国際的な視野に立って〜安川加壽子記念コンクール(日本ピアノ教育連盟会報2016年冬号)

開催が延期されていた第8回安川加壽子記念コンクールが2016年6月、実施の運びとなったのは誠に喜ばしいことである。

この機会に、連盟の初代会長でいらした安川加壽子先生のことと、先生のお名前を冠したコンクールの意義などについて少し述べたいと思う。

1922年生まれの安川先生は、お父さまのお仕事の関係で1歳2ヶ月でパリに渡り、コルトーの門下生であるジロー・ラタス女史に手ほどきを受けた。パリ音楽院ではラザール・レヴィ教授に師事し、1937年に一等賞を得て卒業。同期卒業生には、1951年ロン=ティボー国際コンクールで大賞を得たジャニーヌ・ダコスタや、高名なヴァイオリニストのヘンリック・シェリングの名も見える。ピアノ科卒業後に学んだ和声法のクラスでは、のちのパリ音楽院教授ピエール・サンカンや、作曲家アンリ・デュティユー夫人、ジュヌヴィエーヴ・ジョワが同級だった。戦争のために帰国を余儀なくされなければ、安川先生もフランス及びヨーロッパで華やかな演奏活動を展開なさったことと思われる。

こうした出自に加えて先生は、国際連盟で重要な役割を果たしたお父さまから国際的な視野を受けつぎ、いつも世界の中に日本を置いて考えるという姿勢を貫いていらした。

1939年、17歳のときに第2次世界大戦が勃発したため帰国。1940年12月、ローゼンシュトック指揮の新交響楽団(現在のNHK交響楽団)との共演でデビューを飾っている。ドイツ系の重厚な演奏が主流だった日本のピアノ界にとって、当時草間加寿子の知的で優雅で洗練されたスタイルは大変な驚きだったという。

以来、洋楽黎明期の日本でさかんな演奏活動を行いつつ、芸大や桐朋、大阪音大などで教鞭をとり、日本演奏連盟や日本ショパン協会、そして日本ピアノ教育連盟の長として、日本ピアノ界を文字通り牽引してこられた。

先生のグローバルな視点に刺激されて、戦後の日本ピアノ界はめざましい発展を遂げた。国際コンクールの入賞者も多く輩出されたが、ヨーロッパに定着して活発な演奏活動をおこなっているピアニストは意外に少ない。先生はエリザベート王妃やショパン、ジュネーヴ、ロン=ティボーなどの国際コンクールの審査員に招かれるたびに、世界のピアノ界と比較して日本は何が足りないか、どこが弱いかをいつも考えていらした。

日本のピアノ界が、多少硬くても「より強く、より速く」だった時代に、脱力や柔軟性の必要性を説き、色彩とリズム、様式感に目を向けるように指導されていた。その点が改善されなければ、国際舞台に立ったときに通用しないからである。

1973年にジュネーヴ国際コンクールの審査に招かれたときは、日本演奏連盟の会報で問題点に鋭く切り込んでいる。

「私はかつて田中希代子さん、柳川守さん、山根弥生子さん等、1953年にパリの音楽院の卒業試験で聴いたときのことを思い出す。(田中さんは、すでにその一年前に卒業してコンチェルトの伴奏で第2ピアノを受けもっていた)。

その頃の日本人は、欧州人とちがった、まったく冴えたタッチと美しい音を持っており、まるで楽器がちがったかと思わせるように、ピアノの音がちがってきこえてきたのです。今の日本人の音を聴くと、その頃のような『ちがった音』ではなく、力強い音ではあるが、昔のように『音』自体のもつ、ある美しさがなくなってしまったように思われてならない。日本人の技術はすでに国際的に通用するところまで達している。けれども、その上の段階、音楽家として世界的に通用するには、まだまだ時間と研究を重ねることがどんなに必要かを痛切に感じさせられた」(「えんれん』1973年ll月号)

それから43年が経過したこんにちでも、問題はあまり解決されていないように思う。音色の魅力は、声楽家、管・弦楽器奏者であればまっさきに追求するものだが、鍵盤を押せば一応音の出るピアノではないがしろにされがちで、日本はとくにその印象が強い。

この点で優れているのは、ロシアのピアニズムである。モスクワ音楽院には、学生への指導の一環として管弦楽曲をピアノ用に編曲する伝統があるときく。オーケストラのさまざまな楽器の音色をピアノに託す努力から豊かな色彩感が生まれるのだろう。

