「ヴィクトリア&アルバート美術館所蔵英国ロマン主義絵画展」(読売新聞関西版 2003年2月26日夕刊)

海の音響く 静かな情熱

ターナー『イースト・カウズ城:停泊地へ向かうレガッタ』の前に立ったとき、音楽が聞こえてきた。ドビュッシーの交響的エスキス『海』の第一曲。オーボエの呼びかけと、コーラングレの応答。こちらは夜明け、ターナーは日没という違いはあるにしても。

どの絵もそうだが、ターナーはとりわけ、図版ではその魅力は伝わらない。ターナーの音楽は、実際の画布の前に立ってはじめて聴くことができるのだ。全体は不思議な蜂蜜色に輝いている。まず中央の沈みゆく太陽に目がいき、そこから海の反映に降りた視線は、まわりの船を漕ぐ人々をなぞり、はるか彼方にかすむ城のシルエットを確認するが、すぐにまた中央に吸いよせられる。

まぎれもなく光が主役。それもギラギラした光ではなく、オーケストラでいうなら詰め物をしたホルンのような。

  *

一七七五年に生まれ、一八五一年に没したターナーの生涯は、オペラではモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』からワーグナー『タンホイザー』や『ローエングリン』までを覆っている。

ターナー自身の作風も刻々と変化する。ドビュッシー研究家でもあるロックスパイザーは『絵画と音楽』で、「若い頃はハイドンとモーツァルトの様式をまねて作曲していた音楽家が、ついには電子音楽という前人未踏の領域に達したようなものだ」と書いているが、水彩画『湖と丘陵』などを見ると、なるほど彼は、「音楽とは、色彩と律動づけられた時間だ」と語ったドビュッシーの芸術をも先どりしていたのだと思わせられる。

ドビュッシーは印象主義の作曲家といわれる。たしかに、鳴り響く音の斑点をちりばめたり、はっきり輪郭を描くことをせず、色彩のマッスのような和音塊を平行移動させるやり方は、印象派の手法によく似ている。しかし、彼自身が一番好きな画家は、「芸術の中のもっとも美しい『神秘』の創造者」と評価したターナーなのであった。

あるとき、ターナーの制作の秘密を語る証言を読んで、二人の共通点が見えたような気がした。光の部分を作るために、彼はあらかじめ暗く塗った地色を水で濡らし、吸い取り紙で地の絵の具を吸い取るという。印象派の画家たちはパレットから暗い色を追放し、影の部分まで光の色で描いたが、ターナーの光は闇から立ちいでたものであるらしい。

ドビュッシーもまた、暗くなりすぎた色彩を「脱色」するために、好んで全音音階の響きを使った。光に満ちた『海』の第一楽章も、もともとは、海の嵐と難破を扱った小説にちなんで『サンギネール島の美しい海』と呼ばれていたという。

ロマン主義というと──とくに音楽や文学では──感興のおもむくままに心情を吐露するというイメージが強いが、イギリスのロマン主義絵画の場合は少し違うようだ。一見静謐で抑制された画面の中に、激しい人間のドラマが潜んでいる。

ターナーの前の離れた私は、いくつかの人物像のちょっとした表情の中に内面を探る楽しみを味わった。

レドグレイヴの『花冠を編むオフィーリア』では、ほんのひとはけで見事に狂気が描かれている。形のよい口もとの開きかげん、大きく見ひらいた目の縁のかすかな陰。

グリム童話に取材した同じ作者の『ガラスの靴を履こうとするシンデレラ』は、少女の手をとる王子の視線が強烈だ。一見紅顔の美少年なのだが、放蕩のしすぎからか目の下にクマが出ている。口の端に浮かぶ卑猥な笑い。鉛のような靴は、きっとガラスの靴ではなく、何も知らないシンデレラを陥れるためのものだぞ。そんな気がしてくる。

そして、ロセッティの『ボルジア家の人々』。顔を寄せて密談する兄チェーザレと教皇にはまされたルクレツィアのそりかえった上唇には、暗殺を画策しているというよりも、むしろうんざりした、という感じが漂っている。ブルーの瞳は無表情で、悪意よりは侮蔑を感じさせる。少し考えを巡らせれば、この場にふさわしい会話まで浮かんできそうだ。

絵によってすべてを言い尽くすのではなく、鑑賞者が想像力を駆使する部分を残しておく──。それは、「ものごとの半分まで言ってあとは夢に接ぎ木させる」ドビュッシーの信条にも通ずる。
画布の発する静かな情熱に包まれながら、私の耳には最後まで『海』が鳴りひびいていた。

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