「音楽と文学」(慶応義塾大学芸文学会誌「芸文研究」第84号)

音楽と文学── モーリス・ラヴェルとレーモン・ルーセルの場合

文学者と音楽家を比較して論じようとする場合、どちらの側に足場を置くかによって方法論や意味づけも変わってくるだろう。

フランス近代の作曲家モーリス・ラヴェルの音楽の秘密を、ダダイスト、シュールレアリストたちに崇拝され、デュシャンに決定的な影響を与えた作家レーモン・ルーセルをキーワードに読み解こうとする目的は、ラヴェルに冠されている印象主義のレッテル──学者たちは一様に否定しているが、演奏家や教育者の間には根強くはびこっている──をひきはがすことにある。私は以前、やはりフランス近代の作曲家クロード・ドビュッシーの音楽と世紀末デカダンスの関わりにおいて、同様の作業を試みた。

ラヴェルもまた、ドビュッシーと同様印象派の絵画には関心を示さず、ユイスマンス『さかしま』やリラダン『未来のイヴ』、ボードレール『悪の華』を耽読し、ポーの『詩の原理』を作曲の手本にした。同じ美学を信奉しても、二人には13歳の年齢差がある。1918年に没したドビュッシーに対して、ラヴェルは1930年代初めまで、つまり、ブルトンのシュールレアリスム宣言後も作曲をつづけた。世紀末デカダンスの方法論が、人工美礼賛を標榜しながらも、本質的には自然や人間にかかわる有機的なものから抜け出られなかったのに対して、ラヴェルのそれは、もう少し違った方を向いていたように思う。

ある貴婦人のサロンで、「わたしは、綺麗な女性より、綺麗な機関車を好みます」と叫んだラヴェルは、多くの作曲家がくり返し探求した愛と死のテーマを決してとりあげなかった珍しい作曲家である。1905年にラインの工業地帯を旅したとき、鉄や火の大伽藍、コンベアベルトや汽笛やハンマーの音が作り出す「驚くべき交響楽」に魅せられ、「すべては何と音楽的なのでしょう、ぼくはいつかきっとこれを使うつもりです」と書いている。この点で彼は、「自然の声を聴け」と言ったドビュッシーの対極に位置していた。

ラヴェルとルーセルが私という磁場でひびきあったきっかけは、ミシェル・カルージュの評論『独身者の機械』である。カルージュは、ルーセルの『アフリカの印象』や『ロクス・ソルス』を、ポー『陥穽と振子』、リラダン『未来のイヴ』、ジャリ『超男性』、カフカ『流刑地にて』など一連の機械文学の中に位置づけているが、これが私に、ラヴェルの機械好き、あらゆる人工的なものへの偏愛を思い起こさせた。このことについては、旧著『水の音楽』でもいくらかふれている。

独身者たちの創作態度は多岐にわたっているが、共通しているのは、芸術を狭義の自然や自然の一部としての人間から切り離してしまったことだろう。カルージュによれば、独身者の根底には「人間的感覚のある種の喪失、女性との協力や合体の不可能がある」。この場合の女性とは、自然の象徴である。ピカビアの一連の機械画「母なしで生まれた娘」云々は、作品が自然を描写したり、人間の感情や感覚を分析したりする創作方法によって生まれなかったことを意味している。「母なしで生まれた娘」は、この世に生を受けたあとも全く人類や文明の進歩のために働かず、ひたすら非生産的な徹底的に無用な機械でありつづける。ここで連想されるのが、ラヴェルの『高雅で感傷的なワルツ』のエピグラフ「無益な仕事の、常に新たな、えもいわれぬ喜び」(アンリ・ド・レニエ)である。

作曲家と同時代に生きた碩学ジャンケレヴィッチは、「ラヴェルの発明の才は、レオナルドのそれのように人間の必要に役立つ工業技術にうまく合うどころか、むしろ『物』、とくに生命あるものをまねる物の制作に合っていた。(中略)技巧において第一に彼を惹きつけるのは、ひとりでに生きて動く子供を産むことができる造化の神や魔術師の想像力がもつ創造の能力である」(『ラヴェル』福田達夫訳)と分析している。ラヴェルは、「自然が芸術を模倣する」というワイルドの言葉を好んでいた。