1975年、エリザベート国際コンクールに日本人としてはじめて審査員に招かれた安川先生は、世界との差をさらに痛感されたようだ。「私は1970年代から20年ほど各地の国際コンクールを見てまいりましたが、忘れられないのは1975年のエリザベートのコンクールの後でしたでしょうか。私は『日本人が本当に人を感銘させる演奏ができるようになるまであと半世紀はかかるだろう』と実感したんですね。『ああ50年!』と思わず溜め息をついたものでした」(『日本ピアノ教育連盟10周年記念誌』)

1976年には、スペインで開かれたハエン国際コンクールの審査をつとめた。このときは愛弟子の津田理子さんが優勝したのだが、安川先生のスタンスはあくまでも公平で、新聞のインタビューに答えて「演奏は非常にまとまっていてよかったし、テクニックも他の人より一段とすぐれていた」と語りながら、以下のようにつづけている。

「ただ2位になった中国のかたの演奏などは特徴のある、音に対してゆきとどいた神経を使った息の長い演奏で、たとえばピアニッシモなら最後までそれでとおしていくとか、とにかく自分の言おうとしていることを強くおしていく、そういうところは日本人にはやはりかなわない面です」安川先生は日本演奏連盟の会報でも「外国のかたは、”この作品を通して自分は何をいいたいか”つまり自分のやろうとしていることがはっきり出てくるのです。日本人はそういうことはわりと苦手で、弾くだけで精一杯とか、何を言いたいか、または訴えたいのかが非常に平坦になってしまうようです」と指摘されている。

2015年にショパンやチャイコフスキーなど主要国際コンクールを観戦した私も、残念ながら同じような感想をもつ。ショパン・コンクールでは韓国のチョ・ソンジンが優勝し、3位から5位までを中国系のアメリカ人やカナダ人が占めた。浜松国際でも中国系アメリカ人のピアニストが3位に入賞している。同じアジア系でも、彼らはプレゼンテーション能力に優れ、自分の信じる音楽を高らかに謳いあげていた。また、そうした自発性をもつコンテスタントほど成功したように思う。

欧米のピアニストもしかり。チャイコフスキーに出場したルカ・ドゥバルグは、強烈な自己主張が受け入れられて4位入賞を勝ちとった。ショパン・コンクール2位のシャルル・リシャール・アムランも読譜能力に優れ、自らの解釈を見事な技巧をもって実現させていた。

日本で指導していつももどかしく思うのは、学生たちが非常に従順で、何を言っても反論しないことである。解釈はひとつではなく、こちらはその一例を示しているだけなのだから、ときに「自分はそう思わない」と言ってくれてもよいように思う。それに対して指導者は、「それは楽曲の性格、あるいは作曲者の意図に反する」と正したり、「その方向ならこのように」とか「こうした奏法を使ったほうが」とアドバイスできるというものだ。こうした受け身な姿勢は日本人の美徳のひとつでもあるが、国際舞台で丁々発止とわたりあっていく上ではマイナスになる。

かといって、やみくもに自由に弾くのがよいというものでもない。演奏とは作曲家の創造した作品を再現する作業であり、テキストを深く読み込むことによって、オリジナルかつ説得力のある解釈が生まれるだろう。

もうひとつ日本人に足りないのは、演奏するプログラムのテーマ性である。ただ弾きやすいもの、評価の高いものを並べるのではなく、自分なりの意図をもって選曲し、何かひとつの筋を通せば、聴くほうも取材するほうも興味をひかれるだろう。安川加壽子先生は長い演奏活動の中で、身をもって「筋の通ったプログラム」を示してこられた。

第8回安川加壽子記念コンクールでは、海老彰子、小川典子各氏をはじめ、国際的に活躍するピアニスト、国際コンクール経験豊富な著名ピアノ教育者が審査にあたる。これまで述べたような「作曲家の意図を尊重した上での自発性」「美しい音色」「テーマ性や独創性の感じられる選曲」などを尊重して審査されるコンクールになるだろう。

2次予選と本選会は浜離宮朝日ホールで開催される。最適のアコースティックを設定するために、安川先生がアドバイスなさったホールである。シューボックス型で、無理矢理に弾くと音が割れてしまうが、自然に無理なく響かせれば、ホール全体が楽器のように鳴り渡る。是非その感覚を体験してほしい。

今回は、長いキャリアを誇った安川先生に倣って、年齢制限の上限を取り払った。勉強さえつづけていれば誰でもエントリーすることができる。そしてまた、入賞者のうち一名には、オクタヴィア・レコードでのCDレコーディングの機会も与えられる。録音の現場では、とりわけ「自発性」「テーマ性」が重要になってくる。

このような特徴をもったコンクールに是非多くの方が応募してくださることを願っている。

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