞こえてこない。指だけが勝手に動き、的確に主題を掴んでいく。会場には強く明確な音が響きわたるが、ただ強い音が鳴っているというだけで、そこに込められた情熱も、次の旋律へと受け継がれる叙情的な色あいも無視されてしまっている。
『音楽界』という雑誌では、「ミスタッチもなく、それぞれの音を明確にばりばりと弾いた」が、「魂の抜けた」演奏だと酷評された。
犯人も同じ意見だったらしい。婚約者は戻らず、ミカリ界はもう一枚の脅迫状を受け取ることになる。
「ハンマークラヴィーア。/今度こそ、完璧な演奏をしろ」
そして第二回演奏会。『ハンマークラヴィーア』は四つの楽章に分かれ、第三楽章には演奏時間二十分にも及ぶ長大なアダージオが置かれている。悲嘆をこめた濃密な第一主題。その間にはさまれた無限の温かさをこめた部分。しかし安積界の演奏は、「楽譜通りには弾いているが」まったく心に届かなかった。そこで、三通めの脅迫状。
「ハンマークラヴィーア。/完璧な演奏を。分かるな? 完璧な演奏だ」
『大いなる聴衆』のトリックのひとつは、『ハンマークラヴィーア・ソナタ』の成立事情にかかわっている。「ハンマークラヴィーア」とは、今のピアノの前身で、「ピアノフォルテ」ともいう。それまでの鍵盤楽器は強弱をつけることができなかったが、「ピアノフォルテ」はピアノとフォルテを使い分けることができるからという、そのものズバリのネーミングである。
ベートーヴェンの時代は、鍵盤楽器が日進月歩で改良されているころだった。『ハンマークラヴィーア』の作曲にとりかかった一八一七年十一月当時、ベートーヴェンの家には二種類の楽器があった。ひとつは桜材の五オクターヴの楽器、もうひとつはシュトライヒャーの六オクターヴの楽器。「一オクターヴ」には十二の音がはいっている。現在のピアノは八八鍵だから、七オクターヴと四鍵。シュトライヒャーはそれより十六鍵少なく、ファからファまでの音域を演奏することができた。『ハンマークラヴィーア』の第三楽章まではこの楽器に合わせた音域で書かれている。
ところが、一八年夏にイギリスのピアノメーカー、ブロードウッドから別の楽器が運ばれる。こちらはやはり六オクターヴだが、高音域はシュトライヒャーほど出ないのに対して低音域は五音ぶん低くなっている。『ハンマークラヴィーア』の第四楽章には、このシュトライヒャーでは出せない低音域を使って重要な部分が書かれており、ベートーヴェンが新たな可能性を喜び、早速作曲に活かしていたことがわかる。
といっても、このときベートーヴェンはすでに聴力を失っていて、実際の音は聞こえなかったはずなのだが−−。
そして、この第四楽章こそが、『ハンマークラヴィーア』の難所中の難所なのだ。ゆったりした序奏のあと、三百八十小節にも及ぶ錯綜するフーガが展開される。
フーガというのは、要するに寄せ木細工のようなものだと思えばよい。ある主題が設定され、それを逆さにした逆行形、くるっとまわした転回形、ぐーんとのばした拡大形、ぎゅっとちぢめた短縮形などあらゆる形に変形させ、それをくみ上げていく。『ハンマークラヴィーア』の場合には、主題の最初に舌をかみそうなトリルがついていて、これがありとあらゆる場所で再現されるので、ピアニスト泣かせの楽章になっている。ポリーニが一九七六年に完璧なディスクをつくるまでは、人類には演奏不可能と言われていたほど。
札幌音楽祭の第三夜。安積界はとうとうこのフーガを弾ききる勇気が出なかった。第四楽章の序奏まで弾いたところで突然演奏を中断し、ステージから出ていってしまう。
安積界、絶対絶命のピンチ。しかし、ここで事態は思わぬ方向に展開する。東畑ミカリの誘拐事件が公開捜査されることになり、大きく報道された。同時に、犯人からの脅迫状も公にされたため、安積界が当初のプログラムを変更して『ハンマークラヴィーア』を演奏することになった理由も明らかになった。これまでの演奏は不本意なものではあったが、婚約者の命が危機にさらされているなかで懸命に難曲にとりくむピアニストの勇気が世論の共感と同情を集め、非難の声をはるかに上回ってしまったのである。
マネージャーもここぞとばかりに、婚約者のために演奏する安積界のコンサートの広告を打ち、「ただ君だけのために」とコピーをつけた。誘拐事件をドキュメント記事として雑誌に掲載する約束をとりつけ、刊行に合わせてライヴCDを発売する。最終回の演奏がすばらしければそれに越したことはないが、とりあえず「楽譜通りに弾いた」第二回めの演奏でリリースできるように準備はしておく。
「確かに演奏の出来は悪いが、それは特殊な状況下の演奏だということで同情的に解釈されるだろうし、CDを買う側の人間だって、今回はピアニストの動揺が露な演奏の方を喜ぶかもしれない」
安積界は、もともと世間の同情をひくエピソードなしにも十分やっていける実力の持ち主だった。数ある国際コンークルの中でも超A級とされるリーズで優勝し、ロンドンを拠点に着実にキャリアを積み重ねてきた。しかし、ロンドンでもっとも格式あるウィグモア・ホールでのデビュー前に、たまたま愛娘が死病に冒されたことが判明し、ドナーがあらわれないことから、リサイタル終了後に自分の腎臓を娘に移植する決心をした。極限状況で行なわれたリサイタルは、「神が乗り移ったような」奇跡的な名演となり、ライヴCDは空前の売り上げを示したという経緯がある。
つまり、きわめて正統的なピアニストとして出発したのに、諸般の事情からドキュメント・アーティスト的な要素がはいりこんできてしまったことになる。
クラシックの専門家というのが極端に気むずかしい人種であることはさきほどご説明した。専門家筋にとってはあまり実力のないアーティストが、マスコミの操作で人気者になると、タレントとしてカテゴライズしてしまい、まともに論評しなくなる。安積界のように実力派ピアニストの場合、マスコミで売れることでかえって評価にかげりが出ることも考えられる。
著者の永井するみさんはご自身も東京芸大に学んだ方だから、このあたり、昨今のクラシック・マーケティング界を多少皮肉って書かれたのかもしれない
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