「ヴぃた・読書ありす」(新潮 2002年4月号)

本は、気がついたらそこにあった、としかいいようがない。私のこれまでの人生のどの局面についてもいえることだが、読書に関しても、全くの受け身である。

数年前、ある友人に神田神保町の出版社を紹介してもらった。待ち合わせ場所としてその友人は、当然のように、駿河台下の三省堂書店・・・と言った。三省堂ってどこにあるの? と私はきき返したものだ。私が通った東京芸大の付属高校というのは、アテネ・フランセの裏の通りにあって、昼食はしばしば明大の食堂(カレーが百円だった!)に食べに行っていたにもかかわらず、である。友人は、嗤って、じゃ、カザルス・ホールの前で、と言った。ピアノ弾きの私は、そこならよく知っていた。

亡祖父もそう本を読む方ではなく、井伏鱒二の追悼記事で、「青柳君は僕のものは、処女作一篇のほかには五篇か六篇か、それも書きだしの五、六行しか読んでいないようであった」(『青柳瑞穂と骨董』)などと揶揄されたぐらいだが、彼の翻訳した本や、翻訳をおさめた文学全集、周辺の阿佐ヶ谷文士たちや仲間のフランス文学者から送られてくる献呈本だけでも、かなりの数にのぼる。

その祖父に反抗していた父は、祖父がフランス文学者だから、と思ったかどうかは知らないが、とにかくドイツ文学やロシア文学に熱中していたし、ミステリーも好きで、ハヤカワのポケット・ミステリーは刊行当初から買っていた。祖父が訳したジャン・デルベ『スエズ運河』を収録した筑摩の世界ノンフィクション全集も、給料をはたいて全巻そろえた。いっぽう母は、夫とは反対に日本文学が好きで、芝木好子や佐多稲子、円地文子、瀬戸内晴美などの女流作家を愛読し、『新潮』や『群像』も毎月とりよせて読んでいたほどだから、家にはかなりてんでばらばらな方面の本がそろっていたことになる。

子供のころ、幼児用の童話の他に最初に読んだ本は、たぶん旧約聖書である。つくりつけのベッドの、頭の上の棚に置いてあった。寝る前に、アブラハムの息子はイサク、イサクの息子は・・・と読んでいると、ちょうどいい具合に眠たくなった。それから、鈴木三重吉の『古事記物語』。イザナギが黄泉の国にイザナミを訪ねると、身体がべとべとに崩れて、うじがわいていた、というところが好きだった。私の気味の悪いもの好きは、ここに端を発するらしい。そういえば、やはり頭の上の棚の、さらに上の天袋に、ひとつはずれる板があり、父が母に隠れて読んでいたとおぼしき禁断の雑誌「あまとりあ」が山と積んであった。秘密の隠し部屋が大好きな私は、その中も探検し、女性の緊縛写真を脳裏に刻んだ。私のSM好きも、ここから始まっているらしい。

祖父から、子供向けの童話がまわってくることもあった。河出書房の『アンデルセン童話全集』は、挿絵をつけた親戚すじの画家が置いていったものだろう。ここで読んだ『パラダイス』という童話が、あとで役に立った。私の研究する作曲家ドビュッシーのピアノ曲『西風のみたもの』は、『パラダイス』の一挿話にもとづいているのだから。ちなみにドビュッシーは、アンデルセンの『ある母親の物語』でも子守歌を書いている。

祖父の周辺の文士では、井伏鱒二の『しびれ池のカモ』が好きだった。カモ猟の囮にされる剥製のカモ。戦争関係者を象徴する俗物のこのカモですら、井伏の筆にかかると愛すべき存在に見えてくるから不思議だ。坪田譲治も阿佐ヶ谷会に顔を出したことがあるようだが、『風の中の子供』で、二人の幼い兄弟がオリンピックの水泳競技のつもりで、ひとりはアナウンサー、ひとりは選手になって畳の上で泳ぐ、というエピソードが心に残っている。そのあとすぐ、兄弟の家には差し押さえのトラックが来るのである。

いっぽうで私は、冒険活劇ものの大好きな、オテンバな女の子でもあった。スコットの『アイヴァンホー』、ボアゴベーの『鉄仮面』、デュマの『巌窟王』。野上弥生子訳のブルフィンチ『中世騎士物語』を読むと、お姫様よりも騎士にあこがれて、短いジャンパー・スカートにタイツをあわせ、縁日で買ってきた剣をベルトにさし、今でいうコスプレを楽しんだ。『水滸伝』では、二本の刀をふりまわす姫将軍扈三娘のファンだった。

私の世代は誰でもそうだったのではないかと思うが、小学校時代は岩波少年文庫のお世話になった。下級生のころは上級向け、上級生になると、中学向けとあるものを読んでは、自慢する。『あしながおじさん』や『ドリトル先生』ではなく、『人間の歴史』『大昔の狩人の洞穴』などの文化人類学系にひかれた。ケストナーでは、“だんぜん”『五月三十五日』が好み。何故かというと、私の誕生日六月四日を五月に換算すると、ちょうど三十五日になるからだ。