一般的な観点からすれば、ラヴェルとルーセルの間には少しも似たところがないだろう。控えめな常識人ラヴェルと、自意識過剰な世捨て人ルーセル。作曲家の登竜門であるローマ賞コンクールこそ五回も失敗したが、さほど苦労せずに社会的成功をかちえたラヴェルは、作品の大半を注文によって書きあげた。いっぽう、現実生活の敗者ルーセルは、独特の流儀で書いた作品のすべてを自費出版し、無視とスキャンダルとピントはずれな賞賛に絶望し、ラヴェルの脳障害が最初の兆候を示した1933年、自作の解読方法を記した『私は如何にしてある種の本を書いたか』を残して、自殺してしまった。
しかし、この突飛な組合せには、意外な共通点も多いのである。

ラヴェルとルーセルは、ともに生涯を独身で通し、おそらくは男色者だった。(ラヴェルが組織した独身の男性グループ「アパッシュ」のメンバー、レオン・ポール・ファルグは、『超男性』の作者ジャリと一時関係があった)。母親を熱愛し、子供時代の思い出をいつまでもひきずっていた。二人とも華奢で優雅なダンディであり、着るものにことさらに気を使った。細かいことに神経質で、ごく親しい者以外には王侯のように慇懃でよそよそしかったという。

ラヴェルとルーセルの年譜をすりあわせた私は、この二人がほぼ同時期にパリ音楽院のピアノ科に在籍していたことを知り、快い驚きにおそわれた。以下に、同時代のパリに生きながら全く接点がなく、にもかかわらず妙にリンクするところの多い二人の自己形成期を追ってみよう。

モーリス・ラヴェルは、1875年3月7日に生まれた。父親はサヴォア地方出身の技師で、「運動に応用された、石油で熱せられる蒸気機関」と「加圧された二サイクル発動機」の発明者だった。まだ幼いころ、父親は、彼と弟のエドワードを工場に連れて行っては、機械類の見学をさせたという。母親はバスク地方の生まれで、モーリスを溺愛した。

7歳でピアノを始めたラヴェルは、89年秋、14歳でパリ音楽院ピアノ予備科に入学。2年で卒業し、91年秋には、本科のベリオのクラスに登録している。同級生に、スペインのピアニスト、リカルド・ヴィニェスがいた。ラヴェルにボードレールやレニエ、アロイジウス・ベルトランの『夜のガスパール』を教えたのは、このヴィニェスだった。

レーモン・ルーセルが生まれたのは、ラヴェルの2年後の77年1月20日。父親は株式仲買人で、作家ミシェル・レリスの父の上司だった。ルーセルが17歳のとき死去したため、レリスの父が遺産管理人となった。母は大資産家の娘で音楽を愛し、オペラ座の常連、自宅でしばしば家庭音楽会を開いている。

1890年秋、13歳になったルーセルは、母親の希望で高等中学をやめ、パリ音楽院を受験したが、聴講生としてしか受け入れられなかった。翌年、つまりラヴェルが本科に進んだ年にも再度受験、予備科に合格したが、入学した形跡はない。ようやく本科のピアノ科に入学するのは93年秋、16歳のときである。ドビュッシーの作曲の師だったギローの『アレグロ』を弾き、満場一致で合格、ディエメのクラスに登録した。当時このクラスは音楽院の花形で、同級にコルトー、ラザール・レヴィ、ルイ・オーベールらがいた。

このころ、ルーセルは自作の詩に合わせて歌曲の作曲を試みている。言葉はすぐに出てくるものの、メロディの方が思い浮かばず、ひそかに音楽を捨てる決心をした。ちょうど同じころ、18歳のラヴェルも作曲の習作を行い、ピアノ曲『グロテスクなセレナーデ』や歌曲『恋に死せる女王のためのバラード』を書いている。

1895年、ルーセルの同級生コルトーは、当時20歳のラヴェルの印象を「皮肉な調子になりやすい、理屈屋で少しよそよそしい青年で、マラルメを読み、エリック・サティと親しくつきあう」と書いている。この年の7月、卒業試験に失敗したラヴェルは、パリ音楽院を退学しなければならなかった。コルトーの方は翌年7月、一等賞を得て卒業。ルーセルも同じ試験でショパン『幻想曲』を弾いたが、次点第二席にとどまった。

