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執筆&インタビュー

新連載「6本指のゴルトベルク」/岩波『図書』 2006年7月号


  第1回 打鍵のエクスタシー 
 
  超優秀な精神医学者にして精神病者であり、悪の天才、食人鬼でもあるハンニバル・レクター博士は、完璧な多指症で左手の指が六本あった。『羊たちの沈黙』(一九八八)によれば、重複していたのは中指で、全く同じ形のものが二本ついていると書かれている。
  レクター博士は、『海底二万マイル』のネモ船長と同じようにバッハを熱愛している。ボルチモア州立病院の最厳戒棟の囚人だったときは、娘を誘拐された上院議員に情報を提供する見返りに、グレン・グールドの弾く『ゴルトベルク変奏曲』を差し入れてほしいと頼む。といっても、CDではなく、カセットテープというところが時代を感じさせる。
  いったい、どちらの録音かしら、とちょっと思う。グールドの『ゴルトベルク』には二種類あるからだ。全世界をうならせたデビュー盤は一九五五年、二十二歳の年に録音された。同じ曲を二度とリリースしない主義のグールドにしては珍しく、死ぬ前の年に再びレコーディングを行っている。ちょうどハリスが三部作の第一作『レッド・ドラゴン』を出した一九八一年だ。

  変奏曲は、ひとつのテーマをさまざまに変形させてオムニバス式につないでいく。不眠症に悩んでいたとある伯爵から、「眠れぬ夜の気分が晴れるような」作品を注文されたバッハは、サラバンドというゆったりした舞曲を主題に三十もの変奏をつくった。対位法といって、いくつもの線がからみあい、それを一本の手で弾きわけなければならない場面が無数に出てくるので、弾いているほうはなかなか癒されるどころではない難曲だ。
  たぶん、レクター博士が聴いたのは八一年盤の方だろう、と私は推理する。というのは、ハリスはこんなふうに描写しているからだ。
  独房の中で唯一一人になれる便器の蓋の上に腰をおろしたレクター博士は、洗面台に寄りかかり、顎に手を当てて目を閉じる。『ゴルトベルク』の構造が彼の興味をひく。  「また出てきた、サラバンドのバスの旋律進行が何度も繰り返される」  グールドのデビュー盤は若さあふれる演奏で、思う存分スポーツ的快感に浸ることができるが、八一年盤は楽曲の構造面に焦点を当て、ずっと緻密な演奏になっている。サラバンド主題も、デビュー盤の倍近く遅い。

  映画『ハンニバル』でも、冒頭シーンでこの八一年盤が流れるし、レクター博士の想いびと、FBI特別捜査官クラリス・スターリングが博士からの手紙を読む場面にも効果的に使われている。
  レクター博士自身もハープシコードの名手で、『ハンニバル』(一九九九)では、フィレンツェのカッポーニ宮殿に置かれた十八世紀の典雅な楽器で『ゴルトベルク』を弾く。
  私が気になって仕方がないのは、博士の六本指のことである。左手だけ中指が二本あるって、どんな感覚なんだろう? 最近リサイタルで『ゴルトベルク』を弾いた友人のピアニストによれば、バッハの複雑きわまる書法を完璧に演奏しようと思ったら、文字通り「指が六本ほしい!」くらいだという。もっとも、バッハの時代には指は三本しか使わなかったというから、六本もあったらムカデ競争になってしまったかもしれない。
  指には親指から順番に1、2、3、4、5と番号がふられ、中指は3にあたる。たとえばドレミファソラシドの音階を弾くとき、ドレミまでは順番に使って、親指をくぐらせてファを弾き、また順番に小指まで使う。下行は小指から親指まで漸次進行し、中指が親指の上をとびこしてミを弾く。これが、一九世紀はじめごろに確立されたヴィルトゥオーゾ的な指づかい。
  ピアノをおけいこしたことがある人なら、先生から楽譜に書いてある指づかいを守りなさい! と叱られた経験があるにちがいない。でも、指づかいは楽譜を校訂した偉いピアニストや教師がつける場合が多いから、すべての学習者に適応するとはかぎらない。