中学では、むずかしくて長い西洋文学を読む遊びが流行していた。私は長いものを読むのが苦手で、ドストエフスキーなら『罪と罰』どまりだったが、友人は『カラマーゾフの兄弟』を読破したというので、くやしい思いをした。トルストイも、『戦争と平和』はどうしても読み通せなくて、『アンナ・カレーニナ』でごまかした。ロシア文学の私のアイドルは、ツルゲーネフ『父と子』のニヒルなお医者さん、バザーロフ。いっぽうで、短くても難解なドイツ文学を好きだという文学少女がいて、かなわないな、とも思った。こうしてみると、同級生から、田口俊樹、三川基好と二人も翻訳家が出ているのも、わかるような気がする。つまりは、そういう雰囲気だったのだ。

私が高校生のとき、祖父が講談社の世界文学全集でモーパッサン『女の一生』を翻訳し、全四十八巻が送られてきた。このとき読んだ海外文学が、私の読書のベースになっているように思う。反応した順に並べると、フォークナー『響きと怒り』、ムージル『若きテルレスの惑い』、カフカ『アメリカ』、ゾラ『テレーズ・ラカン』、マッカラーズ『針のない時計』、曹雪芹『紅楼夢』。南部文学にひかれたのは、たぶん、両親ともに過去にばかりとらわれ、家全体に時間が止まったような雰囲気が漂っていたためだろう。

全集のいいところは、埋め草に使ったマイナーな作品や、その作家の初期の作品まで読む機会を与えられることだ。祖父の本棚に、昭和二十一年新樹社刊のジイド全集があり、私はその第一巻で、『アンドレ・ワルテルの手記』と『ユリアンの旅』を熱心に読んだ。ジイドは親友の詩人ピエール・ルイスと、お互いの処女作の最後のページを空白なまま残し、片方に書かせるという約束をかわした。これは実現しなかったが、ルイスは、『ワルテル』の架空の編纂者として小さな序文を書き、自分は『ビリティスの歌』をジイドに捧げた。家には、その『ビリティスの歌』の美しい原書も、堀口大学が翻訳したジイドのモデル小説『パリュウド』の豪華本もあった。いずれも、最初は、象徴派の溜まり場だったショッセ・ダンダンの独立芸術書房から出版された本だ。ジイドの『一粒の麦もし死なずば』を読み、世紀末の青春群像に夢中になってしまった私は、ここに登場する文人たちを、ほとんど自分のお兄さんのように身近に感ずるようになっていた。

のちに芸大の修士課程でドビュッシーの論文を書いた私は、彼の生涯を調べるうち、この作曲家が、ほかならぬ「お兄さんたち」の仲間うちにいて、独立芸術書房にたむろし、ここからロセッティにもとづく『選ばれた乙女』や『ボードレールの五つの詩』などの楽譜を出版していたことを知ったのである。そのときの驚きは、どんなだったろう!何しろ、私たちの世界では、ドビュッシーといえば、何やらふわふわしたピンクや水色の霧に包まれ、モネやルノワールの親戚のように思われていたのだから。私の方でも、気味の悪いもの好きの自分とは、全く接点のない作曲家のように思いこんでいたのだから。

接点がないどころか、ドビュッシーは時代を席巻していた世紀末デカダンスにどっぷり浸かり、エドガー・ポーの『アッシャー家の崩壊』で何とかオペラを書こうと、死の前年までがんばっていたのだ。ではなぜ、ドビュッシーの音楽はそうではないふうにとらえられているのだろう?このとりちがえには、音楽と文学の何か本質的な差異のようなものが関係しているのではないだろうか、と思ったのが、私のドビュッシー研究のそもそものはじまりである。

ピアノ科の学生の修士論文など、中学のレポートに毛の生えた程度でよかったから、そのときはそれですんでしまったが、留学を終えてデビュー・リサイタルを開いたところで、やっぱりどうしてもドビュッシーの謎が解いてみたくなり、お師匠さんの安川加壽子先生に直訴して、開設されて間もない芸大の博士課程にはいりなおした。

調査や研究は専門外だったけれど、自分が直感したドビュッシーの二律背反にある程度納得のいく説明をつけるために、パリの図書館にこもって大量の楽譜や資料を読んだ。

幻想文学と幻想絵画、シェイクスピア、コメディア・デッラルテ、反女性主義、メルヘン、ジャポニズム、オカルティズム・・・。ドビュッシーの興味はとてつもなく多岐にわたり、私の本棚にも、それまでは守備範囲になかった難解な評論や、おどろおどろしい書物の数々が並ぶことになる。なかでも、杉本秀太郎訳の『ドビュッシー評論集』やフィリップ・ジュリアン『世紀末の夢』、グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』、マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』は座右の書となった。

かくして、阿佐ヶ谷文士系フランス文学系ピアニスト系女流文学系神話系メルヘン系冒険活劇系文化人類学系ミステリー系SM系の読書に、芸術評論系デカダン系オカルト系が加わったわけだが、天ぷらの衣をはがした私は、週刊誌と星占いとテレビのワイドショーが大好きという、あまり学究的とはいえない趣味の持ち主である。

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