【書評】小川洋子 著「博士の愛した数式」(サンデー毎日 2003年9月21日号)

80分で消える記憶だから

原稿の依頼が来ると、壁にはりつけることにしている。原稿だけではない。コンサートの招待、雑誌の切抜き、貸衣装の即売会。そうしないと、あっという間に机上のトロイ遺跡に埋もれてしまう。

本書の「博士」は、メモを背広のあちこちにクリップで留めている。単なる健忘症ではない。彼は、ある事故がもとで頭を打ち、八十分しか記憶がもたないのだ。

記憶がどんどん失われるというのは、どんな気持ちだろう。友人の縁者が急性アルツハイマーに罹り、時計とカレンダーを抱いて部屋をぐるぐるまわっていたという話をきいたことがある。蟻地獄のように、記憶がすべり落ちる。

「私」は、そんな博士のもとに派遣された家政婦だ。数論専門の大学教師だった博士は、初対面の人を見ると数字の会話をする。八十分たつと忘れてしまうから、毎朝が初対面。「君の靴のサイズはいくつかね」「24です」「ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ」といったぐあい。博士の好きな江夏豊の背番号28は、約数の比に等しい完全数。

博士は、家政婦の十歳の息子を「ルート」と呼び、とてもかわいがっている。「ルート」は阪神ファンで、毎晩ラジオで野球放送をきく。ときは一九九二年、バルセロナ五輪の年。新庄は活躍しているが、江夏はとっくに引退。しかし、博士にとってはまだ阪神のエースだ。彼の記憶の蓄積は、事故に遭った一九七五年で終わっているのだから。

博士の稟とした静けさは、孤高の剛湾サウスポー江夏の存在感を思わせる。オールスターでの九者連続三振。自分でサヨナラホームランを打ち、一対〇で勝ったノーヒット・ノーランの試合。江夏は絶対の勝利を求める。博士も数学に絶対の真実を求める。

「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ。数学はその姿を解明し、表現することができる。なにものもそれを邪魔できない」

脳の障害で研究職を失った博士は、雑誌の懸賞問題への投稿に打ち込む。継続した記憶がないのに、どうしてひとつの問題を継続して考えられるのか不思議だが、大学ノートと無数のメモが考察の消滅を補っているらしい。

博士の記憶の仕組みは、常人には把握しがたい。八十分単位で失われるのか、ひとつの記憶ごとに八十分でリセットされていくのか。ときに八十分以上記憶がもつシーンがあるような気もするが、寓話として読むべきなのだろう。

  *

物語と並行して、一九九二年の阪神の戦いぶりが紹介される。阪神の最後の優勝は八五年だから、読者は、この年阪神が勝てなかったことを知っている。しかし、博士と家政婦とルートと数学をめぐる濃密な時間の中で、いっときは読者も、もしかして阪神は優勝するのではないかという錯覚にとらわれるのだ。それにつれて博士の記憶も回復するのではないか、と。

数学の問題を解いているときの博士は、家政婦も話しかけられないほど集中しているが、いったん証明づけると実に淡泊になる。自分がどれだけ情熱を注いだかを訴えもせず、見返りも要求しない。

家政婦とルートも、博士に見返りを要求しない。何しろ記憶がとぎれてしまうので、いくら尽くしても親身になっても、蓄積されるということがない。だからこそ、八十分ごとに更新される彼らの友情は、無垢のもの、数学のように絶対の真実なのだ。

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