  グールドは、あらかじめ定められた指づかいに真っ向から異議をとなえる。自分は、楽譜に指番号を書きこんだこともなければ、楽譜の指示どおりに弾いたこともない。それどころか、三度と同じ指で弾いたこともない。楽器が変われば指づかいも組みなおさなければならない。すべては果てしなく相対的なのだ。
  運指法は時代によっても相対的だ。十六〜七世紀の鍵盤楽器では、ごく稀にしか親指と小指を使わず、使うのは真ん中の三本だけ。右手で上がるときは薬指と中指、下がるときは中指と人差し指を交替でつけるのが普通だった。チェルニーなどは、五本の指を均等に訓練するマゾヒスティックな練習曲をたくさん書いたわけだが、バロック期はもう少しのんびりしていて、よく動く指は「よい指」、あまり動かない指は「悪い指」とされて、一番「よい指」である中指を中心に指づかいを考えたものらしい。
  レクター博士の場合は、左手だけ「よい指」が二本あったことになる。もっとも、『ハンニバル』の博士は、身もとを隠すために六本めの指を除去している。フィレンツェ警察の捜査官リナルド・パッツィは、左手の甲に「比較的新しい」傷跡がついていることを確認する。レントゲン写真を見たFBI捜査官クラリスは、中手骨の関節は六つあるが、指は五本しかないことを確認する。ところで、このレントゲンを撮ったのが看護婦を襲った際に左肩を脱臼したときだとすれば、『羊たちの沈黙』のさらに前、『レッド・ドラゴン』時代のことなのだ。でも、『羊たちの沈黙』のレクターはたしかに六本指だったし。
  博士がどのタイミングで五本指になったにせよ、手術をした手では、ハープシコードを弾く上で相当なハンデがあったことはたしかである。野球選手と同じように、楽器を演奏する人は、よほどのことがない限り手にメスを入れたりしないものだから。

  ハリスもそんなところをくみ取って、カッポーニ宮殿での演奏を描写する。
  「完璧ではないが絶妙な演奏には、この曲の真髄への理解が滲みでている。絶妙ながら、完璧とは言い得ない演奏。左手の微かなこわばりが、そこには影を落としているのだろうか」
  とはいえ、楽譜は完全に頭の中にはいっていて、竪琴の形をした譜面台には『ゴルトベルク』ではなく、クラリスの顔写真を大きく印刷したタブロイド紙がひろげられている。
  「われらが楽人は微笑を浮かべて曲をひき終り、サラバンドの舞曲をおのれのみの愉しみのためにひき直す。最後に羽軸の爪で弾かれた弦が震えて大広間に静寂がよみがえると、両の瞳の中央に赤い点のような光が宿る」
  映画『ハンニバル』にも同じ場面が出てくるが、面白いのは、レクター博士がハープシコードではなくピアノを弾いているということだ。それもかなり大きなグランド・ピアノで、透かし彫りのある譜面台には、原作通りクラリスの写真つきの新聞が乗っている。
  どうしてピアノかというと理由は簡単で、レクター博士の演奏する姿にグールドの八一年盤の『ゴルトベルク』の音がかぶせられているからだ。

  考えてみれば、そもそも、グールドを好むレクター博士がハープシコードを弾くことからして矛盾しているのだ。なるほど、グールドはモダン・ピアノをハープシコードのように改造して、ポツポツ音の切れる楽器にしてしまった。ペダルも踏まず、からんとしたタッチで弾く。でも、本物のハープシコードとはまったく違う音色だ。フレージング、装飾音の入れ方などもグールドのオリジナルで、古楽の演奏習慣とはかけ離れている。
  バッハの時代には、もちろんモダン・ピアノは存在しなかったわけだから、古楽器愛好家の中には、心ひそかに、ピアノで弾くバッハなんて邪道だと思っている人もいるだろう。少なくともレクター博士は、そうした原理主義者の仲間ではなかったわけだ。
  グールドがピアノを弾く姿は、特異なものだ。超低い椅子に座って背中をまるめ、後頭部を肩の間に埋め込み、顎を上げ、口をあんぐりあけ、目を閉じて恍惚の表情を浮かべる。「打鍵のエクスタシー」などと人は呼ぶ。しかし、映画のレクター博士は背すじをすっとのばし、肩から腕を自然に垂らし、ごくごく模範的なスタイルで弾いている。
  撮影に立ち会ったカッポーニ家の末裔によると、レクター役のアンソニー・ホプキンスはピアノがうまく、撮影の合間に大広間のピアノで美しい曲を奏でていたという。グールドで「指ぱく」をやるかわりに、ホプキンスの自演という手もあったわけだ。

  映画『羊たちの沈黙』の脱獄シーンでも『ゴルトベルク』は流れるが、演奏しているのはジェリー・ツィマーマンというピアニストだ。グールドよりはロマンティックなスタイルだし、グールドが決してくり返さない主題のサラバンドをリピードしている。
  脱獄の準備は周到をきわめた。レクターが頬と歯茎の中に隠している金属のチューブは、心理学研究者が置いて行ったボールペンからとりだし、二ヶ間削って縦に切り口をつけたものだ。そこに、弁護士から送られた書類についていたクリップの一部が入れてある。腹下しを口実に便器に座り、チューブにクリップをとりつけ、切り口を曲げて鍵をつくる。右手の指の間に隠しておき、食事をもってきた看守の目を盗んで手錠の鍵をあける。看守に手錠をかけてこん棒で殴り殺す。このころには、『ゴルトベルク』のテープは第七変奏の快活なジーグにすすんでいる。
  白いシャツに血飛沫が飛んだままで目を閉じ、手で拍子をとり、ときおり体を回転させながらうっとりとカセット・テープに聞き入るホプキンス−レクターの表情は、打鍵のエクスタシーに身をまかせているグールドそっくりだった。

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