【連載】「よむサラダ ピアニストと娘」(読売新聞 2001年7月8日)

教育ママの けいこ事に嫌気
  試行錯誤しつつ「自分探し」

 高校生の娘は、私のことを「おたら」と呼ぶ。母の枕詞「たらちね」の前半に「お」をつけたものだ。私がトラ年生まれのこともあって、これがときどき「おとら」になる。
 ピアノ教授のほかにも講演や演奏で家をあけることも多い私だが、子供が学校から帰る時間帯にはなるべく家にいようとつとめている。ピアノの部屋は玄関のすぐそばにあり、書斎は廊下の一番奥にある。子供は帰るとまずピアノの部屋をのぞき、いないと書斎に顔をだす。半分略して「おか(えり)」と私が言うと、子供は「ただ(いま)」と返す。このあと彼女が聞くのは、晩ごはんのメニューは何か、ということである。気に入りのものだと「にゃお」と言い、あまり所望ではないもののときは「はぁ」とつぶやく。たまに、彼女の食べたいものとドンピシャのときがあり、それが出てくる気がした、と言うこともある。

 「おたらの子供に生まれながら不良にならなかった私って、すごいよね」と娘は自画自賛する。たしかに、そうかもしれない。二歳半になったときは、博士論文を書くと称して彼女を主人の母に託し、七か月もパリに行ってしまった。全然おぼえていないだろうとタカをくくっていたのだが、彼女はちゃんとわかっていて、「さびしかった」と独りごつ。帰ってからは保育園で面倒をみていただいたが、園につれて行くと、娘は当然のように保母さんの腕に抱かれ、決して泣かなかった。「あとでドカーンときますよ」と言われた。

 危ないな、と思ったのは小学校 4 年から 5 年にかけてのころだ。それまではヴァイオリンをおけいこし、私も練習につきあったりレッスンについていったり、いっぱしの教育ママをやっていたのだが、どうも楽器の勉強は性にあわなかったようだ。何もすることがない、何をしたいのかよくわからない、と毎日無為に過ごし、すねていた。
 しかし、その危機もいつのまにか一人で乗り越え、ヴァイオリンは趣味としてつづけることを決め、塾に通うようになった。大学受験を二年後に控えた今も、まだはっきりした目標はさだまっていない、と娘は言う。しかし、少なくとも彼女は、ふし目ふし目で自分をみきわめ、自分で進路を選びとってきた。本当はモノを書きたかったのに、両親の意向にそって楽器の勉強をつづけ、なぜか音楽高校も音大も受かってピアニストになってしまった私よりは、まわり道をしなくてすむのではないか、と思う。

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