【書評インタビュー】「いまこそ読みたい『この2冊』」(サライ 2016年6月号)

豊富な資料と新解釈に満ちた、偉大なふたりの音楽家の評伝

(編集部聞き書き)

『モーツァルト最後の四年 栄光への門出』
クリストフ・ヴォルフ著 礒山雅(いそやまただし)訳
春秋社(03・3255・9611)2500円

推薦するのは、偉大なふたりの音楽家の評伝です。『モーツァルト最後の四年』は、既存の像を覆(くつがえ)す斬新さに満ちています。35歳で夭折(ようせつ)したモーツァルトの評伝は、常に暗澹(あんたん)たる雰囲気に包まれていました。晩年には多額の借金を抱え、コンサートにも聴衆が集まらなかった。死者を弔(とむら)うミサ曲「レクイエム」の作曲を依頼されると、それが自らのレクイエムとなるかのように亡くなった、と。

でも本書は、モーツァルトの人生最後の4年間を輝かしいものと捉えています。オーストリアの宮廷作曲家に任命されたモーツァルトは固定給をもらい、その経済的基盤のもと一軒家を購入した。そして音楽の新しい地平を拓(ひら)く大傑作を書きたいと、希望とともに邁進(まいしん)したというのです。その証拠として彼の年俸を明らかにし、逝去する1年前に綴(つづ)った〈いま僕は幸運の扉の前に立っているのです〉という手紙の存在も明示します。

モーツァルトは楽譜の断章を数多く残していました。でもそれも、決して苦悩の表れではない。彼は複数の曲を頭のなかに完壁(かんぺき)に作り上げていて、その断片を備忘録として五線譜に書き記していたのです。それを証明するのが〈作曲しましたが、まだ書き下ろしていません〉というやはり手紙の一文です。まるでコンピュータのホルダーのように多数の曲を脳内に収めていたその作曲法を知り、衝撃を受けました。そういう作曲の様子も含めて本書のモーツァルト像には臨場感があり、彼の仕事場に紛れ込んだような感さえ抱きます。

知られざる世界的音楽教育家

『ナディア・ブーランジェ名音楽家を育てた”マドモアゼル”』
ジェローム・スピケ著 大西穣(じょう)訳
彩流社(03・3234・5931)2800円

もう一冊の『ナディア・ブーランジェ』は、ある音楽教育家の人生を綴ったものです。ナディアはクラシックに止(とど)まらず、ジャズやポップスなど多くの20世紀音楽家に影響を与えました。タンゴの革命児として名高いピアソラもそのひとりです。彼はクラシック作曲家を目指してフランスへ渡り、ナディアに師事します。でも彼女は、ピアソラの作曲に少しも満足しませんでした。ある時、《彼のタンゴの即興演奏が素晴らしい》と聞くと、嫌がるピアソラを説き伏せて演奏させます。そして《これこそあなたの分野です》と明言するのです。ナディアは各人の才能を的確に見抜く力を持ち、さらに自身の考えを生徒に押しつけることなく、多様な個性を容認できる広大な心の持ち主でもありました。

そんな彼女の鑑識眼を物語る逸話があります。1950年代、現代音楽は難解であるほど高尚とされ、評論家も聴衆もわけがわからないまま熱狂していました。ナディアはそれに対して、《馬鹿げている》と怒った。《知性は大事です。でも、音楽は知性と情緒の両方を満たすものでなければならない》。その言が正しかったことは、現在では非人間的な音楽が廃(すた)れてきたことでも証明されています。

本書には、指揮者バーンスタインが晩年のナディアを訪れて神のようにかしずく写真やドビュッシーの手紙なども掲載されています。そんな貴重で豊富な資料もまた、この本の大きな魅力のひとつです。

2016年5月24日 の記事一覧>>

より

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