【連載】「作曲家をめぐる〈愛のかたち〉第6回」(新日本フィルハーモニー交響楽団 プログラムエッセイ5 2004年4月号)

〈官能の愛〉

「”エロティック”な音楽など存在しない」と主張するのは、アメリカの作家・評論家コリン・ウィルソンである。「エロティシズムを生み出すのは聴き手の想像力の役目だ」

詳しくは大脳生理学の助けでも借りるしかないが、音楽が官能にある種の作用を及ぼすのは、たしかなことだと思う。その証拠に、フランス象徴派の詩人ボードレールは、ワーグナーの序曲や前奏曲に強烈な「肉感的逸楽」を感じたのだから。

音楽評論家の石井宏は、次のように書く。

「人は程度の差こそあれ、だれでも、あの《トリスタンとイゾルデ》の序曲の中で、次第に高潮しながら、何度もあの愛の動機群が呼び合い呼び返す瞬間に立ちあったりすれば、あるいは《タンホイザー》のヴィーナスの音楽を聴けば、なにがしかの性的な興奮に襲われざるにはいない。それはワグナーの音楽の持つ魔性として、大方の認めるところである」(『エロスの三面鏡-ワーグナー、モーツァルト、R・シュトラウス』)

『タンホイザー』「序曲」など、敬虔な雰囲気を湛えた主部ですら、半音階的にずりあがっていく場面ではどこかしらむず痒い感じをおぼえるから不思議なものである。

たまらなくなるといえば、ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第二番』。デイヴィット・リーンの映画『逢いびき』などは、それをうまく利用している。

ラヴェルの『ボレロ』も、小説や映画のエロティックな場面でよく使われる。阿波踊りでもサンバでもそうだが、反復するリズム・オスティナートはそれだけで催淫効果がある。初演に接したある老婦人が半狂乱に陥り、「ダメよ! ダメよ! ダメよ!」と叫んだのは有名な話だ。この話をきいたラヴェルは、「彼女は・・・理解していたのだ!」と感想を漏らしたという。

ベンジャミン・イヴリーによれば、『ボレロ』は、アメリカでヌードショーのBGMとして使われていた。映画『テン』には、『ボレロ』を聴かないとメイクラヴできない女性が出てくる。少し古いが、堀田善衛の自伝的小説『若き日の詩人たちの肖像』でも、『ボレロ』を聴くうちに射精してしまう少年の姿が描かれる。

ドビュッシーの音楽も、エロスと結びつけて語られることが多い。五味康祐は管弦楽のための『映像』の「雲」を聴いて性的エクスタシーをおぼえ、三枝成彰は高校生のころ、オペラ『ペレアスとメリザンド』に音楽的エクスタシーを感じたという。

なかでも、そのものズバリ〈官能の愛〉が立ちのぼってくるのは、『牧神の午後への前奏曲』である。マラルメの長詩『半獣神の午後』から得た感興を発展させ、「熱烈に背景を置いた」作品だ。『牧神』がまだ構想段階のころ、ドビュッシーにピアノで弾いてもらった世紀末詩人アンリ・ド・レニエは、「蒸し風呂のように暑い」と評している。

『牧神の午後』と〈官能〉のかかわりは、複雑で入り組んでいる。マラルメの長詩の前身『半獣神の独白』では、ニンフを取り逃がした牧神の欲望が、かなりあからさまな形で歌われていた。しかし、推敲を重ねる段階で急激な抽象化・客観化が行われる。言葉のもつ意味は可能な限りそぎ落とされ、牧神の欲望は観念的なエロティシズムに転化されていく。マラルメは、自分自身が音楽をつくったつもりだったのだ。

それを読んだドビュッシーは、マラルメが骨を折って隠そうとした赤裸々なエロティシズム──牧神のニンフへの欲望──を汲みとり、想念に旋律と響きとリズムを与えた。

一八九五年十月、彼は自作について次のように要約している。

「それはたぶん、牧神の吹くフルートの底に夢としてとどまっているものではないでしょうか? もう少し正確に言うと、それは、詩の全般的な印象なのです。(中略)最後のところは、最後の詩句をのべひろげたものです──ひとつがいの女どもよ、お別れだ。君たちの成り果てた姿を見に行こう」

初演の前、ドビュッシー自身のピアノで『牧神』を聞いたマラルメは、長いこと黙っていた末に、「こうしたものは思いもよらなかった!」と語ったという。初演後に寄せた言葉からも、巧みなレトリックの影から、かすかなとまどいが伝わってくる。

その十二年後、ロシア・バレエ団の高名な踊り手ニジンスキーが『牧神』に振り付けして踊り、音楽であるがゆえに抽象的なままでとどまっていたエロティシズムに動作という形を与えたため、今度はドビュッシーをとまどわせることになる。

とりわけ「最後の詩句」にあたる部分、ニンフが残していったヴェールをかき抱く牧神の痙攣するような身振りは、性愛におけるエクスタシーを連想させるとして、パリ中に大スキャンダルを呼び起こした。

保守的な新聞『フィガロ』の主筆が猥雑さを非難すると、すかさず大彫刻家のロダンが『ル・マタン』紙で反論し、ニジンスキーの踊りを絶賛した。ドビュッシーは、オフィシャルには何も発言しなかったが、個人的にはあまりいい感情を抱かなかったらしい。彼は同性愛者ではなかったし、ニジンスキーのようなマッチョは好みではなかった。

ドビュッシー音楽におけるエロスは、他の作曲家とは少し違っていたように思う。ワーグナーは、自分の音楽が聴衆の生理に及ぼす効果をよく知り、研究していた。ラヴェルが「性的効果」を念頭に置いていたことも、『ボレロ』のエピソードでよくわかるだろう。 

対してドビュッシーは、官能的な効果をもたらすというよりは、人々の潜在意識の底で蠢く〈官能の愛〉そのものを音楽にしたとは言えないだろうか。勝手に沸き起こり、勝手に渦を巻き、勝手に鎮まっていく。交響的エスキス『海』など、エロスの海のように聞こえてならない。

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