ルーセルが処女作の韻文小説『代役』を書き、有名な「栄光の感覚」を体験したのも、同じ96年である。「彼は昼も夜もほとんど絶え間なく仕事をし、少しも疲れた感じがしなかった。彼は自分が少しずつ異様な熱狂に浸されてゆくのを感じた」と、彼を診察した精神科医は記録している。「或る特別な何かがあって、自分が傑作を作っていること、神童であることを感じさせるのです」。翌97年6月には『代役』を自費出版したが全く無視され、「栄光の感覚」が裏切られる思いがした。

1989年1月、再びパリ音楽院に戻ったラヴェルは、フォーレの作曲のクラスに登録し、個人的にジェダルジュに対位法を学んでいる。国民音楽協会で3月に『耳で聞く風景』、4月には『古風なメヌエット』が初演され、作曲家としてデビューを飾った。

同年6月、まだピアノ科にいたルーセルは、試験でショパン『舟歌』とバラキレフ『イスラメイ』という難曲を演奏した。パリ音楽院では、指導教官が担当の生徒について覚書を提出するシステムになっており、ディエメは、「すばらしい生徒、非常に傑出したピアニスト的長所随所にあり、飛躍的進歩をとげた」と記している。

しかし、7月の卒業試験でショパン『スケルツォ第一番』とベートーヴェン『ソナタハ長調』のフィナーレを弾いたルーセルは、選外一等にとどまった。審査員長デュボアは、「かなり良質な点随所にあり。ときとして硬質な点あり。かなりうまく歌い上げている。しかし、首席には不十分。午後成績読み合わせ。次席または首席褒状とする」というメモを残している。一等賞を取るつもりでいたルーセルは、気も狂わんばかりに怒ったというが、やはり職業演奏家としては表現や技術に固さが残ったようだ。11月、ルーセルは3年の兵役に就くことになり、再び音楽院に戻ることはなかった。

ラヴェルが最初のローマ賞コンクールに失敗した1900年、ヴェルサイユに軍楽兵として配属されたルーセルは、短編 『爪はじき』 を書いている。 『私は如何にしてある種の本を書いたか』によれば、billard(玉撞き)とpillard(盗賊)という音の似た2つの単語を思いついたルーセルは、 2つの語を最後に置き、綴りは同じで意味の異なるいくつかの単語を加えて二つの文章をつくったのち、一方が最初の文となり、他方が結尾文となるような物語を展開させた。この手法は、『アフリカの印象』(1910)や『ロクスソルス』(1914)でさらに発展させられることになる。

音楽院時代もその後も、ルーセルがラヴェルと親交を結んだ形跡はないし、お互いがお互いの作品を好んだという話も全く伝わってこない。二人の相似は、もっぱら『独身者の機会』の文脈の中に認められるだろう。カラデックの評伝でルーセルの生涯を追い、フーコーのルーセル論やレリスの回想、日本への紹介者岡谷公二のエッセイに目を通した私は、至るところにラヴェルとの照応を見る思いがした。

「ルーセルは、束縛からの開放を欲求するより、開放されるために、まず束縛されることを必要とする人間であった。正確さ、厳密さ、秩序、規則性──これは、彼の作品と生活を支配する大きな特徴である。その点で彼は、自身もそう信じていたように、明らかに古典主義の側に立つ作家であった」(岡谷公二『レーモン・ルーセルの謎』)

ラヴェルもまた古典主義者であり、厳密な書法、規則性の中に自分自身を埋没させる作曲家だった。「ラヴェルのどの作品も、なにかある解くべき問題、遊ぶ人が遊びの規則をことさらのように複雑にするゲーム、の観を呈している」とジャンケレヴィッチは言う。「彼は自ら足枷を自分に課すし、かつてニーチェがいったように、『鎖につながれて踊る』ことを学ぶ・・・・」(『ラヴェル』福田達夫訳)

ラヴェルの足枷は、他人の流儀である。『水の戯れ』 のリスト風、『ラ・ヴァルス』 のウィンナ・ワルツ風、『クープランの墓』 のヴェルサイユ楽派風、『ツィガーヌ』 のジプシー風、『ヴァイオリン・ソナタ』 のブルース風、『スペインの時』 のオペラ・ブッファ風。パスティーシュの中で、彼の並はずれた職人芸は最大限に活かされた。

