「ショパンの革命に続け! ドビュッシー12の練習曲 」(ショパン 2012年11月号)

12曲からなる練習曲は、ドビュッシー(1862~1918)の最晩年の傑作だ。そこには、ショパンの目指したピアノ技法を継承し、さらにそれを作曲技法にまで転換したドビュッシーの芸術の到達点が刻印されている。

ドビュッシーの《12の練習曲》(1915)は、デュラン社から依頼されたショパン全集の校訂の仕事に触発されて書かれた。〈3度のための〉はショパン《練習曲作品25》の6番、〈6度のための〉は同8番、〈オクターヴのための〉は同9番や10番を連想させる。〈半音階のための〉のルーツを作品10の2番、〈アルペッジョのための〉を同1番とみることも可能だろう。実際に、〈アルペッジョのための〉の初稿をロイ・ホワットが編集した〈13番目のエチュード〉は、決定稿よりはるかに〈作品10の1〉に近い。

『12の練習曲』を書くにあたって、ドビュッシーは、パリ音楽院入学前にピアノの手ほどきをしてくれたモーテ夫人への感謝を忘れなかった。確証はないが、モーテ夫人は一説にはショパンの弟子と言われている。少なくともドビュッシーは、デュランへの手紙で「モーテ夫人はショパンについて実に多くのことを知っていた」と書いている。

反チェルニー、ショパン礼賛の第1曲〈5本指のための〉

ここからは私の推測である。ショパンはピアノ技法に革命を起こした。彼が生徒たちのために書きかけていた『ピアノ教本』には、従来のピアノ奏法の常識を打ち破るような、目からウロコの驚くべき考えの数々が記されている。ショパンは、5本の指は長さもつき方も違うのだからこれを均等に動かそうとするのは無駄なことだと考え、チェルエーやリストの系譜に連なる練習法に異議を唱えた。彼が考案したのは、長い指が黒鍵に乗り、短い指は自然に白鍵に落ちるシステムである。ミ、ファ♯、ソ♯、ラ♯、シというこの音型は、シを半音上げれば、ドビュッシーの専売特許だった全音音階になってしまう。ショパンはさらに、すべての指が同一平面上に乗るハ長調はもっとも「難しい」と主張し、練習曲でも音階でも、嬰へ長調や変ロ長調から練習を始めるように指導した。ショパンの作品にシャープやフラットのたくさんついた調性が多いのもうなずける。

そこでドビュッシーである。《12の練習曲》第1番〈5本指のための〉には、副題として「チェルニー氏にならって」と書きつけられている。これをチェルニー礼賛と受け取る人は、ドビュッシーの人となりを知らない。希代の皮肉屋だった彼は、もちろん反対の意味で使っているのだから。

冒頭は単なるドレミファソで、「おとなしく」と但し書きがついている。ショパンが指摘したように「すべての指が同一平面上に乗る」ため非常に音がそろえにくい。苦労している左手を尻目に、右手が茶々を入れる。そうこうしているうちにテンポはどんどん上がり、ジーグのリズムでしめくくられる。

この練習曲の中間部は、ドビュッシーがモーテ夫人を通じてショパンの秘法を伝授されていた証だと、私は考えている。左手の音型はドビュッシーの専売特許の全音音階ではなく、ショパンが考案したシステムと同じ音列である。そして、曲の最後は、ショパンによれば「難しい」ハ長調ではなく、「楽な」変ニ長調の音階がものすごいスピードで走り抜け、とってつけたようにハ長調の和音のゴールに到達する。全編が反チェルニー、ショパン礼賛の練習曲である。

〈8本指のための〉も、ショパンの〈作品10の8〉との比較が興味深い練習曲である。ショパンのピアニズムの特徴は、親指の機能を他の指ときりはなして考えた点にある。彼は、音階やアルペッジョを弾く時も、指を1本1本ひきあげてタッチするよりは、グリッサンドのように横に運動を伝え、親指でつなぐ、方法をすすめた。〈10の8〉はそのよい例で、長い指を横にすべらせて使い、親指の返しで上下に移していく。ドビュッシーの〈8本指〉は、ここから親指以外の指の動きを抽出したものである。楽譜の下には、「この練習曲では手の位置がよく変わるので、親指の使用は不都合だろう」と書かれている。

ショパンのペダル技法が”響きの帯”を生んだ

ショパンとドビュッシーのピアニズムのもうひとつの共通点は、巧みなペダリングと、それ、によって得られる多彩な響きである。ショパンの礼賛者で、ドビュッシーのピアノの師でもあったマルモンテルは、以下のように回想している。

「ショパンのペダル感覚はすばらしいものであった。ヴェールをかぶせたような柔らかい響き出すのに、両方のペダルを組み合わせて使うことも良くあったが、それ以上にブリランテなパッセージや、息の長いハーモニーや、深い響きの低音や、鋭くて輝きのある和音には、ふたつのペダルを別々に用いたのである。さらにはウナコルダのペダルを用いて軽く微かな音を出し、細かいレースのようにメロディーを飾るアラベスクのまわりに、透き通った霧のような雰囲気を漂わせるのである」

ペダルで細かい音を混ぜて”響きの帯”をつくるドビュッシーの作曲技法も、モーテ夫人を通じて伝術されたショパンのペダル技法にヒントを得たものだろう。

さらにピアノ技法を作曲技法に転換させたドビュッシー

一方、3度や6度など重音の練習曲では、ショパンとドビュッシーでは少し方向性が違っていたように思う。ショパンの意図は、あくまでも独自の演奏技術の開発とその向上だった。3度や6度など重音の練習曲を書いたのは、指の分離、すばやい重心の移動、手指の完全な脱力をはかるためにそれが1番よい方法だったからである。一方、そこに結果としてあらわれたもの、3度や6度の音程関係から得られる固有な響きを素材に、全く新しい音世界をつくりあげたのが、ドビュッシーだった。

例えば〈6度のための〉について、ドビュッシーは以下のようなことを書いている。

「ずっと長い間、6度の絶え間ない使用は私に、とりすました若い令嬢が、奔放な9度たちのスキャンダラスな笑い声を密かにうらやみながら、サロンで陰気に”壁の花”をやっているような印象を与えてきたものです。そこで私はこの練習曲を作曲し、6度がそれらの音程の仲間入りをするのではないかと思うような大胆な使い方をしていますが、それは少しも汚くありません!」(1915年8月28日)

ショパンが扱っていない〈4度のための〉は、ドビュッシー独自の音楽体験から生まれた練習曲である。ローマ留学から帰った頃、ドビュッシーはパリで開かれた万国博覧会でジャワのガムラン音楽に接し、深い感銘を受けた。《版画》の〈パゴダ〉の4度の連なりに、ガムラン音楽からの影響をみる人は多い。ドビュッシーは、音響素材としての4度の連なりを、テーマ性のない、純粋な器楽曲でもう一度扱おうとしたのである。

しなやかさと繊細さを求めて編み出されたショパンのピアニズムは、そのまま、ドビュッシーの音響語法となった。筋力と柔軟性の問題をコペルニクス的に転換させたショパンに対してドビュッシーは、ピアノ技法と作曲技法を同じように転換してみせたのである。

ドビュッシー『12の練習曲』は1915年9月30日に完成され、「ショパンの思い出」に捧げられている。

ドビュッシー ピアノ作品全集ⅩⅠ 12の練習曲 中井正子校訂
ショパン/ハンナ  ISBN978-4-88364-244-1 1,575円

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