私の考える理想の音楽指導者(児童心理 5月号)

私の考える理想の音楽指導者

――音楽を愛し、たゆまぬ努力ができる音楽家を育てるために

一九八〇年にフランス留学から帰国し、理想に燃えて子供たちを教え始めてから、もう三十年以上が経過した。そこで得た教訓とは、目先の成功にとらわれることなく、長いスパンで地道に活動していく音楽家を育成するのが一番ということである。

クラシック音楽をとりまく環境は年々厳しさを増している。子供の数は減り、音大は経営が厳しく、教師の新規募集をしないところが多い。各自治体も文化予算が削られ、ホール主催公演を打ちにくくなっている。一流音大を出ても、海外の有名音大に留学しても、就職先も演奏の機会もなく、勉強で得たものを社会に還元できないケースが多くみられる。

内外のコンクールで輝かしい成績を得て、華々しい活動を開始しても、毎年新人がデビューするので長続きしない。大震災以降コンサートの聴衆ばなれもすすみ、自宅で個人レッスンをおこなうかたわら勉強をつづけ、成果を自主リサイタルで発表する図式もくずれてきた。

ほぼすべての「形」が崩壊した現在、何が求められ、何がモノを言うかというと、心から音楽を愛し、作曲家の真意をくみ取って自分なりの音に還元することのできる演奏家である。どんな場でも真摯に演奏し、聴衆に自分なりのメッセージを届けることのできる弾き手である。書くのは簡単だが、実行はそんなに簡単ではない。
その意味で、私の恩師安川加壽子先生は、考えられるかぎり理想の指導者だったと思う。

先生のお宅には、小学校にあがる前から伺っていた。といっても暮れの発表会前の一、二度で、普段は門下の若い先生に指導していただいていた。

安川先生のお宅は南青山で、付き添いの父親がベルを鳴らすと、お母様が出ていらして丁寧に挨拶してくださる。レッスンが終わると、次の生徒の指導にかかる先生のかわりに玄関に出てきて、丁寧に送ってくださった。そのとき、「今日のレッスンは如何でしたか?」ときかれ、「頑張ってくださいね」と励まされた。
子供のころは他意なくきいていたが、のちに先生の評伝『翼のはえた指』(白水Uブックス)を書いてお母様のステージママぶりを知るに及んで、もしかすると、その「頑張って」には別の意味も含まれていたのかもしれないと思うようになった。
安川加壽子先生は外交官の家に生まれ、一九二三年、生後一年でパリに渡った。コルトー門下の先生に手ほどきを受けたあと、パリ音楽院でラザール・レヴィに師事し、一九三七年に一等賞を得て卒業した。パリで勉強をつづけるかたわら演奏活動を開始していたが、三九年、第二次世界大戦の勃発によって帰国を余儀なくされた。

パリ音楽院卒の先生は、当時の日本のピアノ界の水準をはるかに超える特別な存在であり、四〇年の東京デビューは、わずか十九歳という年齢と可憐な容姿、フランス仕込みの優雅な演奏スタイルと完璧な技巧で一大センセーションを巻き起こした。戦時下にもかかわらず、協奏曲演奏やリサイタルなど、活発な演奏活動にはいる。

終戦後はピアノ教師としての活動も始まった。一九四六年八月には、東京音楽学校(現在の東京芸術大学・安川先生は五二年から教授)の講師に就任している。戦前のピアノ教育界を牽引した井口基成が占領政策への反発から依願退職したという事情もあるが、二十四歳という、学生とあまり変わりない年齢での抜擢だった。

井口基成の門下生を継承した安川先生は、金澤桂子、井上二葉、田中希代子などすぐれたピアニストを世に送り出すいっぽうで、自分が受けてきたフランスの教育を日本の子供たちにも施そうと、「メトード・ローズ」や「ピアノのテクニック」などの教本を翻訳して出版し、卒業生の助けを得て小・中学生の教育にもあたった。
私もその時期の生徒である。しかし、当時の安川門下は、対立がささやかれた井口門下に比べてコンクールや音高・音大の入試に弱く、流派としての結果を出すまでに長い時間を要した。

先生ご自身が必ずしも初期教育に適した指導者ではなかったように思う。音楽の本場で最高のエリートたちの間で修行を積んだ先生は、まだ黎明期にあった日本ピアノ界にあって、生徒のレヴェルまで降りてきて、手取り足取り教えることをしなかった。また、成果が上がりそうな生徒だけを特訓するような先生でもなかった。

パリ育ちで夢もフランス語で見るほど、日本語は流暢ではなく、語彙も少なく、レッスンでは「急がないで」「はずさないで」などふたこと、みことに限られていた。音楽的にも技術的にも才能に恵まれすぎて、生徒がどうして弾けないのかわからない様子でもあった。

それでも、音楽のツボをおさえた指導は貴重ではあったが、促成栽培には向かない。他の門下では、試験やコンクールが近づくと課題曲にしぼってレッスンし、直前には長時間の特訓をする先生もいたが、安川先生はそうした特別なことはせず、練習曲やバッハなど基本的な課題とあわせて勉強させる。多くの曲目を平行して練習する訓練にはなるが、少し力が足りない生徒の場合はどうしても課題曲が仕上げ不足という事態も起きる。

結果として、芸大の付属高校のような難関校の入試では、もう少し面倒みのよい先生の門下生のほうがたくさん合格した。そうすると、クラスの制限人数を超えてしまうので、合格者数の少ない安川クラスに配属されることになる。至れりつくせりの指導に慣れているため、勉強が間に合わず、三年後の芸大入試で失敗すると、また元の先生に特訓してもらって合格する。すると再び安川クラスに配属される・・・というようなことが起きた。