いっぽうルーセルは、自分で自分の足枷を考案した。作品には「全くの想像から生まれた言葉の組合せのほかは」何ひとつ持ち込むべきではないと主張する彼は、ただひたすら、独自の言葉の法則だけをたよりに、自己表出の全く欠落した小説世界を創りあげた。遺作『私はいかにして或る種の本を書いたか』では、彼があみだしたゲーム──地口、語呂あわせを出発点とする創作方法──の詳細があきらかにされている。遺作『私はいかにして或る種の本を書いたか』では、彼があみだしたゲーム──地口、語呂あわせを出発点とする創作方法──の詳細があきらかにされている。
もっとも、フーコーによれば、この種あかしすらも二重の暗号なのである。

「この本の中には情報はいろいろ見いだされるが、告白はまったく見いだされない。だがそれでも、何ごとかが、絶対的に、告白されているのだ」(『レーモン・ルーセル』豊崎光一訳)
それは奇妙に、ジャンケレヴィッチによるラヴェル論の一節を思いおこさせる。
「なにもないということにしろ、逆のものにしろ、別のものにしろ、それはつねに何物ではなかろうか?」
(『ラヴェル』福田達夫訳)隠蔽された告白の一致。しかし、告白の内容には微妙なずれがある。ジャンケレヴィッチの目には、ラヴェル音楽の無感覚な性格も自己表出の乏しさも、故意の言い落とし、心情の秘密をさとられないための、一種のかくれみのと映った。
「ラヴェルはなによりもまず、自分以外の人間になる術の大家になったのであって、自己の内面の真実を覆い隠すために現実の世界を用いるのである。(中略)要するに、彼は自分について語らなくてもよいように物について語るのである」(同前)

いっぽうルーセルのケースは、「裏返しのロマンティシズム」で片づけられるようななまやさしいものではない。岡谷公二は、「内面とは彼にとって、神経症の待ち構えている、おぞましい汚水溜にすぎなかった。彼は、子供が嫌いな食物を拒否するように、内面を拒否する」と分析する。
「彼の唯一の関心事である創作に当たっては、なんとしてでも作品を、内面の汚染から守らねばならない。しかし彼は、想像力が、なんらかの処置を講じないかぎり、内面という底荷を振り捨てえないことをよく承知している。想像力を無垢に保つための処置、それが彼の有名な方法(プロセデ)であった。その方法が、内面を切り捨てる結果になったのではない。内面の拒否が、彼の方法という苦肉の策を生んだのである」(『レーモン・ルーセルの謎』)

ルーセルとラヴェルのピアノ演奏には、こうした資質の違いがはっきりあらわれている。鉄面皮で知られるラヴェルだが、意外にもピアノは抒情派だった。18歳でショパン『バラード第四番』を弾いた試験では、感情をこめて演奏するが、自分をコントロールできていないと非難されている。翌年の試験でシューマン『幻想曲』を弾いたときも、情熱的な性格の持ち主で表現が過剰になるきらいがある、抑制されるべきだと評されている。

ルーセルの方は、どちらかというと技巧派だったようだ。17歳の1月に弾いたショパンの 『スケルツォ』 では、「大変知的。随所に精緻の長所あり」という覚書が残っている。18歳のときの試験ではリスト『練習曲変ニ長調』を弾き、ディエメは、「すばらしい生徒、極めて精緻な音楽的特性を備え、大進歩のあとあり」と賞賛した。20歳の試験でルービュンシュタイン『練習曲ハ短調』を弾いたときなど、「全く正確な機械仕掛け」という、いかにもありそうな覚書が残っていて面白い。

ピアニスティックな面で恵まれなかったラヴェルは、ヴィルトゥオジティに憧れ、名人芸を披露する作品を書いては、演奏家を困らせた。ヴァイオリン独奏曲『ツィガーヌ』は、パガニーニ『24のカプリス』 の研究から生まれた。ルーセルが98年の試験で弾いた『イスラメイ』 は、彼にとっては特別な意味があった。組曲『夜のガスパール』 の第三曲「スカルボ」は、『イスラメイ』 よりも難しい曲にしたいと思って書かれたのである。ルーセルの腕前はかなりなもので、少なくともラヴェルの比ではなかったことがわかる。

