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第2回 白と黒の迷路
『ハンニバル』(一九九九)のレクター博士は、ハープシコードで『ゴルトベルク変奏曲』を弾く。六本あった左手の指を手術で五本にしたから、技術的に完璧とはいいがたいが、作品の神髄を完璧に理解していることがうかがわれる絶妙な演奏をする。
ジョン・フランクリン・バーディン『悪魔に食われろ青尾蠅』(一九四八)では、この反対の現象が起きる。ヒロインのエレンはプロのハープシコード奏者で、精神病院で二年間入院生活を送ったあと退院する。以前師事していたマダム・テデスクの前で『ゴルトベルク』を演奏したところ、先生は首をふってこう言う。
「聴いていて、音楽を理解していることは感じられました。批評家が絵を理解するように。でも批評家には絵は描けない、批評家は音楽家ではない。エレン、あなたが弾いたのはバッハではありませんでした」
もちろん、楽譜に書いてある通りには弾いたのだ。先生が言う「バッハではない」とは、仏様をつくって目を入れない状態、音楽が血の通わないものになってしまったというような意味だ。完璧に弾くということと「音楽になる」ことは必ずしも一致しないのも我々がいつも体験することだし、ある時期にすばらしく弾けていた曲がのちに同じように弾けるとも限らないので、エレンには限りなく同情してしまう。
タイトルに使われている『悪魔に食われろ青尾蠅』は、アメリカではよく知られた民謡で、ブルースやカントリーのアルバムにも、また子供の歌としてもとりあげられるという。主人のおともをする黒人の召使が、「若造のころは旦那のそばに いつも使えて皿を出し 喉の渇くときゃ酒樽出して、青尾蠅を追ったもの」と歌い、「ジミーがとうきび碾いても知るもんか」というコーラスがくりかえされる。ある日、うるさくつきまとう青尾蠅が主人の乗る馬を驚かせ、溝に転げ落ちた主人は死んでしまう。
本書では、エレンのトラウマになっている事件−−それも夢か現実かはっきりしないのだが−−を象徴するライトモティーフのようにしてあらわれる。
『悪魔に食われろ青尾蠅』は、ミステリーとしては時代に先行しすぎた作品だった。ロバート・ブロック『サイコ』(一九五九)を先駆とするサイコ・サスペンスの系列に連なるのかもしれないが、この中に位置づけるにはあまりにも文学的な香りが高すぎる。現実と幻想の混淆、微細をきわめる音楽家の心理描写など、むしろ、フランス十九世紀末の恐怖小説や二十世紀初頭のシュールレアリスム小説を連想させる。
作中に登場する『ゴルトベルク』もほんのちょっとだけ早すぎた。一九四八年の作だから、レクター博士が好きだったグレン・グールドはまだ十五、六歳。普通にモーツァルトの幻想曲とかチェルニーの変奏曲とかショパンの練習曲やワルツ(のちに大嫌いになったはずだが)を弾いていたころだ。当時『ゴルトベルク』といったら、古楽演奏のパイオニア、ワンダ・ランドフスカがハープシコードで演奏したものだろう。でも、この作品が世界的な知名度を得たのは、何といっても五五年のグールドのデビュー盤だったのだから。
アメリカでは出版先がみつからず、イギリスで出版された『青尾蠅』は、『白鳥の歌』の作者エドマンド・クリスピンほか何人かから評価されたほかはまったく話題にならなかった。アメリカでは六七年にペーパーバックで刊行されたものの、これも話題にならず、ようやく七六年になってペンギン・ブックスで復刊されて多くの読者を獲得することになる。ということは、七五年に処女作『ブラック・サンデー』を発表したトマス・ハリスはこの作品を読んでいた可能性があるだろうか?