これは、世間的にはむしろよくない先生である。しかし、芸大付属高校や同音楽学部のように将来プロをめざすエリート集団に、少し力の足りない学生がはいって、果たして幸せだろうか。長い目で見るなら、むしろ進路を早く転換させるチャンスではないだろうか。そういう風に考えることもできる。

もちろん、入学時にはやや遅れていても、難関校に合格したことで自信をもち、驚異的に力をのばしたり、のちの音楽シーンを支配する有能な人材と出会い、室内楽や伴奏の分野で活躍する人もいる。あくまでもケースバイケースなのだが、ときには、合格しただけで将来を約束されたと勘違いし、地道な勉強をやめてしまったり、生活面で乱れが出る生徒もいる。

ピアノ教師としてのステイタスは、門下生の成績で決まる。音高や音大に数多く合格させれば、優秀な先生という評判がたち、さらに優秀な生徒が集まってくる。だから、入試やコンクール前は毎日六時間ぐらい特訓するケースもあると伝えきく。優秀な生徒は自分の家に泊めて朝な夕なにレッスンする先生もいるらしい。「私の言う通りに弾けば合格します」と解釈を口うつしのように教える先生の話もよくきく。それは、本当にその生徒のためを考えてのことなのか、もしすると、先生自身のためではないか・・・。そんな疑問も沸いてくる。

一九六四年に安川先生は、ピアノ教育についてこんなことを語っている。

「私は一人の生徒を仕上げると云った事はあまりやりません。自分の素質を自分で探し出せるように導きたいと思っております。コンクール等一つの目的の為だけには教えておりません。そして自分の素質というのは見つけ出すのがとてもむづかしいけれど、一度見つけ出したらすばらしい成長ぶりを見せるようになります」

ここには、目先の成功を求めて特定の生徒だけに肩入れすることはしない、競争原理にまどわされることなく、かかわる生徒一人一人の「素質」に合った音楽とのかかわり方を「自分で」見つけ出すように導くのがよき指導者だという先生の考え方が簡潔に示されている。

ピアノ教育界に蔓延している競争原理は、多くのピアノを学ぶ子供たちやその家族を蝕んでいる。私がピアノのけいこを開始したころには思ってもみなかったような数のコンクールやオーディションが実施され、子供たちは他人と比較され、いやというほど優越感や敗北感を味わって大きくなる。しまいには、音楽を愛しているから、ピアノが好きだから練習するのか、負けたくないから弾いているのかわからなくなる。

競争原理に支配されているスポーツの世界ですら、一流の選手たちは結果よりも「自分なりの理想を実現すること」を目標に掲げる。それが達成できたときに必然的に結果がともなうのがもっとも幸せな形だと、インタビューなどでくり返し語っている。

しかし、現在のピアノ教育現場では、コンクールやオーディションで「目先の成功」を追うことを義務づけられ、先生の奏法や解釈を盲目的に受け入れるケースも多くみられる。「自分なりの理想」を打ち立て、追求する時間も機会も、そして姿勢も得にくいだろう。

長いスパンでピアノ界を見てくると、面倒みのよい先生の門下生よりも、むしろ放任主義の先生の生徒のほうがあとになって伸びているのである。先生は細かく指導してくださらないので、自分で考え、自分で探す習慣がつく。少し遠回りかもしれないが、結果としてはそのほうが本物の実力として身につく。

安川先生は指導者としては不器用だったが、優れたピアニストであり、生徒がレッスンでまごまごしていると、自分でピアノに向かい、その箇所を弾いてくださる。その演奏の見事だったこと。といっても、すぐに実践することはできないのだが、どうしたらあのように弾けるのだろうとピアノ技法について研究するようになった。先生は、ご自身の解釈を口うつしに教えるかわりに、音楽の基本的な文法をおさえ、楽譜から作曲者の真意を読み取るという、一番の基本を教えてくださった。少しでも自分勝手に弾くと、厳しく叱責された。しかし、テキストを深く読んだ上での解釈には実に寛容だった。

先生は、テクニック面でもご自分の奏法を強要することはなかった。しかし、不自然な弾き方をしたり、肩や肘に余計な力がはいっていたり、楽器を乱暴に扱ったりするとすぐに指摘された。生徒はおのずから、自分に最も適している奏法を探し求めるようになった。

多くのピアニストが、教育に忙しくなると演奏活動をやめてしまう傾向にあった時代、安川先生はどんなに忙しくても演奏活動をつづけた。芸大で教えたあとでホールに行き、リハーサルに臨むこともあったし、レッスンの合間にその日のプログラムを練習することもあった。

多くの著名ピアニストが、重要なコンサートとはそうではない公演で演奏内容を変えるのに対して、安川先生はどんな小さな会場でも、中央でも地方でも誠意をこめて演奏した。手を抜くということを一切しなかった。

そんな先生の活動ぶりを目の当たりにしている門下生は、次のことを心に刻んだ。先生ほどのすばらしい才能に恵まれないのは仕方ないとして、自分たちも、自分なりの「素質」を生かす方向で、できるかぎり息の長い活動をつづけよう、音楽にかかわる者として、演奏と教育を平行して深めていこう、そして、どんな場所でも聞いてくださる方がいるなら一生懸命演奏しよう、と。

これからも安川加壽子先生の有形無形の指導を糧として、さらに精進していきたい。

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