ルーセルは、職業演奏家を断念したのちも、しばしば弾き語りをする姿を目撃されている。レリス家でのルーセルは、シューマン、シューベルトを弾き、レイナルド・アーンやオギュスタス・オルメス、ポール・デルメなどの歌曲やシャンソンを弾きながら歌った。また、マスネーの 『マノン』 『ウェルテル』、オッフェンバックの 『ホフマン物語』 『天国と地獄』 、プッチーニの 『蝶々夫人』、レーエルの 『サランボー』 、ワーグナーの 『ローエングリン』 『タンホイザー』 の全曲について、すべての役をこなして弾き語りしたというから、もし本当だとしたらすさまじい聴覚能力である。ドビュッシーがワーグナーの 『トリスタン』 全三幕を暗譜で弾けると言ったとき、誰も信じなかったほどなのだから。

ルーセルは、『私は如何にして或る種の本を書いたか』の末尾で、弾き語りや物真似をしているとき以外は、満場一致で成功しているという感覚を得られなかったと告白している。ピアノ演奏やパフォーマンスは、その場ですべてを吐き出し、その場で発散される。うまくいけば、満場一致の称賛を得ることができる。しかし、文学ではなかなかそうはいかない。成功する作品もそうではない作品も、反応は徐々にやってくる。しびれを切らしたのか、ルーセルは『アフリカの印象』や『ロクスソルス』を舞台にかけている。なるほど反応はすぐにやってきたが、怒号と口笛がとびかうスキャンダルになった。

そんなルーセルに音楽がもたらしたものとは、いったい何だったのか?
ルーセルは、『私は如何にして或る種の本を書いたか』 で、ひとつの言葉を二つの意味にとり、さらにそこから全く違う方向に発展させてひとつ文章をつくりあげる作業、その文章をさらに読みかえて、全く別のモティーフをつくる作業について説明したあと、「この方法は、要するに脚韻に近い。いずれの場合においても、音声上の組合せから思いがけない着想が生まれる。これは、本質上、詩の方法である」と書いている。

ルーセル自身も気づいていないことがある。彼は、詩の方法を散文に応用した。しかし、語呂合わせやアナグラムを使うだけなら、そういう詩人や作家は沢山いるだろう。ラヴェルもこの種の言葉遊びが大好きで、アパッシュのメンバーと「面白音楽辞典」をつくり、たとえば「ヴィオール犯罪とみなされる古楽器(ヴィオルは弦楽器とレイプの二通りの意味がある)」などの項目を執筆している。自作の詩による歌曲『おもちゃのクリスマス』では、機械仕掛けの動物たちが 「ノエル、ノエル(クリスマスの意)」と鳴く。コレットが台本を書いたオペラ 『子供と魔法』 も、シュールレアリスムの影響を受けて、地口や野卑な駄洒落、言葉の読みかえのオン・パレードである。

違っているのは、意味が通じるか通じないか、である。ミシェル・レリスはルーセルに関するインタビューの中で、「脚韻ってのは、半分語呂あわせじゃありませんか?ただ、違うのは、脚韻はすぐわかるけれど、彼の言葉遊びはそうじゃないってことです」と語っている。

普通は、韻を踏んでも言葉遊びをしても、意味が通じるようにするだろう。いくら難解な作品でも、解きほぐしていけば、何らかのメッセージが伝わるようにはするだろう。しかし、ルーセルはその作業を行わない。全く抽象的なまま放り出している。もしかしたらこれは、作曲家の発想ではないか?と、ふと思ったのである。音楽は本来抽象的なもので、概念を固定できないからだ。

ルーセルは、ちょうど作曲家がさまざまな音の組合せでモティーフをつくり、それをばらばらにしたりくっつけたり、リズムを変えたり異名同音で読みかえたりしながら、ひとつの時空建造物をつくっていくように、言葉で作曲しようとしたのではなかったろうか。

人々は、彼の作品が荒唐無稽だという点で非難したり、 とびぬけた前衛芸術であると絶賛したりした。しかし、ルーセルには、非難の理由も賞賛の理由もわからなかった。音楽発想のルーセルにとって、意味が通じないということは何ら支障にはならなかったのだから。彼が賞賛されたかったのは、ちょうどバッハが巧妙なフーガをつくるように、あらゆる方法でモティーフをばらばらにしたり結びあわせたりしながら、最後にはつじつまを合わせて緊密な構築物をつくる、その手腕だったのだから。

ルーセルは、「本質上」作曲の方法で小説を書いたのではないか、というのが、まだ証明づけるには至っていないが、私なりの直観である。

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