「ラフォルグ抄」(2009年 文藝春秋)

一冊の書によって影響を受けたことは、なかったような気がする。

私と本とのかかわりは、おそらく次のようなものだろう。ごく幼いうちに「私」というものは確立され、ただ、その「私」が「私」のままで生きようとするとさまざまなシーンで衝突するので、無意識のうちに、自分と同じようなものの感じ方、考え方、行動をする人物が出てくる物語やノンフィクションを求めて読むようになった−−。

吉田健一の『ラフォルグ抄』(小澤書店)は、フランス象徴派の詩人ジュール・ラフォルグが、わずか二十七歳と四日の生涯の終わりまで書いていた『最後の詩』や『伝説的教訓劇』の翻訳をおさめた書である。これらの詩や散文のどのページにも満ちている、善意のニヒリズムというようなものに、私は自分を代弁してもらっているような気持ちになる。

たとえば、『最後の詩』の「日曜日」という詩の次のくだりが好きでたまらない。

 要するに、私は、「貴方を愛してゐます。」と言はうとして、
 私自身といふものが私にはよく解つてゐないことに
 気付いたのは悲しいことだつた。

そして、「余程暇な時でもなければ私自身といふものが信じられない私」が「タ方、一番美しい薔薇の花が散るのを/ただ見てゐなければならない刺と同じ具合に、/私は許嫁(いひなづけ)が自然のなり行きで姿を消すのを/止めることが出来なかつた」というパラグラフを自虐的に反芻(はんすう)する。

このようにして私も、すべてのチャンスが自然のなりゆきで「私」を通りすぎるのをただ見てきたのだ。初恋もコンクール入賞もパリ音楽院留学も。

でもそれは、私が自分自身を信じていればおそらくゲットできたものだし、また、私が自分自身のことをわかっていれば、ゲットすることすら考えなかったものだろう。

チャンスはときに罠となり、挫折はごく稀にチャンスとなる。

少なくとも私がパリ音楽院への給費留学生試験を受けるべき年に病気していなかったら、大学院にすすんで修士論文を書くこともなかったろうし、論文を書いていなかったら、フランス近代の作曲家ドビュッシーに出会うこともなかったろう。

さらに、もし私がラフォルグに親しんでいなかったら、ドビュッシーの書簡を読んで次のような一節に反応することもなかったはずである。

ローマ留学中の一八八六年、ドビュッシーはパリの書店にさかんに注文の手紙を書いている。

「以下の本をお送りください。ジャン・モレアスの『カンティレーヌ』と『ミランダ家の茶会』、ラップ訳の『シェリー全詩集』。「ヴォーグ」をありがとうございました。この中には、ステキに常軌を逸した連中がいます。

その年に創刊された「ラ・ヴォーグ」は、一八八四年刊行のヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』とユイスマンス『さかしま』によってにわかに沸き起こった象徴派・デカダン派の潮流を反映させた、最先端の文芸誌である。

わずか一年しかつづかなかったこの雑誌のラインナップは恐るべきもので、ヴェルレーヌ『呪われた詩人たち・増補』やランボーの『イリュミナシオン』『地獄の季節』と並んで、ラフォルグの『伝説的教訓劇』から「ハムレット」や「サロメ」や「ペルセウスとアンドロメダ」も連載されていた。

神話や伝説や古典のパロディともいうべき『伝説的教訓劇』を私はどれほど耽読したことだろう。

アンドロメダは怪物と楽しく暮らしていたのに偽善者のペルセウスにそれを邪魔されて怒っている。サロメは七色のヴェールの踊りを踊るかわりに大演説をぶち、褒美として与えられたヨカナーンの首に電気ショックを与えて蘇生させる実験を試みる。「ラ・ヴォーグ」を定期購読していたドビュッシーもまた、ローマでこれらを読んだのだ。読むばかりではなく、原稿のありかまで知っていたのだ。のちに先輩作曲家のショーソンから『伝説的教訓劇』の手稿についてきかれたドビュッシーは、象徴派の機関紙「独立評論」の編集長が持っており、競馬で負けないかぎり手放さないだろうと答えている。

ドビュッシーの書簡には、ラフォルグからの引用が多い。彼の口ぐせだった「幸福マニア」は『月のソロ』からの引用だった。もうひとつの口ぐせ「虚無の製造工場」も、二度目の妻への呼びかけ、「私のいとしい人へ」もラフォルグの詩句からの無意識の引用だった。

こうして私は、ラフォルグを通して身近に感じていたメンタリティというものをドビュッシーの中にふたたび見いだした。そして、そのことによって、自分はドビュツシーを知る前からドビユッシーを知っていたのだということに−−気付いたのだった。

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