実は、『青尾蠅』とレクター博士の三部作が妙にリンクしているような気がして仕方がないのである。エレンは「青尾蠅」の歌の幻聴に悩まされるが、クラリスは子羊の鳴き声に悩まされる。二人とも父親コンプレックスで幼時のトラウマから抜け出せないでいる。エレンはハープシコードを弾くと二匹のネズミが迷路を走り回っている幻影が見える。レクター博士はハープシコードを弾くと、クラリスを象徴する鹿が森を走っている幻影を見る。そして、『ハンニバル』も『青尾蠅』も、精神病の治療が重要な部分で
かかわっている。
物語は、エレンの退院の日からはじまる。二年の入院生活の間、病室に楽譜を持ち込むことは許されたが、ハープシコードを弾くことは禁じられていた。夫のバジルが迎えにくるのを待っているエレンは、もうこれからは頭のなかで『ゴルトベルク』を反芻しなくてもよいのだと考える。
「バッハの作品のなかでも一番好きな曲の、しなしなした楽譜の一ページ目を開き、黒い音符が眼の前で蠢き、指が凝りに凝った無言劇さながら弧を描いて最初のトリルを練習し、拍子を取ること、高音を引き延ばすこと、とまる箇所を厳密に−−一瞬たりとも早すぎも遅すぎもしないよう−−知覚することに頭を集中させながら、耳のなかに再び、心の憂いを繊細に語ってくれるアンナ・マグダレーナのサラバンド(『ゴルトベルク変奏曲』の主題のこと)の音を−−ゆったりとした格調を聞くことは二度と」
こうした音楽の手ざわりのようなもの、演奏家の思念の動き、ことに「一瞬たりとも早すぎも遅すぎもしないよう−−知覚することに頭を集中させながら」というような描写がリアルで、まるで実際に奏者の心のなかにはいりこんでいるかのようなのだ。
私たちピアノ弾きも、演奏会の日の朝など、よく頭の中で楽曲を反芻する。『ゴルトベルク』のように何本のもの線がからみあう音楽の場合は、意識がいく筋にもわかれ、それぞれをとり落とさないように進行させるのは、綱わたりめいた緊張を強いられる。
病室の本棚におさめた楽譜を整理しながら、エレンは楽器にふれるまでの瞬間を頭のなかに思い描く。バスに乗り、汽車に乗り、タクシーに乗り、家に着くだろう。執事と会釈をかわし、向こうは丁重におじぎし、自分は肩をすくめる程度で、階段を駆け上がって書斎に向かい、戸口で立ち止まって壁や天井灯の光や出窓を確認するだろう。
「立ち止まるのは一瞬のことで、自信を持って愛用の楽器のほうに進み、ベンチに越しをおろし、そっと両手を蓋の古びた板に走らせ、後ろへ折り返して手鍵盤のずらりと並んだ鍵を露出させ、片方の手をいきなり置く。だが、象牙の鍵が押されて下がるのを感じるや手をひっこめ、わずかに後ろへ引き、和音と、足でペダルを踏んだことから生じた上音を聞き、音のくっきりすんだ中心音が、重なり合う音の雲に囲まれるのを聞く。ハープシコードを用いて初めて蒸留できる音楽の精髄。そこまでいけるのはおそらく正午頃」
二年間も楽器にふれなかったプロの奏者の心理はどんなものだろう。一刻も早く楽器に触れたいような、触れるのがこわいような、複雑な気持ちになるにちがいない。楽譜はすっかり頭の中にはいっているし、指のほうも、体操とイメージトレーニングで柔軟性を保つように努力はしてきた。それでも最初のうちは指が思うように動かず、いろいろなところでつまづくことだろう。じっくり腰を落ち着けて勘をとりもどし、「頭の中で聞こえている理想の音を現実の音楽に翻訳する術」を学んでいこう。
しかし、エレンが帰宅し、愛するハープシコードを弾こうとすること、鍵がかかっていてあかない。どこを探しても鍵は出てこない。執事は鍵を預かっていない。夫のバジルは、探すことに少しも協力的ではない。エレンが必死で頼むので、しぶしぶ一緒に探してくれる。そして、ほかならぬ楽器の蓋の鍵穴にささっている鍵を発見する。「いやぁ、ずっとここにあったにちがいないよ」というバジル。エレンは夫を平手打ちする。
エレンの一発はバジルの顔に大きな穴をあけ、そこから景色が、だんだん遠ざかる魅力的な景色が見えた。景色は指の格子にさえぎられ、手をどけたら景色も消えてしまった。ちょっとルネ・マグリットみたいなイメージだ。
『青尾蠅』はこんなふうに、現実とエレンの妄想がまざりあい、いったいどちらが本当に起きたことなのかわからないところがある。ハープシコートの鍵は、本当になくなったのだろうか? エレンをもう少し休ませておきたいバジルがわざと隠したのだろうか? それとも、本当はハープシコードを弾くことを恐れているエレンが鍵をわざと見なかったのだろうか?
エレンは少しずつ練習を再開し、復帰第一回演奏会を開くまでに至る。演奏の記憶はすべて戻ったが、何かが狂ってしまった。卓越した技術ではむしろ以前を上回り、ミスも全くないほどなのに、自分にとって意味のある音楽ではなくなっていた。
「自分が道具で−−磨き上げられた残忍な外科手術用の鋼の刃で、使用に備えて砥ぎすまされ、殺菌された布の上に置かれている気がした。そして音楽、その指が生じせしめた音は、静寂をずたずたにする鮮烈で鋭い音の棘だった」
表面上は大成功に終わったコンサートのあと、音楽界の大物の家で開かれたパーティで、エレンは再びハープシコードに向かう。『ゴルトベルク』のアリア主題を、もう一度でいいから自分に聞こえている通りに弾けさえしたら−−。
指を機械的に鍵盤の上にすべらせながら、エレンの眼は、鍵盤の白と黒の迷路の上で複雑なゲームをくりひろげる二匹の痩せた鼠に吸いよせられる。やがて鼠は走るのをやめ、迷路はみるみる形を変え、パリンという音がしてグラスが割れ、血が流れ、頭の中ではひとつのふしが執拗に鳴りひびく。
「ジミーがとうきび碾いても知るもんか おいらの旦那はもういねえ」
バッハのかわりにエレンが弾いていたのは、『悪魔に食われろ青尾蠅』のメロディだった。
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